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日本で死刑がなかった時代


佐藤清文

Seibun Satow

2010年9月30日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「犬のようだ!」

フランツ・カフカ『審判』


第1章 ベッカリーアの刑罰論

 2010年8月27日、千葉景子前法務大臣の指示により、法務省は記者クラブ会員に対して刑場を初めて公開している。「死刑のあり方に関する国民的議論の参考にしてほしい」と大臣は語っていたが、その後、特捜の証拠改ざんスキャンダルなど他のニュースが多かったせいか、まったくその通りは進んでいない。法務省は、政権交代以前から、死刑に関する情報を公開する方向性を打ち出しており、今回もその延長だろう。

 死刑に関する情報を公開するというのは、本来、近代刑罰論の修正を意味する。と言うのも、近代刑罰論を基礎付けたチェーザレ・ベッカリーア(Cesare Bonesana Marchese di Beccaria)が『犯罪と刑罰(Dei delitti e delle pene)』(1764)において「想像が苦痛を拡大してみせる」として刑罰の非公開を唱えていたからである。方針を転換するのであれば、法務省は、本来、新たな理論を提示する必要がある。あるいは、非公開にしていた論拠も曖昧なままだったから、今度の転回も特に根拠があるわけでもないと考えているのかもしれない。

 経済学者であると同時に行政官でもあったベッカリーアは、社会契約論と三権分立論に立脚して、近代的な刑罰のあり方を理論化し、ジェレミー・ベンサムの功利主義にも影響を与えている。彼によれば、法の目的は「最大多数の最大幸福」にある。国家の刑罰権は、市民がその目的実現のために、社会契約として各自の自由を一部供出したものの総和に根拠を持っている。国家がそれを超えて市民の自由を制限し、刑罰を科すことは不当である。犯罪の立証は物的証拠を根拠にし、自白に偏重していてはならない。自白を強制するために拷問が用いられているが、禁止されて然るべきである。市民の自由を保障するために、何が犯罪でどのような刑罰が科せられるかについて、簡潔明瞭に、あらかじめ法律により明確に規定されていなければならない。これは、現在、「罪刑法定主義」と呼ばれている。

 法律のみが犯罪に対する刑罰を宣告できる。それを制定するのは立法者であるが、適用するのは裁判官である。しかし、裁判官に刑罰放棄を解釈する権限は認められない。その上で、彼は、犯罪の大小はそれによって受けた社会の損害によって計られるべきであるとして、残虐な刑罰を斥ける。身分による刑の差もあってはならない。刑罰均衡論から逸脱した刑罰は残虐である。死刑は、他の残虐な刑罰同様、見せしめの効果がないどころか、市民の感覚を麻痺させてしまい、有害でさえあり、廃止されなければならない。刑罰に頼るだけでなく、美徳にはインセンティブを用意する方が犯罪の予防には効果的である。

 ベッカリーア以降、死刑制度存続の是非を数多くの思想家が論じている。是とするにしても、非にするとしても、その論拠は非常に多岐にわたり、興味深い。

 死刑の存続を求める意見の根拠は、威嚇力と応報感情の二つに要約できる。死刑制度存続の是非について世論調査をすると、設問によって結果が変動することは確かであるが、賛成意見が多数を占める。しかし、死刑が犯罪予防に役立っていると考えている人は、おそらく少ないだろう。被害者の無念さや遺族の憤りに同情して、すなわち応報感情として死刑存続に賛成しているに違いない。現在、日本では死刑が適用される犯罪は複数の人間の命を奪った殺人と強盗致死にほぼ限定されている。その意味で、応報についても、厳密には、成り立たない。感情に配慮することは必要だが、刑罰体系全体との整合性を無視して、それだけで死刑制度を議論するのは建設的ではない。

 日本の最高裁判所で死刑が残虐な刑罰かを問う判例がある。それを参照してみよう。1948年3月12日、死刑が残虐な刑罰であるか否かが争点になった尊属殺人事件の判決が下される。詳細は省くが、最高裁は、死刑は「冷厳」であっても、「残虐」に当たらないとし、それを「執行方法」の問題に位置づけている。最高裁が残虐な刑罰の例として挙げたのは、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」である。なお、死刑が残虐であるか否かは「国民感情」が死刑による犯罪防止の必要性の意識に依存しているという補足意見が付けられている。この判決に見られる解釈は、研究者から批判が寄せられているように、必ずしも法学的に納得できるものばかりではない。それはともかく、最高裁の列挙した例は、火あぶりと釜ゆでが時間をかけた殺し方であり、はりつけとさらし首は見せしめ的な殺し方に大別できる。最高裁によれば、短時間で絶命し、見せしめを目的にしていない執行方法である限りにおいて、死刑は残虐ではない。

