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吉本隆明試論 第五章


佐藤清文

Seibun Satow

2010年9月13日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


第5章 60年代のカリスマ

 先に述べた通り、旧制高校の教育を特徴づけるのは教養主義である。竹内洋によれば、大正期から昭和前期にかけてそれは大きく右派と左派に二分される。大正前期は『三太郎の日記』の阿部次郎に代表される人格主義的教養主義、すなわち教養主義右派であり、大正後期がマルクス主義的教養主義、すなわち教養主義左派である。

 この教養主義の右派から左派への移行にはさまざまなきっかけがある。1918年、吉野作造らの指導の下、東京帝大で「新人会」が結成される。これは社会科学の研究・啓蒙を行い、普選運動・労働運動に参加する思想運動団体である。京都帝大でも学生と労働者が手を結ぶ労学会が創設される。20年、森戸事件が起きる。東大助教授森戸辰男が『経済学研究』誌に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表すると、これが危険思想であるとして本人ならびに編集責任者と大内兵衛が休職処分を受け、さらに起訴・有罪となっている。22年に発足した学生連合会が、24年、大学・高専の社会科学研究連合団体「社会科学研究会」へと発展する。キャンパスの軍国主義化に反対し、労働運動とも連帯を試みる。22年、コミンテルンの指導の下、堺利彦・山川均らによって日本共産党が非合法で結党する。また、普通選挙の実施を目標に社会主義者・労働運動家・知識人が無産政党が相次いで創立する。ところが、23年の関東大震災の混乱か、活動家を狙った亀戸事件や甘粕事件とそれに反発する虎の門事件がおき、対立が暴力へとエスカレートしていく。

 旧制高校生にとってのマルクス主義は教養主義によって再編成されている。その彼らに最もインパクトを与えたのが「福本イズム」である。1924年、ドイツから帰国した福本和夫がジェルジ・ルカーチやカール・コルシュに影響されたマルクス主義理論を発表する。彼は階級闘争を知識人の外にある問題ではなく、その主体の変革と保管する。重要なのは階級意識である。26年、福本の理論が共産党の指導原理として選択される。この「福本イズム」は知識人や学生に熱狂的に迎えられる。しかし、27年、コミンテルンにより27年テーゼで批判され、福本和夫は失脚する。

 旧制高校生は寮・語学クラス・運動部を通じて人格・人脈を形成する。旧制高校の同窓会では、師弟同行率先垂範の精神に則り、名物の語学教師を呼び、万年床を懐かしみ、寮歌を合唱するのがお決まりである。多くの旧制高校生が寮の中でマルクス主義の洗礼を受け、赤く染まる。実際に確信を持って左傾化した学生は少数で、後に大半が転向している。「元マルクス・ボーイ」は学歴貴族の刻印である。1953年に小林多喜二の『蟹工船』を映画化する際、メガホンをとったのが旧制一高=東京帝大出身の俳優山村聰だったことは象徴的である。1910年生まれの彼も、旧制高校の教養主義の中で、文芸同人雑誌を作り、小説を書いている。28年に三・一五事件、翌年には四・一六事件が起き、当局の共産党弾圧が激しくなる。1930年代に入り、軍部・右翼が台頭し、マルクス主義が弾圧されると、再び教養主義右派が復活する。1936年から41年にかけて刊行された河合栄次郎編『学生叢書』全12巻が旧制高校生の間で必読書となっている。

 御厨貴東京大学教授は、『エリートと教育』において、戦後の高等教育とマルクス主義について次のように述べている。
 だが竹内洋が指摘する通り、ハードとしての旧制高校が失われたが、ソフトとしての旧制高校教養主義はむしろよみがえった。政治のレベルで、戦後日本は十五年戦争期の軍国主義を否定し、大正デモクラシー期の政党政治を復活させるというイデオロギー的擬制をこらした。これとのアナロジーで教養主義の復活は捉えられる。すなわち教養主義やマルクス主義の衰退が軍国主義日本をもたらしたわけであるから、抑止力としての教養主義やマルクス主義がキャンパスに横溢せねばならないのである。しかも竹内洋が言うように、戦後教養主義はマルクス主義と接近しそれを包括することによって、大学人と講壇・論壇をつなぐ役割を果たすことになった。全面講和論争から安保反対闘争まで一九五〇年代の大学の反政府、否、反体制的姿勢を貫いていたのは、こうした戦後教養主義に他ならない。

 他方で新制大学は戦前とは比較にならぬほど数の上で拡大した。すでに一九五四(昭和二十九)念の段階で一九四〇(昭和十五)年の五倍(四七→二二七)にその数は達していた。評論家の大宅壮一が「駅弁大学」と称した所以である。一九六〇年代の高度経済成長期には、大学の量的拡大はさらに進む。文部省が理工系学生の定員増を計画したのは、まさにこの時代のことで、一九二〇年代と同じく産業化・工業化のためにふさわしい技術系人材を必要としたからである。

