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普天間基地問題をめぐって


佐藤清文

Seibun Satow

2010年5月31日(6月2日掲載)


無断転載禁


「沖縄県民かく戦えり。 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」。

大田実

「日本を守っているのは君たち軍人だけではない。皆で力を合わせていくべきだ」。

徳川義寛


第1章 実証性を欠いた安保論議

 軍事は、合理的判断に指揮されて、場所・空間を制圧支配する主に物理的暴力であると定義できる。その検討には定量データなどの具体的なエビデンスに基づいた実証性が不可欠である。軍事は、あらゆる面において、科学である。特に、国家の安全保障にかかわる場合であれば、なおさらである。しかしながら、今回の普天間基地をめぐる議論においてそうした実証性が希薄だと言わざるを得ない。

 与野党を問わず、現行案を支持する政治家や官僚、マスメディアには、実態の追認やイデオロギー的規範が目立つ。理論の積み重ねに乏しく、断片的な聞きかじりで、実感や経験による大づかみの印象論に終始している。これまでの体制で日本が戦争に至らなかったというのは後知恵にすぎない。他に最適な選択肢があったにもかかわらず、政府がそれを怠ったということも否定できない。

 普天間基地の危険性は以前から指摘され、国内外の環境の変化や軍事技術・理論の進展にもかかわらず、沖縄の米軍基地返還はあまりにも遅すぎる。変更した場合の結果を予測できないので、日本政府は消極的になり、ショートカットに逃げ、惰性に任せてしまっているようにさえ見受けられる。

 その一例が「抑止力」である。この概念は、合理的に考えれば、攻撃を加えることは得策ではないと仮想敵が思いとどまる軍事力の備えである。これは、そのため、破れかぶれの相手や狂信者には成り立たない。これだけの防衛力を用意していれば、十分に仮想敵が先制攻撃をしてくることはないという具体的な定量データに立脚した検討を示さずに、「抑止力」など軽々に口にすべきではない。軍事は科学である以上、仮説=検証の実証性が必須である。

 徳之島に500人規模のヘリコプター部隊の訓練を移すという案が政府から提示されている。海兵隊は、旧日本軍で言うと、海軍陸戦隊に当たる。陸上部隊の編成上の独立して作戦する単位が師団である。500人の規模は連隊、実際には大隊レベルでしかない。アメリカの歩兵部隊の場合、通常の前線を3km強を維持するのに必要な人員がこの500人である。軽装備で機動性を重視した揚陸部隊である一般の海兵隊員500人でできることとしたら、サイゴン陥落の際の救出作戦といったところだ。

 ちなみに、2・26事件において20人の青年将校が率いた兵員数は1480名程度である。これくらいでは民間施設の制圧は可能であるが、大規模戦闘はできない。

 基地問題を論じる際に、中国や北朝鮮の脅威を挙げる意見をメディア上で目にする。しかし、この反論には定量データを示すほどでもない。

 朝鮮半島有事の際に、民族統一こそが悲願なのだから、第一に対峙するのは日本ではない。韓国、次いで在韓米軍である。北朝鮮が核開発に踏み切った主な理由はアメリカに対する「抑止力」である。日本が備えるべきは難民流入と北攻撃に使用された在日米軍を主なターゲットとした破壊行動である。果たして米軍基地をおいていることが北朝鮮問題に限ってみれば、日本の安全を保障するか首を傾げたくなる。

 また、中国の軍拡にしても、高度経済成長期の日本の防衛力の近代化を思い出させる。けれども、あれだけ防衛線が長いために、伝統的に人海戦術に頼る陸軍国だった中国の軍の近代化は迅速には進まない。おまけに、インフレに伴い、兵士の給料も上げなければならない。

 注意しなければならないことは、中国がもう社会主義国ではないという事実である。これは、事実上のみならず、イデオロギー的にもそうだという意味である。中国共産党はイデオロギー政党であって、それを曖昧にはできない。2002年、党規約を中国労働者階級の前衛から、それと同時に、中国人民ならびに中華民族の前衛であると変更している。中国共産党はナショナリズム政党であり、「国民党」と改名してもおかしくはない。

 そもそも中台共に武力統一を放棄し、アメリカも現状維持を望んでいる。それを崩そうとした動きが出ると、アメリカは必死になって抑え込もうとする。東西冷戦の発想で中国を見ているとしたら、時代錯誤としか言いようがない。