 日本では、1882年以来、絞首刑が唯一の私刑の執行方法として法律で規定されている。それは、日本に近代法典をもたらしたギュスターヴ・エミール・ボワソナードが天寿を全うした姿に近く、家族が遺体を引きとる際に残虐さを感じることが少ないだろうと提案したのを受けたためである。1955年4月6日、帝銀事件の裁判において、絞首刑が残虐な刑罰ではないかと被告から主張されたが、最高裁は、先の48年判決を踏襲し、国際的に比較しても、残虐とは認められないと斥けている。

 確かに、死刑一般は重い刑罰であるけれども、残虐であるとは言い切れない。死刑制度が存続している日本でも、肉刑を採用していない。死ぬよりましだろうと耳や鼻を削いだり、男根を切り落としたりする刑罰は実施されない。肉刑は残虐だからである。


第2章 死刑廃止の歴史

 死刑に関する議論をする際に、歴史的相対化が必要であろう。国際比較をしようとしても、日本には日本の文化的事情があると反論するものがいるからである。日本には、実は、約300年間以上に亘って死刑が廃止されていた時期がある。捉え方によってその期間は多少変動するが、300年を超えていることだけは確かである。日本は、世界史的に、非常に長期間、死刑制度が廃止されていた国の一つである。

 725年、大仏建立で知られる聖武天皇が「死刑廃止の詔」を公表する。律令体制も後期に入ると、安定し、制度も整備され、定着したこともあって、儒教や仏教に影響を受けた天皇が刑罰を大幅に緩和したからと考えられている。この天皇の仰せにより制度としての死刑が日本で廃止される。平安時代の810年、謀反を企てた藤原仲成が嵯峨天皇によって弓矢で射殺されているが、これは「絞」や「斬」といった正刑に属する施行方法ではなく、私刑とも解釈できる。818年、その嵯峨天皇が改めて天皇の命を伝える公文書の宣旨を通じて死刑廃止が徹底される。死刑廃止は、1156年に白河天皇が保元の乱の主張者の一人源為義を源義朝に斬首させるまで続く。

 この間の最高刑は流刑である。此の世から追放するも,都から追放するも,追放という点では同じである。『古今和歌集』や『土佐日記』、『枕草子』、『源氏物語』、薬師如来立像、十一面観音菩薩立像、阿弥陀如来座像、両界海曼荼羅図、平等院鳳凰堂など日本の文化遺産が生まれたのもこの時期である。

 ただし、死刑廃止は、地方や戦場においては、その限りではない。事実、後三年の役(1083〜87)では非常に残虐な行為が行われている。

 平安後期の武士の戦は、両陣営が自身の正当性と相手の邪道を糾弾する言葉合戦に始まり、当時の武士の魂である弓矢を用いた弓合戦を行い、その後、白兵戦に突入する。後三年の役では、この口戦において、清原家衡方の千任が源義家に対して、やぐらの上から、「汝が父頼義、貞任、宗任を打ち得ずして故清原武則の助けを借りて打ち破ったではないか。今その恩を忘れ、その子孫を攻めたてるとはさだめて天道のせめをかぶらむか」と罵倒する。これを耳にした義家は、怒り狂い、家来に千任の生け捕りを命じる。2年後、捕えられた千任は金箸で歯を折られ、舌を引き抜かれて、後手に縛り上げられて木の枝から爪先立ちができない程度に吊り下げられる。足と地面の間に主君の清原武衡の首が置かれ、千任が苦しさに耐えきれず、とうとう踏むと、義家は彼を「不忠、不忠。二年の愁眉今日すでにひらけぬ」と嘲り笑っている。

