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近代における長寿


佐藤清文

Seibun Satow

2010年8月3日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「なぜ世界は(二番目の文字)ベートの文字で造られたか。ベートは三方がふさがり正面が開いている。これは上と下と後ろを調べてはいけないということである」「観客のみなさんも、ぼくの第五幕に、喝采を送ってください。人生という芸能も、ハッピーエンド(「幸福な死」とも訳せる)がなにより」。

森毅『ハッピーエンドの人生』

 2010年7月28日、足立区で111歳とされていた男性が32年前に死亡していたことが発覚する。それが冷めやらぬうちに、杉並区内の113歳の女性の行方がわからないことが判明している。

 この出来事をめぐって行政の対応を非難する前に、近代社会における長寿者を考える必要がある。前近代と近代では長寿の意味合いが違う。

 前近代の村落共同体では、加齢は経験と知恵の蓄積を意味する。ある一定年齢になると、家の仕事を手伝い始め、担い手として後を継ぐと、親は引退する。息子夫婦が老後の面倒を見るが、親は家業のことや共同体でのつきあい方など何かと相談にのる。しかも、農林水産業は一世帯だけでなく、共同体全体で協力して行われる。家業に詳しくなると、共同体のこともわかってくる。高齢者は、村の中でも、ご隠居や長老として尊敬され、その判断は共同体の規範である。前近代社会では、世界的に見ても、高齢者の地位が高い。神話では、『創世記』のアブラハムのように、中心的登場人物が長寿であることも少なくない。

 一方、近代社会では、多くの人々が何らかの賃金労働に従事している。従業員であれ、経営者であれ、公務員であれ、その仕事は一代限りのものである。かりに息子が同じ職業についたとしても、親の経験がそのまま生かされるわけではない。また、職場で培った認識が住んでいる地域で役に立つとも言い難い。自分の専門には通じているものの、社会常識にはまるで疎い高齢者も出現する。加齢は生活の知恵の蓄積につながらず、彼らの判断は規範どころか、恣意的ですらあり、尊重されることも少ない。さらに、スケジュール調整も自分の都合だけではできないので、息子夫婦が老後の世話をすることは困難である。彼らが貢献したのは地域と言うよりも、社会全体であるので、公的扶助・介護が求められるようになる。

 近代では、経験と知恵を次の世代に還元することが難しい。それは高齢者にとってもフラストレーションがたまる。個々人がその都度判断をしなければならなくなったとも言える。公務員だって同じである。そのため、社会的な規範も意識的に構築しなくてはならない。故森毅は社交の重要性を唱えていたが、それはさまざまな人たちと触れ合い、話し合う中で、ものの見方を広げ、今日に必要な社会性を見につけていくことを意味する。彼はまさに社会性の思想家である。

 映画『ゴッドファーザー』では、アル・パチーノ扮するマイケル・コルレオーネがマーロン・ブランド演じるドン・コルレオーネに相談する。父は息子に、長年の経験から、仲介の話を持ちかけた奴が裏切り者だとアドバイスしている。こうした光景は今は昔である。

〈了〉

参考文献
森毅、『もうろくの詩』、青土社、2008年