 正直、国内では自衛隊の戦力が過小評価されている。自衛隊は、現在、世界有数の軍隊である。中でも、海上自衛隊の実力は米海軍に次ぐと言っても言い過ぎではない。これは、地政学的に考えれば、容易に理解できる。日本の領土はおよそ38万平方kmで、世界で60番目前後であるが、排他的経済水域を含めた海洋権利の広さは447万平方kmに及び、十指に入る。

 なお、合衆国海軍は戦前から一貫して世界最強の海軍である。かつての鎮守府である横須賀や佐世保を使用する第七艦隊一つだけで、いかなる国家との交戦も可能である。帝国海軍はアメリカ海軍をモデルにすると同時に仮想敵とするエディプス・コンプレックスにとらわれている。ドイツをモデルに、ロシア(ソ連)を仮想敵に定めてきた帝国陸軍とは、そのため、体質に相当違いが見られる。


第2章 不透明な政策決定過程

 確かに、防衛大学で総合的・体系的に軍事理論を学んだ参謀クラスでなければ、厳密には、実証性のある論議はなかなか困難である。軍事技術に関する知識や現代的な軍事理論に通じている人は、市井には極めて少数だろう。ただ、世界の軍事力の実情に関しては、英国のシンクタンクIISSが発表している『ミリタリー・バランス(Military Balance)』を読めば、相当知ることができる。防衛省がこの日本版を刊行している。

 軍事におけるリテラシーとコミュニケーションの不足は、市民自身ではなく、専門家の姿勢に問題がある。定量データを分析・提示した上で、一般市民を納得できるように、政在日米軍の適正規模・配置や思いやり予算を含めた米軍関連予算の妥当性が政府や専門家から説明が十分なされてきたかはなはだ疑問である。そこには、他の分野同様、さまざまな既得権益の思惑が透けて見える。しかし、そうした逃げ腰の姿勢で国家の安全を保障できるわけもない。

 いわゆる背広組と制服組は、戦前で言うと、軍政と軍令に相当する。米軍基地の問題は軍政に属する。軍令のことはわからなくても、納税者たる一般市民にも十分に軍政に関しては発言権がある。米軍基地をどこに置くかは、別に軍事機密に入らない。政策決定の過程を透明化するのは、今日、行政では当然の流れである。

 普天間基地返還が、いつの間にか、移設に変更され、40あまりの候補地を検証した結果、現行案に決定されている。しかし、このプロセスを一般市民はおろか、関係自治体の住民も承知していない。そもそも参加させられていない。公聴会等で沖縄に駐留する意義を突き上げられる米軍の将軍たちは、日本の状況をうらやましく思っていることだろう。

 もっとも、一般市民であっても、アナロジーを用いて基地問題を考えることはできよう。さまざまな優遇措置を受けた企業がある地方に進出する。首長は実績だとアピールするが、地元経済はさっぱり上向かない。そうこうしているうちに、恥知らずな不祥事をその支店が起こし、社内の経営戦略の見直しもあり、閉鎖が決定される。けれども、優遇措置があるから、営業所を残すことにしたが、地元住民の眼は厳しく、そこにいても先があるわけでもない。地元にしたところで、優遇措置にただ乗りされているだけで、むしろ、負担になっている。

 経済面から基地問題を取り上げ、擁護する意見も耳にする。中には、雇用を創出しているという主張さえある。しかし、これまでの振興策が沖縄の経済発展につながらず、たんなる見返りにすぎなかったことは、沖縄県民ならよく知っている。けれども、普天間問題はともかく、沖縄の基地の全面返還となると、それで生活している人たちもいるから、意見がわかれるという見方も根強い。土地の権利関係もあやふやなままだ。とは言うものの、沖縄における基地の経済に占める割合は5%程度と時折本土のメディアでも眼にするが、悪影響の定量データを報道しているケースは少ない。

 ちなみに、かつて本土で最も占領されたのは横浜市である。港の90%、市街地の38%が米軍に重用され、横浜市の戦後の経済復興はこの返還なくしてはありえない。

 基地を維持したまま、いくら振興策を実施しても、無駄である。経済成長には自由な経済活動や流動性の要素が必要であるが、基地はそれを阻害するので、いいとこ横ばい状態をもたらすにすぎない。軍事が経済成長に貢献するのなら、北朝鮮は東アジア随一の経済大国になっているはずであろう。


