エントランスへはここをクリック   


Missed Opportunities
─コミュニケーションと歴史


佐藤清文

Seibun Satow

2011年2月10日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


“If history repeats itself, and the unexpected always happens, how incapable must Man be of learning from experience”.

George Bernard Shaw

 他の選択肢をとることができなかったのかと疑問が沸く歴史の事象がある。それは後知恵ではなく、個人や集団の意思決定に不備が認められる場合である。別の選択肢を選んだとしても、その悲劇的事態を回避ないし軽減できたかは定かではない。けれども、少なくとも、その判断は適切ではなく、局面の悪化を後押ししたと考えざるを得ない。1938年1月に近衛文麿首相が発表した「近衛声明」がその一例である。「国民政府を相手とせず」として対戦国の政府を交渉相手と認めなければ、戦争は泥沼化する。近衛首相は自ら和平交渉の窓口を閉ざし、絶好の機会を手放している。明らかに意思決定に過誤がある。

 ある問題に直面した際、複数の解決策を用意し、その中から適切な物を選択して、行動に移す。この手順を「意思決定(Decision Making)」と呼ぶ。この過程を詳しく辿ると、次のようになる。

 まず、問題の枠組みを規定し、定義する。この段階で、選択肢の範囲が限定されるので、慎重に行う必要がある。定義の曖昧な問題はそもそも解決できない。暗黙知を明示知にしたり、習慣的な思いこみ、すなわち信念を再考したり、好機に変えたりする作業を伴う。その後、問題に対する目的を体系化して、最終目標を設定する。自分の考えや経験をたたき台に、新たに収集した情報や第三者の意見を参考にし、制約条件や関係者の合意等を加味した上で、複数の案を練り上げ、選択肢を作成する。不確実性をできる限り減らして最終的に残ったそれらについての内容を検討し、リスクや予測される結果を含めて相互比較を行う。妥協点を模索することも必要である。

 近衛声明には、「帝國政府は爾後国民政府を対手とせす。真に提携するに足りる新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」とあり、不確実性が著しい。実態を調べる以前に、これが選択肢として残ったこと自体が意志決定過程の破綻を窺わせる。

 意思決定は個人の場合と集団の場合がある。前者は、個人的以外にも、組織や社会の問題に対する担当者や責任者がその役割として行うケースも含む。意思決定の方法は、実際、個人の場合を主に対象にしている。後者には選挙や投票、公聴会といった民主主義的原則に従う場合、上下関係や専門性に応じて責任と権限に差が認められる場合の二つがある。ただし、いずれの場合でも、参加者全員が決定を受け入れる必要があるので、公正さが確保されていなければならない。意思決定過程では、そのため、コミュニケーションがどのようにとられているかが重要になる。

 結果が予想通りなら、それに越したことはないが、新たな状況が生まれてくるときもある。運よく、思いもかけぬ好結果がもたらされることもあるだろう。しかし、局面が目まぐるしく変化し、意思決定を積み重ねなければならない事態もある。また、つめが甘かったために、突然、甚大な被害や損害が一気に押し寄せ、混乱に陥ることもあり得る。決定的な場面で判断ミスを犯し、好機を逃すと、対応が後手に廻り、とり返しのつかない大失敗を招いたり、過誤が累積されたりする。意思決定ではコミュニケーションが重要な機能を果たす以上、こうした逃した機会、すなわち「ミスト・オポチュニティーズ(Missed Opportunities)」は、そのあり方に不備があると、起きてしまう。

 “Missed Opportunities”は、ホール&オーツの曲のタイトルでもあるように、よく使われるイデオムである。英語の用法上、”opportunity”には確かな目標に向かって行動を進める契機というニュアンスがあり、”chance”と違い、偶然の意味が含まれない。”Somalia: The Missed Opportunities”“A Critical History of Economics: Missed Opportunities”といった具合に、起きてしまった政治的・経済的悲劇の報告・分析の作品の(サブ)タイトルで用いられるのを目にする。

 近頃の話題で「ミスト・オポチュニティーズ」を説明してみよう。大相撲のあり方には意見が割れるが、角界に改革が必要だったにもかかわらず、その機会をとり逃がしたために、今の事態に陥ったことは衆目の一致するところだろう。逃した機会は明白である。それは、メディアから出された「八百長相撲」という疑惑に対して、相撲協会が「無気力相撲」と答えたときである。前者は事前に打ち合わせて勝星を貸借ないし売買する相撲であり、後者は闘志に欠ける相撲である。問題を解決する際に、対策の選択肢の範囲を制約するため、定義が重要である。無気力相撲では、前もって示し合わせる行為がなく、ただ力士の内面性に原因が見出され、解決策の選択肢はそこから導き出される。「八百長相撲」の疑惑に「無気力相撲」と相撲協会が反論した瞬間に、改革の機会はとり逃され、累積的に事態は悪化し、今の騒ぎが不可避となる。

 「なぜこうなってしまったのか」ではなく、「なぜああならなかったのか」という「ミスト・オポチュニティーズ」を探ることを通じて歴史事象を検討する意義は小さくない。歴史は選択であり、その積み重ねである。そこには決定的な転換期があり、それをとり逃して判断を下してしまえば、事態は累積的に悪い方へと進む。結果の大きさを思い知るとき、決定者はなぜ他の選択肢を落としていったのかという疑問は膨らむ。現在は過去に制約され、未来は現在に制約される。「ミスト・オポチュニティーズ」の検討は累積的陶冶に歯止めをかける。「ミスト・オポチュニティーズ」を明らかにし、他の選択肢を模索することは歴史を相対的に捉え、絶対化=正当化を避け、重層的に考えることである。

 情報公開の進展やオーラル・ヒストリーの認知によって、この「ミスト・オポチュニティーズ・アプローチ」は確立されていくだろう。たんに証言を集めれば自然に出来上がるわけではない。それらを先に挙げた意思決定のプロセスと照らし合わせて、どこに、どのような問題点があり、なぜ生じたのかを検証する必要がある。

 この研究モデルは組織や集団における意思決定のコミュニケーションから歴史を考察する方法論である。歴史における個人をめぐる相互作用の役割を吟味することだと言ってもいい。こうしたコミュニケーション過程に着目することで、歴史の事象において個人の関与や働きはどれほどのものなのかを顕在化もできる。「もしも…だったら」という問いを避けずに、歴史に向き合うことは認識を広げる。それは実は前向きだ。

〈了〉

参照文献

ジョン・S・ハモンド他、『意思決定アプローチ』、小林龍司訳、ダイヤモンド社、1999年