 マルクス主義的教養主義と駅弁大学的大衆化は、実はエリートのリクルートという大学の明治以来の使命を形骸化させて久しかった。その矛盾が一挙に露呈したのが、一九六〇年代末の大学紛争に他ならない。大学解体の声が日本全国にみちあふれ、多くの大学そして高校が学生によってバリケード封鎖された。無秩序化した大学にあって、なお「学問の自由」をたてに、警察官の導入を拒む大学人の姿を国民はどのように見たであろうか。
 1945年8月14日に日本政府は正式にポツダム宣言の受諾を連合国に通告する。第10項に「吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とあり、さらに第12項に「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」と記述されている。これは、日本に、1920年代に脆弱ではあったものの、民主主義が機能していたと連合国側が認識していたことを表わしている。大正デモクラシーの「復活強化」が戦後民主主義であるという政治的コンセンサスが生まれる。

 戦後民主主義を大正デモクラシーのつながりから把握し、戦争を止められなかった「悔恨共同体」の丸山の共産党批判もここから発せられる。それに伴い、教養主義両派も「復活強化」しなければならない。人格主義はマルクス主義弾圧の後で復権していたため、教養主義のヘゲモニーを獲得するのは左派である。

 吉本も、こうした情況下で、『資本論』を読み始める。学歴貴族ではない彼にとって、『カール・マルクス』が伝えるように、カール・マルクスは在野の思想家である。既成の解釈にとらわれず、独自の見解を読みとっていく。

 60年安保闘争の頃は、吉本も左翼思想家の一人にすぎない。まだ既成の革新政党の運動への影響力は大きく、学生たちのスターは花田清輝である。吉本は、56年から、その彼と論争を繰り返す。今日から見て、吉本は悪口雑言を吐いているだけで、花田の方に理がある。けれども、花田は共産党員であり、党に失望しつつあった若者たちには論争の内容など二の次である。勝負は「情況」が決める。

 吉本も「ソフトとしての旧制高校教養主義」において学生たちに認知される。新左翼が求めたのは、学歴貴族ではない吉本隆明のマルクス主義である。彼のマルクス理解は学歴貴族と共有するものがない。全共闘にはそれが魅力である。何しろ、受験エリートが闘争を挑む大学当局には多くの学歴貴族が含まれている。吉本の知識人への批判は、今の自分たちと重なる。加えて、吉本を熱狂的に迎え入れた学生たちは学歴貴族ではない。大学はすでに大衆化に向かっている。そこを卒業したところで、旧制高校出の知識人のようになれるはずもない。吉本が感じていたのと同じく、自分たちも大衆の一人である。吉本が60年代の若者から支持されたのは、こうした高等教育とマルクス主義の関連という歴史的事情からである。

 学生運動は反体制的な色彩を帯びていたが、その中に、戦後民主主義が欺瞞に満ちていると批判するものたちも含まれている。彼らの意見は、根本的どころか、近衛文麿の「英米本意の平和主義を排す」と違いがない。彼らは、結局、大正デモクラシー後の近代の超克に向かう。60年代が過ぎると、戦争体験のある知識人たちの中から「悔恨共同体」ではなく、「無念共同体」(林房雄)へと転向していくものも出現する。

 全共闘の元吉本ボーイズ&ガールズもそれぞれの道に進んでいく。かつての旧制高校生とは比較にならないほどの数であるが、運動体験を共有している。運動体験をどのように租借して、自らの思想を組み立てていくのかが彼らの課題であったが、その結論は呱々によって違うだろう。

 学歴貴族が社会的影響力を縮小していくにつれ、吉本の姿勢も変わっていく。しかし、時代への関心を持ち続け、発言を積極的に行い続けている。もっとも、首を傾げたくなることも少なくない。96年8月、静岡県田方郡土肥町の屋形海水浴場で溺れたが、ライフセーバーによってすぐに発見され、意識不明の重体で緊急入院し、集中治療の甲斐あって一命をとりとめる。本人の体力もさることながら、関係者の努力によって吉本は助かる。
 死んでしまったらそれまでというか、それはこちらのせいじゃなくて、もう人のせいなんです。自分の死を自分のものとしたいのなら、自殺する以外にないんです。
 だから僕に言わせれば、何か特別な、死を迎える心構えがあるとは考える必要はないんじゃないでしょうかということです。そういうことを体験することは本当はない。外側から死なら死を対象化し見ていると、こういうときにはこうなって、こういう心構えでいれば楽なんじゃないか、助かるんじゃないかとか思うわけでしょうけど、実際にそういう場面に自分が直面したときには、まずそういうのはない。意味がないというふうに考えた方がいいと僕は思っています。
(吉本隆明『幸福論』)
 現代社会は大衆化の方向から捉えられがちであるけれども、知識人化も大いに認められる。吉本は、『初期ノート』において、「生れ、婚姻し、子を生み、育て、老いた無数の人々を畏れよう」と大衆に言及して、知識人を批判している。大衆がそうした人生の局面が内在化されているのに対して、知識人はそれを意識化している。大衆にとって、ライフ・イベントは通過儀礼である。いわゆる適齢期になったら、結婚するものであり、その後には子どもをもうけるのが当たり前だ。他方、知識人は、それに直面した際に、その都度、何らかの理由付けをして選択しなければならない。結婚するよりも、仕事に集中したいから、もう少し後でいい。人生論や幸福論は、そうした知識人に求められている。だが、近代の進展と共に、今では市井の人々にも必要とされている。知識人と大衆や岩波文化と講談社文化の対立は、こういった現代の生活問題の観点からも展開できる。と同時に、今日、その拮抗の図式も効力を失っている。

