「だいたい世間では何でも急がされることが多いから、速くするよりはちょっと遅めぐらいが多分いい」。
森毅『数学も人生も編み物のようなもの』
小泉純一郎内閣の誕生以来、現代の日本政治では、ワイドショーと世論調査が大きな影響力を持っていることは否定し難い。この二つのトピックについて、そのため、多くの論考が提示されている。しかし、ワイドショーや世論調査のリテラシーから分析したものはあまり見られない。
ワイドショーは、一般のニュース番組と違い、即時性を棄て、ニュースの解説に特化している。その際のセールスポイントは「わかりやすさ」である。このわかりやすさは、「図式化」・「可視化」・「要約化」の三つの方法によって可能になっている。
第一の図式化は、個々の要素が複雑に絡み合う出来事や事件、現象をできる限り少ないカテゴリーに分け、チャート化する方法である。2010年の民主党代表選挙であれば、小沢一郎元幹事長を軸に、議員集団を反小沢・親小沢・中間派と分類し、それらの駆け引きを図にする。
第二の可視化は、動画や静止画、実演などを通して、視覚的に理解を促す方法である。百聞は一見に如かずというところだ。これにより、しばしば印象の強い映像が繰り返し流される。2009年の事業仕分けでの蓮舫参議院議員による「2位じゃだめなんでしょうか?」が好例であろう。
第三の要約化は、それに関する説明を司会者やレポーター、コメンテーターが1分や1分半等の短時間で簡潔に伝える方法である。民放の場合、スポンサーとの兼ね合いがあり、時間厳守である。これができない人は、コメンテーターとして失格とされる。もっとも、時間制限を守れるが条件である結果、顔ぶれは固定化し、その話も限りなく無内容である。
なお、番組中に誰かがしゃべっている間、他の出演者は気配を消していなければならない。佐藤清文という文芸批評家がTBSラジオに出演した祭、コラムニストのえのきどいちろう氏からこの要件をアドバイスされている。
このわかりやすさにより、視聴者は関心のあるニュースについて手間隙、すなわちコストをかけずに情報を入手することができる。視聴者が制作側の主張を鵜呑みにするとは限らず、自分なりに考えたり、誰かと話したりして認識を形成するけれども、問題設定の枠組みとして大いに利用されている。だいたい、一般の商品と違い、政治課題はそれが自分の生活とどう関連しているのかがわかりにくい。視聴者のこうした合理的思考の求めがある限り、ワイドショーは、何と非難されようと、存続する。
東浩紀は愚かにも、2010年10月28日付『朝日新聞』の「論壇時評」において、「有権者の消費者化を逆手に取り、新たな政治参加の可能性として捉える理路はないものかと夢想するのだが、それは無理なのだろうか」と述べている。東は、今回に限らず、対象のポイントを把握せず、自分の思いつきや思いこみを優先して議論を展開する癖がある。そのため、「動物化するポストモダン」や「量子家族」といった彼の生み出す概念は、多くの人と共有できるようにアルゴリズム化しない。このような人物が大手を振って歩けること自体が今の論壇の貧困さの現われであろう。
見かけ上のわかりやすさはわかった気にさせるという危険性もはらんでいる。説明原理を最小化しながらも、それらをつなげる基礎理論を解説していなければ、真にわかりやすいとは言えない。ところが、制作側はそれを省きたがる。結局、ワイドショーの提供する情報は断片的になってしまう。けれども、断片的理解は、実際には、効率が悪い。
ちなみに、インターネット上の情報も断片的である。ネットだけで調べたところで、得られる情報は断片的でしかない。インターネットは、本来、体系的な知識を持った専門家たちが学術・研究目的で情報を共有するツールである。体系性に乏しかったり、情動的だったりする人物が使っても、その意義を十二分に活用できない。
このワイドショーから得られた情報が、各報道機関が頻繁に実施する世論調査に影響し、政治家はそれに恐々とする。世論調査による内閣支持率がしばしば首相の政権運営を左右する。
この世論調査に関しては政治家・識者の間でも否定的な意見が少なくない。設問次第で結果が変動することは一般でもよく知られている。結果の信頼性を高めるために、社会調査はさまざまな研究によって改良が加えられている。調査票の作成のみならず、調査者の態度などにもそれは及んでいる。社会調査は非常に刺激的な研究領域であり、一度その魅力の虜になると、病みつきになる。残念ながら、社会調査もどきが氾濫しているのも事実である。
報道機関による世論調査に特有の問題点も認められる。まず、報道機関の実施する世論調査はある時点での社会集団の意識を調べるケースが多い。これは追調査が意味をなさず、結果が妥当かどうかの厳密な判断をするのが難しい。また、社会集団の特性を調べるのではなく、特定の問題意識を刷りこむ目的で用いられる場合もある。これは一種の世論誘導である。世間がどう思っているかを調べるのが社会調査の真のあり方ではない。
しかし、今、報道機関が行っている世論調査の真の問題点はそれではない。頻繁に繰り返されていること自体である。
社会調査の基本は訪問面接調査である。しかし、プライバシーに対する関心の高まりや突然の来訪者への不信感などなどの理由で協力拒否されることが多くなっている。そこで、電話帳を無作為に抽出して電話をかけ口頭で質問する電話調査が代用される。ところが、電話帳に番号を載せない世帯や携帯電話しか所有していない世帯が急増したため、RDDにとって代る。これはコンピュータがランダムに電話番号を発生させて電話をかけ、それが個人所有であった場合のみ、その世帯の誰か一人を任意に選んで調査対象とする方法である。ただし、世帯員数がそれぞれ同一でない以上、標本抽出される確率が等しくないので、無作為抽された標本ではない。こうした電話調査の普及により世論調査にかかる手間隙、すなわちコストが軽減したため、各報道機関は頻繁に実施できるようになっている。
けれども、原純輔東北大学院教授の『社会調査』によると、「調査対象者の抗議や拒否や疑問に誠意をもって対応することを厭う逃げ腰の調査態度」では、よい調査結果を得られない。同教授は、面接調査と電話調査では、同一の質問であっても、前者に対して後者の回答がよく言えば「大胆」、悪く言えば「無責任」となる傾向が見られると指摘している。
世論調査において頻繁さとは安易さと同じであり、そこで得られた結果はいささか無責任な傾向を示す。これは回答者と言うよりは、調査以前の「逃げ腰の調査態度」の問題である。そういった調査結果が繰り返し報道されることで、特定の方向に世論が誘導される危険性も否定できない。
ワイドショー政治と濫発される世論調査の両者に共通しているのは「手軽さ」だと言える。有権者もメディアも政治に求めているのもこの「手軽さ」である。現在の政治をめぐる状況を名づけるとすれば、「お手軽政治」になろう。有権者やメディアはお手軽に結果を早く欲し、政治家も時間がないと同じくお手軽に現状維持に傾斜する。
多分、重要なのは入ってきた情報をどれだけうまく扱うかである。(略)だが困ったことに、今はいい加減な情報ほど入手しやすい。ごろごろころがっている。(略)情報化時代だからこそ手に入りやすい情報は、まず一度疑ってかかる必要がある。
(森毅『手に入りやすい情報はまず疑ってみる』)
情報に触れるには、情報リテラシーが不可欠である。同様に、政治を考える際にも、最低限の政治リテラシーを身につけておく必要がある。
〈了〉
参照文献
原純輔他、『改訂版社会調査』、放送大学教育振興会、2009年
森毅、『みんなが忘れてしまった大事な話』、ワニ文庫、1996年
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