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変われぬ北朝鮮


佐藤清文

Seibun Satow

2010年9月30日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「誉れ高い大河でさえ海に注いで終わる」。

ロシアの諺

 2010年9月28日、平壌で、朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮労働党代表者会などが開かれ、金正日総書記の三男キム・ジョンウン党中央委員と党中央軍事委員会の副委員長に選出される。これで北朝鮮は最高指導者が三世代世襲へと向かっていることが明らかになる。

 この世襲を含めて、北朝鮮は、アジアの他の社会主義体制として出発した諸国とさまざまな点で異なっている。それは成立過程の相違に求められる。

 中国やベトナムの共産党は、対外戦争や内戦を通じて、民衆の間で支持を広げ、権力を獲得している。一方、北朝鮮は、大戦後に38度線以北を占領したソ連の指導の下、建国されている。朝鮮労働党の支配体制は、民衆から望まれたわけではなく、その点で、東欧の衛星国に似ている。

 ただ、北朝鮮は、東欧と違い、建国当時、工業基盤の脆弱な農業国である。東ドイツは言わずもがな、他の東欧諸国もすでに産業化されている。第二次世界大戦前、チェコスロバキアは優秀な戦車を製造しており、ドイツは同国を併合した際、主力クラスとしてそれを活用している。北朝鮮は、こうした産業基盤は整備されておらず、その点では、中国やベトナムと共通している。

 また、1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国が成立したとき、金日成が初代首相に就任したが、これは衆目の一致するところではない。確かに、抗日闘争での実績は認められるものの、彼はソ連の後盾を背景に、他の有力者を権力闘争をつうじて排除してその座に着いたのであり、民衆からの支持があったわけではない。

 解放後の38度線以北には。抗日抵抗運動を地下活動で続けた朝鮮共産党、中国共産党と行動を共にしていた延安グループ、ソ連に留学していた留学組、ソ連軍に加わっていたグループの大きく四つの政治勢力がいる。その中でも、半島に残って活動していたこともあり、朝鮮共産党が民衆から信頼されている。また、個人としては、キリスト教徒で、非暴力主義の抵抗運動を実践し、「朝鮮のガンジー」と呼ばれだ晩植が民衆の信望を集めている。金日成は、中国共産党と共にいた時期もあるが、故郷の平壌に戻ったときはソ連陸軍大尉である。金日成のトップ就任はほとんどソ連による冊封である。

 一方、建国の際に、ホー・チ・ミンや毛沢東が最高政治指導者に選ばれることは衆目の一致するところである。

 フランス料理の革命家オーギュスト・エスコフィエのその才能を見出された元コックが最初に注目されたのは、1919年のベルサイユ会議である。彼は「ベトナム人民の要求」と題する8項目の請願書を発表し、ウッドロー・ウィルソンやロイド・ジョージの目に留まる。20年、フランス共産党が創設されると、その最初のメンバーの一人になり、23年からコミンテルンで活動、30年に香港でベトナム共産党を結党する。41年にベトナムに戻り、独立運動を開始、何度か逮捕されている。45年9月、ベトナム人民共和国が樹立されると、ホー・チ・ミンが初代大統領に選出されるのに、異論はほとんど出ない。

 1921年、上海で中国共産党の創立に参加した師範学校出の運動家は、当初傍流だったが、革命闘争の中で、農民や兵士からの支持を集め、党内の主導権を獲得、抗日戦争・国共内戦において指導的立場を果たす。1949年1月、中華人民共和国が建国されると、毛沢東が初代国家主席に選ばれるのは当然の成り行きである。

 ホー・チ・ミンも、毛沢東も、自らをマルクス=レーニン主義者に位置づけている。前者は国際共産主義運動を植民地解放闘争と結合し、お互いに団結すべきだと主張している。後者は、マルクス=レーニン主義を中国の現状に合わせて読み替えている。マルクス=レーニン主義において理論闘争は重要視されている。政治指導者は実践家であるのみならず、理論家でなければならない。

 なぜレーニン主義かと言えば、レーニンはマルクス主義を反帝国主義運動に拡張したからである。帝国主義との闘争や植民地解放運動にはレーニン主義による理論的裏づけが有効である。

 朝鮮戦争で勝利し、南北統一を果たしていたら、金日成の権力の正当性を民衆も認めるものになっていたかもしれない。しかし、渋るヨシフ・スターリンを何とか了承させて始めた戦争は、南北双方合わせて200万人の死者や多数の離散家族をもたらし、分断国家の状態を変えることなく終わる。この見通しの甘い無謀な冒険主義の責任をとることなく、金日成はますます権威主義的に権力を強化する。このカリスマ支配を脅かすものは、容赦なく、粛清される。それは、むしろ、正当性の脆弱さの顕われである。北朝鮮は金日成によって政策修正の選択肢を失っていく。

