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へルター・スケルター
─藤田嗣治の『アッツ島玉砕』


佐藤清文

Seibun Satow

2010年8月22日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「戦争のイメージを一口に言うと、無常ということだろう。こちらが愛国派だろうと厭戦派だろうと、降ってくる爆弾は選別しない。死ぬ人間と助かる人間は交換可能。そのころノートに、だれに読ます気もなく、コントやエッセー、詩や和歌を書きつらねていた。その気分が、そのまま戦後にまでつながっていた。無常の心が戦争の心」。

森毅『自由を生きる』

 1935年、岡田啓介内閣の文部大臣松田源治は、挙国一致体制を強化し、美術家の一律的な国家管理を目的に、帝国美術院の規定の改定を強行する。1919年に創設された帝国美術院は、文部大臣による管理の下、美術に関する建議を行い、毎年、官設展覧会、いわゆる帝展を主催していたが、この松田改組に伴い、国家の評価基準を示す文部省美術展覧会、いわゆる新文展へと変更されている。なお、1937年には、帝国美術院は帝国芸術院へと発展解消している。

 当時、壁画が盛んに描かれるなど美術家の間で社会のため制作するべきだという機運もあったが、国家統制が強化される中、多くの画家が積極的・消極的に軍への協力の道を選ぶ。 1938年、軍は、「彩管報国」、すなわち絵筆によって国に報いることをスローガンに、戦地に従軍画家の派遣を本格化させる。彼らは「彩管部隊」と呼ばれている。

 その中に、面相筆による描線で、1920年代のパリで成功した藤田嗣治も含まれている。1886年生まれの彼はすでに50歳代であったが、38年から一年間、従軍画家として中国に滞在している。

 1939年、この年に結成された陸軍美術協会は第一回聖戦美術展を開催する。実は、日米開戦の年まで出版やラジオなどマスメディアは非常に好調で、好戦的であるほど民衆から支持される状況が生まれている。この展覧会も多くの観客を集めている。翌年から陸軍省情報部は作戦記録画の制作を洋画家に依頼する。その基準は写実性に溢れる群像画であることで、軍はウジューヌ・ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』のような美しく勇猛な絵画を期待している。

 藤田嗣治はこの条件にうってつけの画家である。彼は、1940年、パリがナチスに占領される直前、日本に帰国している。1940年に入ると、藤田は積極的に陸軍に協力し、率先して戦争画を描いていく。

 1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島の日本軍守備隊2500名が全滅する。これは、明らかに、大本営の戦略の失敗であり、兵士たちは見捨てられたのだったが、軍はこれを戦意高揚に利用する。守備隊は「玉砕」したのであり、見習うべき帝国軍人の誉れである。大本営が「玉砕」を使ったのはこれが始めてのことである。27名の生存者がいたけれども、彼らも死んだことにされ、戦友同様、軍神に祀り上げられている。以降、太平洋の各地で「玉砕」が相次ぐ。

 軍は、大本営の責任を不問にしたまま、アッツ島の事件を「玉砕」の神話に仕立て上げることに躍起になる。陸軍情報部は、その一環として、藤田嗣治を始め26人の画家に『絵巻アッツ島血戦』を作成させる。

 いささかリアリティに乏しい絵が並ぶ中、藤田の『アッツ島玉砕』だけは違う。ドラクロワの『キオス島の虐殺』をはるかに上回る凄惨さに覆われている。おびただしい数の兵士の死体が転がり、色調は接近していることもあって、どれが米兵か日本兵か区別がつかない。まさにヘルター・スケルターである。近代戦のむごたらしさをこれだけ表わしている近代日本絵画はない。しかも、よく見ると、人物のポーズとそれを各グループとして配置するフランスのアカデミズムから習得した手法が使われている。「傑作」と呼ぶほかない。

 驚くべきことに、藤田はこのスケールの大きな作品を構図を決めないまま、描いている。を写真家の土門拳は、1930年代、日本に滞在中の藤田を8年に亘って撮影している。土門によると、藤田は全体の構図を先に規定するのではなく、思いついた部分を描き、それを広げていく。構成は創作しているうちに次第に出来上がる。

 当時、数多くの戦争画が描かれたが、現存するものは少数である。現在、国立近代美術館に150点の戦争画が所蔵されている。これらは戦後すぐにアメリカ軍がかき集め、後に無期限貸与という名目で日本に返還された作品である。『アッツ島玉砕』もその一枚である。

 敗戦後、藤田は戦争協力者として糾弾される。彼は絵画だけでなく、映画制作などでも軍に積極的に協力しており、非難は免れ得ない。しかし、彼は、生涯に亘って、この戦争協力を反省していない。戦争になれば、兵士が銃を持って戦うのと同じように、画家は彼らと同じ心境で絵筆によって後押しするのは当然ではないかというわけだ。絵筆の代わりに鉄砲を持たされて死んでいった画家の卵たちのことなど彼の眼中にはない。

 戦争協力に関して、藤田を弁護する必要はない。重要なのは戦争を正面から見据える彼の作品である。『アッツ島玉砕』は、彼のイデオロギーや思想、信条を超え、戦争についての問いかけを強烈に依然として訴えている。

 藤田は、1949年、「絵描きは絵に誠実に」と言い残し、アメリカを経由してフランスに渡る。55年、帰化し、59年、カトリックへ改宗、「レオナール・フジタ」と改名する。二度と日本の土を踏むことなく、1968年1月29日、チューリッヒで亡くなっている。

 すでに敗色濃厚の1944年、紙の不足を理由に雑誌の統合が相次ぐ。美術雑誌も例外ではない。その一つである『美術』創刊号に、朝日新聞社会部次長遠山孝が「決戦と芸術家の覚悟」を巻頭に寄せている。彼は、「士気高揚の資とする絵画」が今こそ必要であるにもかかわらず,「戦争さえ描いていればよい」という姿勢の画家がいると嘆き、それは芸術の冒涜であると叱咤している。この時代離れした精神主義に基づく戯言は芸術論に値しない。プロパガンダである。

 「プロパガンダ」は、本来、カトリック教会の「布教聖省 (Congregatio de Propaganda Fide) 」に由来し、「啓蒙」の意味が含まれている。ところが、20世紀に入ると、それが政治宣伝をさすようになる。ナチズムの「プロパガンダ」に対抗する民主主義的な概念としてイギリスで使われ始めたのが「マスコミュニケーション」である。

 遠山孝は、戦後、朝日新聞取締役にまで昇進している。戦時中のプロパガンディストが戦後にはマスコミの重役になったというわけだ。こっちの方がよっぽど質の悪い問題だ。
〈了〉
参照文献
柏倉康夫他、『日本のマスメディア』、放送大学教育振興会、2007年
佐藤康宏、『日本美術史』、放送大学教育振興会、2008年
森毅、『自由を生きる』、東京新聞出版局、1999年
安田将三他、『朝日新聞の戦争責任』、太田出版、1995年
『週刊美術館46』、小学館、2001年