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原子力教団佐藤清文
Seibun Satow
2011年7月10日
初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁
「私は自分のことを生物学者の『なりそこない』だと考えている。また同時に、『不本意ながら』記号の教説家でもある」。
トマス・シービオク
1984年4月、インディアナ大学のトマス・アルバート・シービオク(Thomas Albert Sebeok)教授は、合衆国核廃棄物管理局(The US Office of Nuclear Waste Management)の諮問へのテクニカル・レポート『1万年の架け橋となるコミュニケーション手段(Communication Measures to Bridge Ten Millennia)』を提出する。この問いは要約すると、高レベル放射性廃棄物は地下深く埋設されて処分される予定だが、この場所の危険性をその危惧のなくなるまでの1万年もしくは300世代の後まで伝えるのはどうしたらよいかというものである。1万年後の世界まで核のゴミを掘り出したら危険だと周知させる手立てを尋ねたというわけだ。
この諮問に答える人物としてこれほどの適任者はいない。と言うのも、1963年、「動物記号論(Zoo Semiotics)」を提唱、人間の現象を越え、非言語的コミュニケーションの考察の地平を切り開いた研究者だからである。これにより、従来の「記号学(Sociology)」に代わって「記号論(Semiotics)」が使われるようになる。1969年に国際記号論研究学会(IASS)を創設、国際的機関誌『セミオティカ』の編集長に就任するなどアメリカの記号論の第一人者である。この1930年にブタペストで生まれた知性は記号過程の理解を幅広くし、そのモデル化によって記号論全体の見取り図を後世に与えてくれる。時間を越えたコミュニケーションの手段を尋ねるのなら、彼をおいて他にない。
シービオク教授の提案は「核聖職者(Atomic Priesthood)」、すなわち原子力教団による「伝承リレー・システム(Folkloric Relay System)」、つまり口伝えである。300世代に亘る間に、言語が変容してしまうことは十分に予想される。また、図柄を用いた方法も意図と違って解釈される危険性も否定できない。いかなる記号も文脈依存から免れない。むしろ、一気に300世代に通じるコミュニケーションを考えずに、一世代一世代伝承させていく方が現実的である。物理学者や人類学者、記号論者などの「核聖職者」による組織を創設し、彼らが後継者を選んで、高レベル放射性廃棄物の処分場の危険性を世代間リレーとして伝承していく。シービオク教授は大真面目に政府にこう提言する。
なお、シービオク教授によるこのレポートは、現在、ウェブ上で無料公開されている。
このような神話的時間では古代からの知恵に頼らざるを得ないというわけだ。情報伝達では、もちろん、エントロピーが増大すれば、ノイズの入りこむ危険性が高くなる。それは伝言ゲームを思い起こせばよい。あるメッセージが300人の間を経てもそのまま維持されていると考えるのはいささか楽観的である。1万年を掛け渡すコミュニケーション手段など実際には非常に困難だというのがシービオク教授の真意だろう。
世界各地で原発が稼動しているが、そこから出る核のゴミの最終処分は大半が未決のままである。日本も例外ではない。そんな中、フィンランドは、映画『100000年後の安全』で描かれているように、高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場の建設を決断し、2020年からの運用を目指している。原子力教団の創設があるのかどうかは現段階では不明である。
原子力利用には、時空間を超えてしまうという問題点がある。1984年時点では1万年を想定していたけれども、高レベル放射性廃棄物の最終処分は10万〜100万年にも亘る危険性を孕んでいる。また、チェルノブイリやフクシマはその事故の影響が国境を越えることを示している。韓国はフクシマの汚染水を事前に通知しないで海洋投棄されたことに憤り、玄海原発の2・3号機の再稼動や老朽化した1号機の安全性に気をもんでいる。
シービオク教授の提言と対極にあるのが、内田樹は「原発供養」である。一見したところでは、両者ともスタンダップ・コメディアンのトークと聞こえてしまいかねないが、決定的に違う。2011年4月8日投稿の内田の「原発供養」によると、世界各地には益をもたらしながらも荒ぶるものを呪鎮する固有の方法があり、日本の場合、伝統的には「塚」や「神社」である。こうしたソリューションを用いた「原発供養」を行い、この荒ぶるものを鎮めるべきだと説く。「本地垂迹の説」の理解が感じられないように、内田の議論には民俗学・人類学・歴史学の体系的な知識の不備が見られるが、それ以上の本質的な欠陥がある。原発問題の固有さを認識していない点である。
原発問題は人類に未経験の事態を突きつけている。それに対処するために、近代科学にこだわらず、人類が育んできた知恵を借用することは考慮されてしかるべきだ。しかし、内田の提案には原発問題の固有さが抜け落ちている。このソリューションは他のアクシデントにも適用できてしまう。2010年4月20日に発生したメキシコ湾原油流出事故はその一例である。同年9月19日に油井の封印作業が完了したものの、汚染された環境の改善はいまだに続いている。益をもたらした荒ぶるものを鎮めるという発送ならば、かの地域の伝統に則った形式と名称になろうが、「油田供養」もあり得るだろう。断片的な知識による考察は、少し熟慮しただけで崩れてしまう。直面している問題の本質を把握しないでなされる提言は、一見才気溢れるかに思えて、実際には無内容である。
シービオク教授の原子力教団は、荒唐無稽に見えても、時空間の超越という原発問題の固有さを直視した上でのギリギリの回答である。人類はこれまで1万年を超えて、別の社会への正確な情報伝達を試みてきたことはない。しかし、これだけ切羽つまった課題を解決するのであれば、この手立てが考えうる中で最良であると思われる。内田にはこうした真摯な姿勢が欠けている。こんな意見を口にする前に、問題の固有さが何かを問い直すべきだ。原子力教団は傾聴に値するが、原発供養はそうではない。本質を認識することの脆弱さは議論を横道にそらさせ、建設的な深まりの邪魔をする。
原発問題の固有さは想像力の限界まで思い知らされる。それでも、想像力を働かせ、向かわざるを得ない。原子力教団の考えにあって、原発供養にないのはこうした覚悟だ。
〈了〉
参照文献
P・コブリー他、『記号論』、吉田成行訳、現代書館、2000年
内田樹、「荒ぶる神の鎮め方」、『内田樹の研究室』、2011年4月7日
http://blog.tatsuru.com/2011/04/07_1505.php
内田樹、「原発供養」、『内田樹の研究室』、2011年4月8日
http://blog.tatsuru.com/2011/04/08_1108.php
Thomas A. Sebeok. Communication Measures to Bridge Ten Millennia. 1984
http://www.osti.gov/bridge/servlets/purl/
6705990-CXADJt/6705990.pdf