 義家は、別に、武士として特異なわけではない。『後三年絵巻』には、女性や赤子を容赦なく斬り殺して誇らしげにしている武士が描かれている。平安どころか、鎌倉時代に入っても、武士は、史料を検討すると、無学無教養で、血なまぐさいことが好きなイカれた連中である。武士のトップ・クラスでさえ、たどたどしい仮名書きが精一杯で、漢字の読み書きなどろくにできない。それでいて、彼らは、子どもの頃から、犬追物によって鍛錬している。これは、柵の中に集めた犬を放ち、馬上から弓を射り、それを殺しまくるゲームである。また、『男衾三郎絵詞』には、男衾三郎という武士が館の前を通る修行者を捕縛し、庭に生首を絶やすことなく、斬って斬って斬りまくれと指示したことが描かれている。この男衾三郎は「坂東武士の鑑」と謳われた畠山重忠ではないかと推測されている。さらに、後醍醐天皇の忠臣結城宗広は、僧俗男女を問わず、人殺しを日課にしていたが、理由は生首を見ないと調子が悪いからである。中里介山の『大菩薩峠』の主人公机竜之介のような殺人鬼がごろごろいる。残虐シーンを売り物にし、中には「幼稚園のお子さんがおじいちゃん、おばあちゃんとこの映画を見て、トラウマになればいいな」などと嘯く1963年作品のリメークを撮った映画監督もいるが、当時の武士の残虐さは彼らの映画の比ではない。

 このような武士が政権を獲得すると、当然、刑罰の体系も大きく変容する。


第3章 死刑と肉刑

 武家政権は、一貫して、死刑制度を存続している。武士の力が伸張すると共に死刑制度が常態化し、適用範囲も拡大される。1232年、北条泰時が頼朝以来の判例や慣習法を御成敗式目に編纂させる。対象は御家人で、死刑は斬首刑のみとされている。

 死刑制度の復活の他に、武家政権から始まった刑罰がある。それが肉刑である。少なくとも、大化の改新以来、日本では肉刑が認められていない。ところが、御成敗式目では、面に火印を押し当てるなどの肉刑が導入されている。以降、武家政権において、死刑と共に肉刑が採用され続ける。

 1467年の応仁の乱の勃発から1600年の関が原の合戦までの戦国時代、すなわち下克上時代、刑罰が著しく残虐になる。処刑方法も磔、鋸挽、串刺、牛裂、車裂、火炙、釜煎と広げられ、肉刑も耳削ぎや鼻削りなどが認められている。残虐さの点では、この時期が最悪だったと言える。

 江戸時代に入ると、死刑方法が武士身分とそれ以外に大別される。武士身分は切腹と斬罪の二つだけである。それ以外の身分に関する刑罰を体系化させたのは徳川吉宗である。彼は幕府の経済を支えるのは庶民であり、彼らが殺されすぎては財政再建が望めないとして担当者に刑罰を整備させ、武士身分の方も修正させている。庶民の死刑は細分化され、鋸挽、磔、獄門──斬首後に晒し首──、火罪、死罪──家・財産を没収、市中引き回しの上、斬首──、下手人──斬首──がある。なお、晒は一日市中を引き回し、執行後、三日間刑場に晒す刑罰である。僧侶の場合、市中にて晒される。江戸時代の刑罰は死刑が中心であり、その適用範囲も非常に広い。10両以上の盗みにも死罪が下されている。その分、肉刑が減り、入墨にとどまっている。

 こうした封建時代の残虐な刑罰は見せしめの効果を狙っている。しかし、近代では国家がいかにして犯罪を予防するかが主眼となり、見せしめの刑罰は不要である。犯罪予防の観点から刑罰体系が構築され、犯罪をするのは得策ではないと想像力に訴えかける。加えて、再犯率の低下も課題として浮上する。「市民感覚」を司法の場に反映するのであれば、市民の側も司法のコミュニケーションを行うための刑罰を始めとする法リテラシーを習得することが不可欠である。刑罰が伴う以上、司法では日常生活よりはるかに厳密な論理的思考が要求される。過去に行われた検察審査会の議決を見ると、論理性の乏しさが目につく。レトリックをロジックとすりかえるような主張は厳に慎まねばならない。

 死刑制度の是非を議論も、法リテラシーに基づいてなされて、初めて実のあるものになる。その際に、日本では300年以上廃止されていた歴史を考慮に入れて然るべきだろう。「犯罪予防の最も確実で、しかし最も困難な方法は、人々を悪い行為におもむかないような性質にすること、つまり教育の完成である」(ベッカリーア『犯罪と刑罰』)。

〈了〉

参照文献
大越義久、『刑罰論序説』、有斐閣、2008年
五味文彦他、『日本の中世』、放送大学教育振興会、2007年
関幸彦、『東北の争乱と奥州合戦』、吉川弘文館、2006年
チェーザレ・ベッカリーア、『犯罪と刑罰』、風早八十二他訳、岩波文庫、1959年