第3章 米兵による犯罪問題

 歴代沖縄県知事が訴えてきたように、米軍基地の問題は、安全保障に限定されない。基地関係者が治安悪化の原因となるという危惧がある。米兵による殺人・強盗・強姦等の凶悪犯罪の発生率は、明らかに、日本国内と比べて高い。かねてより、沖縄のみならず、本土の市民から彼らは軍人ではなく、ギャングと見られている。汗水流して稼いだ収入から納めた血税を犯罪者にくれてやるのは納得いかないだろう。

 米軍基地関係者による犯罪率は、なるほど、アメリカ本国と比較して決して高くない。しかし、これは次の二つの点で弁護にならない。

 第一に、彼らが駐留しているのは、日本であって、アメリカではない。治安も国家権力にとって最大の関心事の一つである。治安の悪化は権力は信頼感を失墜し、徴税の正当性を失わせかねない。

 第二に、一般市民には許されていない暴力の行使を許可されている軍人には、一般市民以上のモラルの水準が要求される。犯罪率は市井以下でなければならない。図にのってはいけない。

 基地問題を安全保障の観点からだけで論じることは、少なくとも、日本においては片手落ちである。一言で言って、現段階で一般市民にとって在日米軍はギャングであり、思いやり予算等はみかじめ料にすぎない。安全保障面から在日米軍を擁護する主張が暴力団を必要悪とする論理と非常に似ていることに驚かされる。

 国内における在日米軍の基地を全面撤廃すべきだという見解は、その意味で、当然とも言える。暴力団を追放するというのは官民上げての方針だからである。これを侮るほうが問題の本質をつかんでいない。普天間基地は危険である。しかし、それよりもまず米兵がいること自体が脅威である。社会面のトピックと捉えられているのに、基地問題を安全保障や外交、国際政治の枠組みで論じようとすること自体が滑稽に映ってしまう。関係者は、最低限、この情けない現状を直視すべきだ。軍事のリテラシーの関する議論もその後でいい。

 沖縄の基地問題は安全保障どころか、暴力団追放のレベルにあるのが実態である。アメリカとの交渉もそこから始めなければ、この懸案事項は進まない。


第4章 鳩山首相の責任

 今回の普天間基地問題の混迷の最大の原因は鳩山由紀夫首相にある。安全保障の事案で、外務官僚が動かないのは半ば常識である。政策変更の結果に生じる事態の責任をとりたくないために、彼らは現状維持を狙う。この態度を理解できないわけでもない。国家の最重要課題の一つである安全保障の政策変更を有権者から選挙で選ばれているわけでもない官僚が決めていいのかという疑問があるからだ。こうした変更は首相自らが積極的に動かなければ、打開しない。60年安保改正も沖縄返還も外務官僚は反対していたが、岸信介や佐藤栄作といった首相が自ら進めて実現にこぎつけている。

 一般的に、吉田茂首相は、経済成長を優先させるために軽軍備にして、安全保障をアメリカに依存したと思われているが、これは誤謬である。ポツダム宣言の第10項に「日本国政府は、国民の間の民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし」と記されている。それに対し、1945年9月20日にダグラス・マッカーサーGHQ司令官と会談した際、吉田茂外相は民主主義は「富める国の産物」であって、軍国主義や共産主義を防止するには経済成長が不可欠であると説いている。彼は、日本の経済成長こそが軍国主義や共産主義の進展を抑制し、ひいては世界の安全保障につながると考えていたのであって、その軽武装論は「人間の安全保障」の魁とも言える。吉田の認識と比較して、今のマスメディア上を支配するリアリズムを自認する論説があまりにも浅はかで、恥ずかしくなるほどだ。このヴィジョンに基づき、ワンマン宰相はアメリカからの再軍備強化要請を斥けるべく王道している。

 こうした先人たちと比べてはっきりするのは、鳩山首相に欠けているのは決断力ではない。行動力である。

 〈了〉

参考文献
林俊彦他、『世界の中の日本』、放送大学教育振興会、2009年

佐藤清文、『持久的辮証法─毛主席』、2002年
http://hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/mao.html
佐藤清文、『戦争と社会階級』、2010年
http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/war.html
IISS
http://www.iiss.org/publications/military-balance/