 「敗戦」から65年が経つ。吉本隆明はこの11月25日に86歳を迎える。
 八月十五日は、京都の下宿。京都はまだ空襲がないから、次は原爆でかえって危険と止められたが、あまり気にしなかった。敗戦を「終戦」と呼ぶのに異論があるかもしれぬが、ぼくの気分は終戦である。嵐が終わった、という気分。
 たしかめるために、二十日ごろだったろうか、岩波文庫と海水パンツを持って、芦屋の海へ行ってみた。ぼくが小学校のころから阪神間の海は汚れて、海水浴は神戸の西の須磨か淡路島の洲本まで行かねばならなかったのだが、空襲の焼け跡を通って浜まで出ると人影はなくて、砂は白く海は青く輝いていた。日本の一番平和だった日。
 ぼくの場合、戦中と戦後はつながっていて、敗戦の節目がない。戦中から戦後を生きていたと言えようか。

 生活は不安定だし、戦後はちょっとした難民気分。でも実は、ぼくは難民気分が性に合っているようなところがある。日本全体として、貧乏と自由が時代の空気。それに合わぬ人もいるようだが、ぼくにはぴったり。しかも、青春なんだから。
(森毅『自由を生きる』)

〈了〉
参照文献
『吉本隆明全著作集』全15巻。 勁草書房、1968〜75年
吉本隆明、『吉本隆明が語る戦後55年』全9巻、三交社、2001〜02年
吉本隆明、『幸福論』、青春出版社、2001年
吉本隆明、『最後の親鸞 増補新版』、ちくま学芸文庫、2002年
吉本隆明、『吉本隆明自著を語る』、ロッキング・オン、2007年
吉本隆明、『「情況への発言」全集成』1〜3、MC新書、2008年

天川晃他、『日本政治史─20世紀の日本政治』、放送大学教育振興会、2003年
柏倉康夫他、『日本のマスメディア』、放送大学教育興会、2007年
柄谷行人、『ヒューモアとしての唯物論』、筑摩書房、1993年
柄谷行人、『〈戦前〉の思考』、文芸春秋、1994年
柄谷行人、『倫理21』、平凡社、2000年
柄谷行人編、『近代日本の批評1 昭和篇(上)』、講談社文芸文庫、1997年
柄谷行人編、『近代日本の批評2 昭和篇(下)』、講談社文芸文庫、1997年
小浜逸郎、『吉本隆明 思想の普遍性とは何か』、筑摩書房、1999年
佐藤英夫、『新訂教育の歴史』、放送大学教育振興会、2000年
芹沢俊介、『主題としての吉本隆明』、春秋社、1998年
竹内洋、『日本の近代12:学歴貴族の栄光と挫折』、中央公論新社、1997年
竹内洋、『学校システム論改訂版』、放送大学教育振興会、2007年
竹田青嗣、『世界という背理 小林秀雄と吉本隆明』、河出書房新社、1988年
辻本雅史、『教育の社会文化史』、放送大学教育振興会、2004年
橋爪大三郎、『永遠の吉本隆明』、新書y、2003年
花田清輝、『ザ・清輝 花田清輝全一冊』、第三書館、1986年
広渡清吾、『法システム2 』、放送大学教育振興会、2007年
丸山眞男他、『尊攘思想と絶対主義』、白日書院、1948年
丸山眞男、『戦中と戦後の間―1936-1957』、みすず書房、1997年
村瀬学、『次の時代のための吉本隆明の読み方』、洋泉社、2003年
森毅、『ゆきあたりばったり文学談義』、ハルキ文庫、1997年
森毅、『自由を生きる』、東京新聞出版局、1999年
山村聰、『迷走千里-年々歳々今を尊く生きる』、廣済堂出版、1997年
吉田和明、『吉本隆明』、現代書館、1985年

ベルンハルト・シュリンク、『過去の責任と現在の法―ドイツの場合』、岩淵達治他訳、岩波書店、2005年

半藤一利、「横浜警備隊長 佐々木大尉の反乱」、『有鄰』第441号
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_441/yurin.html
Iraq Inquiry(UK)
http://www.iraqinquiry.org.uk/
Commissie-Davids Rijksoverheid.nl(Dutch)
http://www.rijksoverheid.nl/onderwerpen/irak/commissie-davids