「人は立場に応じて意見を述べる」。
マルグリット・ド・ナヴァール『エプタメロン』
ワイドショーでも国内外の政治ニュースがトップで伝えられる昨今、その読み解き方を知ることも欠かせない。放映される昨今、政治的な事件や出来事、現象が起きると、専門家がさまざまな見解を発表する。一見、多岐に亘っているような印象があるが、それらの分析は、構造主義・合理主義・構成主義の三つのアプローチに立脚している。
構造主義アプローチは「構造」に着目する。人間集団は相互に(対立・干渉・補完・独立などの)継続的な関係性を持っており、それが組織化されたのが制度である。これらを総称して「構造」と呼ぶ。このアプローチの代表がマルクス主義である。資本家階級と労働者階級の対立の「関係」が階級闘争という「制度」として把握されている。ここほど大規模ではなくても、政治を改革するには選挙制度の変更が必要だという意見もこのアプローチに含まれる。
合理主義アプローチは、個人や集団を自己の利益を追求する合理的思考に基づいて行動すると捉える。経済学の手法の応用とも言える。このアプローチの代表はアンソニー・ダウンズだろう。選挙で投票しようとすれば、立候補者や政党がこれまでどのような政策を実施し、また今主張しているのか、さらにそれが自分の生活とどう関係しているのかに関する情報を収集・分析する必要がある。けれども、生活に追われる市民にはそんなコストや時間を負担できず、また大海の一滴のような自分が投票したところで政策決定に影響を与えられるはずもない。ダウンズによれば、多くの市民が政治に無知であるのは、合理的な選択の結果となる。このアプローチでは、個人を最小単位として考えるので、無党派層のように、結束の弱い集団も扱える利点がある。
構成主義アプローチは人間の「認識」に焦点を当てる。「構造」は客観的に実在するのではなく、主観的な「認識」の産物だと考える。この認識は必ずしも合理的である必要はない。構造がそれとして機能するのは、多数の人々の間でイデオロギーやアイデンティティなどの認識が共有されたときである。例えば、日本における政権交代は選挙制度を変えただけで起きるわけでなく、政権交代の意義という認識が市民に共有されて初めて達成される。実際、2009年の総選挙の直後に行われた報道機関による世論調査ではその意義を認める回答が70%前後に達している。いささか単純化したが、これが構成主義アプローチの捉え方である。ただし、構成主義による主張は各種の社会調査の結果に基づいた分析を必要とする、「国家は共同幻想である」という主張は、大規模な社会調査の結果から導き出されたわけではないので、構成主義的アプローチに属さない。構成主義アプローチは禁欲的に振る舞わないと、社会科学から離れて、思いつきと思いこみの羅列に終わってしまう危険性がある、
この「認識」をめぐっては、それを分析の根拠とするだけでなく、できれば、そのように形成された理由も明らかにする必要がある。とりわけ、実感とも言うべき認識が実証的データが伝える実態と異なっている場合には、踏みこんだ考察が欲しい。
市場メカニズムへの過度の期待を意味するだけの小泉=竹中路線は、日本が「大きい政府」だという認識を利用している。日本は「大きい政府」であり、効率性に乏しい。「小さい政府」に改革しなければ、日本経済は再生しない。けれども、90年代以降、政府支出の対GDP比は先進諸国と比較しても低く、最終消費支出と社会保障移転の割合も相対的に小さい。防衛関係者を除き、特殊法人職員を含む公務員数も、人口規模当たりで見ると、英米よりも低い。実感と実態がずれている。この理由を探るには、は公式・非公式に出される行政からの指導等の量に関する統計データを調査してみるというのも一つの方策である。また、新聞の見出し検索をかけて、「大きい政府」等に関する年間件数の変移を調べるのも興味深い。
余談ながら、小泉=竹中路線といえば、面白い話がある。この方針はミルトン・フリードマンの新自由主義を援用したものと見なされている。けれども、そのミルトン・フリードマン本人は、『フリードマンの日本診断』(1981)において、日本こそ自らの提唱する新自由主義の国だと高く評価している。フリードマンとその日本の弟子たちの当時の主張を要約すると、次の通りである。
日本は、先進国中、GNPに占める政府支出の割合が最低で、高度経済成長期には税の負担率が20%にとどまっている。防衛費が少なく、福祉関連予算が著しく低いこともあるが、それは社会資本整備を含めた産業政策のコスト・パフォーマンスのよさを示している。
国有企業が少ない。また、大企業間にも活発な競争がある。
競争力のある中小企業が多数存在する。日本では、起業精神が旺盛で、かつ経営者の独立心も強い。彼らは労働組合への反発が激しく、労働福祉政策に反対するばかりか、政府の経済政策は大企業を利するだけと批判的である。中小企業の経営者が日本の新自由主義を担っている。
高い貯蓄率、持ち家志向、進学熱、出世競争などは政府に頼らない自助努力志向の政治文化の表われである。
以上のように、家元が真の新自由主義国と70年代後半の日本にお墨付きを与えている。しかし、小泉純一郎政権下で、なぜかこのフリードマンの賞賛がメディア上で論議されていない。
話を戻すと、この三つのアプローチが単独で用いることは最近では少なく、混合した上で、どれかにウェートを置いて分析が展開されるのが一般的である。分析の精緻化のレベルの差がそれに加わる。ただ、現在の北朝鮮やミャンマーのように、社会調査のデータが乏しい国や地域の課題を対称にする祭には、構成主義的アプローチを適用するのが困難である。
政治分析を眼にした際、どのアプローチが主に用いられてその結論が導き出されているかを考慮して、その妥当性を判断することが望ましい。また、いずれのアプローチにも当てはまらない主張は、たんに一般的な実感に依存した恣意的なものと見抜くこともできる。意見に納得する前に、そのアプローチを確認すべきである。政治分析の見方を理解することは、考えの選択肢を広げるのにつながる。
〈了〉
参照文献
大嶽秀夫=野中尚人、『政治過程の比較分析』、放送大学教育振興会、1999年
恒川恵市、『比較政治』、放送大学教育振興会、2008年
M・フリードマン=西山千明=内田忠夫=金森久夫他、『フリードマンの日本診断』、 講談社、1981年
アンソニー・ダウンズ、『民主主義の経済理論』、古田精司監訳、成文堂、1980年
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