 民衆の支持をとりつけるには、金日成は白い米を食べさせればいいと食糧増産を指示する。しかし、農業政策は場当たりどころか、ほとんど素人が思いつきでやっているとしか思えないほどお粗末なものである。収穫高を上げようと、適正量を超える作物を耕地に植えた結果、地力が失われ、逆に不作に陥っている。化学肥料を使おうにも、その生産力が乏しい。化学肥料の主成分は硝酸アンモニウムであり、その製造には、大学の化学の教科書でおなじみのアンモニア合成が必要である。ところが、この作業には膨大なエネルギーが不可欠で、エネルギー事情の悪い北朝鮮には負担が大きい。外国から輸入すれば、貴重な外貨準備が減る。この政策を見る限り、農業をまともに考えているとは思えない。

 金日成の産業政策は重工業中心で、東欧のような産業化の実績もないのだから、その成長はソ連からの多額の援助を前提にしている。ソ連にしても、いつまでも面倒を見ていられない。ニキータ・フルシチョフは重工業ではなく、軽工業や農業を重視すべきだと北朝鮮に提言する。しかし、それを聞き入れず、自力更生方式で従来の経済政策を継続する。大衆動員で事態を打開しようと試みるが、惨めな結果に終わる。

 この体制は、正当性が脆弱であるため、方針転換が難しい。中国やベトナムの場合、共産党が権力を掌握する際に、民主的であるかは別にして、民衆からの支持を背景にしている。自分たちは人民の意思を代行している。主権在党が揺るがない限り、指導者が交代した際、大胆に方針転換が可能である。改革開放やドイモイのような市場経済の導入まで実施できる。他方、北朝鮮では、金日成の権力の正当化が上から民衆に吹き込まれる。指導者の交代は彼の死以外ありえない。加えて、死後であっても、その方針から逸脱することは、朝鮮労働党の支配の前提が崩れてしまう。そのため、後継は世襲に落ち着く。

 中ソ対立が始まっても、外交方針の根本的見直しは北朝鮮でなされない。中ソ対立にあって、今まで通り、両国と等距離外交を選択することは、どちらとも中途半端な関係になるということである。反ファシズム・パルチザンの闘士チトーのユーゴスラビアのように、積極的に独自の社会主義路線を進むわけでもない。

 そこで、北朝鮮の立場を正当化するために、金日成は主体思想を発表する。けれども、この主体思想は革命闘争とは無縁である。中ソ対立の中、北朝鮮がどう生きていくべきかを定式化しただけであり、マルクス=レーニン主義と関係がない。マルクス=レーニン主義を咀嚼して独自の理論に組み立てていれば、中ソや中越のように、お互いにイデオロギー的・軍事的対立も辞さない。北朝鮮には、そういう覚悟がない。政策を変更するために、イデオロギーを修正するのではなく、現状維持をする目的で、マルクス=レーニン主義を棄てている。その挙げ句、革命は、北朝鮮において、韓国との体制競争と意味づけられる。

 これほどまでに脆弱な北朝鮮がなしうることは、時代離れし、滑稽なまでに金日成を神格化するしかない。選択肢はもはや残っていない。ソ連が解体し、北朝鮮も中国に倣って日米と接近を図るが、金王朝絶対護持が前提では、たいした態度の変更もできず、成果は上がらない。親父が亡くなり、息子に代替わりしても、相変わらずの状態が続く。中国やベトナムが方針転換をして目覚しい経済成長を遂げるのを横目に、北朝鮮は前時代的なマスゲームに精を出している。直近の国連の人間開発指数のリストに、統計データが不足しているという理由で、北朝鮮は記載されていない。この国家は、建国以来、外国からの援助なくして成り立たたない仕組みになっている。

 しかし、この脆弱性のため、北朝鮮は生き延びてきたと言える。北朝鮮の体制は強いから存続したのではない。基盤があまりにも弱すぎて誰もつぶせない。
〈了〉
参照文献
宇野重昭、『毛沢東 人と思想』、清水書院、2000年
小此木政夫編著、『北朝鮮ハンドブック』、講談社、1997年
チャールズ・フェン、『ホー・チ・ミン伝』上下、睦井三郎訳、岩波新書、1974年