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エネルギー・システムと
長期循環

佐藤清文
Seibun Satow
2011年9月13日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「もちろん、歴史はつながっているから、前史もあれば後史もあるが、さしあたり六十年ほどを一括りにして、括弧に入れてみると現在の転向点が見えてくる」。

森毅『景気の還暦』

「一世紀と言えども、『短期』である」。

ヨゼフ・アロイス・シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』


序章 原発と長期循環

 2011年8月23日付『電気新聞』は「政府が原子力コスト試算案 1キロワット時16〜20円」と題する次のような記事を掲載している。

 原子力のコストが1キロワット時当たり16〜20円程度との試算案が政府内でまとめられたことが明らかになった。一部経済誌の試算を参照して使用済み燃料の再処理などバックエンド費用を74兆円と仮定し、国から投入される立地費用と技術開発補助金、賠償費用を加えると、従来の政府試算の5円強を大幅に上回る単価になるとしている。政府の「エネルギー・環境会議」は、原子力コストの算出などのために「コスト等試算・検討委員会」(仮称)を9月に立ち上げ、報告書を11月に公表する予定。同委員会内の議論にあたっては、今回の試算案が一定の材料となる可能性もある。
 試算案では、地球環境産業技術研究機構(RITE)の秋元圭吾氏や立命館大の大島堅一教授がまとめた試算を活用。バックエンド費用が74兆円との前提を置くと、発電費用、バックエンド費用などの合計は秋元氏の試算の場合で10〜15円程度、大島教授の試算の場合で約13円になるとしている。そこに立地費用と技術開発補助金の約2円を加算。賠償などのリスク費用を3円強と想定し、すべて足し合わせた場合の原子力コストは15.8〜20.2円になるとの結論を導き出している。

 経済産業省の2010年版エネルギー白書によると、1kw当たりの発電コストは火力が7〜8円、水力が8〜13円であるのに対して、原子力は5〜6円である。しかし、今回政府の公表した値は従来の説明と違い、他の発電と比べて極めて割高だということになる。もっとも、以前から原発に関する政府や電事連の電力コストにからくりがあることは指摘されている。原発を建設する際の許認可申請の書類に電力単価が記されているが、そこではほぼこの金額である。原発は経済成長に貢献するどころか、足を引っぱっている。

 政府は、これまでエネルギー基本計画において、2030年までに総電力に占める原子力発電の割合を50%に高めることを目標にしている。加えて、原発を海外に輸出する方針を進めている。しかし、3・11以前に、資本主義の景気循環を考慮すると、この目論見は近視眼的で、見通しを欠いていると言わざるを得ない。

 資本主義の歴史を辿ると、経済活動のスピードが速い時期と遅い時期がある程度周期的に交互に出現する。これを「景気循環(Business Circle)」と呼ぶ。ただし、このサイクルはトレンド上での現象だって、一定水準をめぐるものではない。中でも最も長い波動は45〜60年周期のコンドラチエフ循環であり、現在はその第4期に属している。この長期循環が上昇に転じる前に、後に述べる通り、低金利時代が到来する。今、先進国の金融当局は量的緩和政策を続けている。近い将来、世界経済が上昇に転じたとき、このエネルギー計画のままでは、日本経済を失速させかねない。菅直人前首相は見直しを口にしたが、その後の政治情勢では20〜40年かけて脱原発依存や原発輸出継続などという無思慮な現状維持という愚かな方向に向かいかねない。それは将来ヴィジョンのない無責任な態度と言うほかない。長期波動はエネルギー・システムが転換する循環である。過去のコンドラチエフ循環は第1波が石炭エネルギー・システムの形成期、第2波が石炭エネルギー・システムの成熟期、第3波が石油エネルギー・システムの形成期であり、われわれの第4波は石油エネルギー・システムの成熟期である。再生可能エネルギーの研究・開発こそが新たな循環、すなわち再生可能エネルギー・システムの形成期への適切な対応にほかならない。以下、エネルギー・システムの転換と長期循環の関係について考察していこう。


第1章 コンドラチエフ循環

 資本主義はその内在的理由によって周期的な景気変動を示す。こうした認識に異を唱える経済学者も少なくない。経済の動きは不確実であり、不規則なショックにしばしば見舞われる。循環に見えるのは錯覚であって、偶然の一致にすぎない。または、循環が起きるとしても、それは外的要因を起点としており、資本主意の内的理由から説明するのは適当でない。けれども、景気循環は、資本主義とそれ以前の社会との不況の違いをよく表わしている。

 資本主義は、事実上、初めて人類に供給過剰を与えている。遺産相続社会において、主要産業は農業である。農業の生産量は不規則な天候や病害、戦乱に左右される。不作が続き、食糧危機に陥り、供給不足による価格の高騰が不況の主因である。それが社会不安を引き起こし、経済活動全般の収縮を招く。農業は、先に不規則な条件に依存するので、その被害も非周期的であると共に国内の地方ないし一国、周辺地域に限定される。一方、資本主義では、過剰生産や過剰投資、すなわち過剰供給によって不況が引き起こされ、価格が崩壊する。過剰な製品が売れ残り、過剰な投資が焦げつく。社会的な危機は、資本主義の登場により、飢饉と死亡率の上昇から倒産と失業へと変わる。加えて、工業は国際的な関係に置かれているため、その被害は国境を越えて連鎖する。循環は過剰さがもたらすのであって、少なくとも、資本主義以前の社会では起こりえない。

 景気循環にはいくつかの種類があるが、それは資本主義における時間性を端的に示している。それは資本主義の体内時計である。3〜4年周期のジョゼフ・A・キチンの在庫循環、7〜11年周期のJ・クレメンス・ジュグラーの設備投資循環、約20年周期のサイモン・クズネックの建設循環がよく知られている。

 ソ連の経済学者兼統計学者のニコライ・ドミトリヴィチ・コンドラチエフは、1920年代後半、資本主義下での経済成長は通常の景気循環よりずっと長い45〜60年に及ぶ周期的波動を被ると主張している。1925年の論文『長期波動』を始めとするいくつかの論考を通じて、おびただしい統計データを示しながら、展開されている。

 長期循環自身はコンドラチエフ以前からすでに議論されている。しかし、論拠となるデータの列挙と論理展開の精度では彼に遠く呼ばない。コンドラチエフは、マルクス主義の資本主義発展論という動機から、アルフレッド・マーシャルの部分均衡論を援用して長期波動を解き明かす。ケンブリッジ学派の権威は、『経済学原理』において、部分均衡論を時間に応じて、一時的均衡・短期正常均衡・長期正常均衡の三つに大別し、長期になると、供給が需要を決定するセーの法則に従うと分析している。コンドラチエフは、これを踏まえて、資本主義経済を市場均衡・短期均衡・長期均衡に分類し、そのうちの最後の波について資本ストックの変動に関連する破壊と再建の周期的過程から説明する。

 リチャード・B・デイ(Richard B. Day)が『長期循環論─コンドラチエフ・・トロツキー・マンデル』(1976)の中でコンドラチエフ自身による長期循環の説明を次のように要約している。長期上昇波のスタートの前提は、固定資本形成を上回る長期の貯蓄や貸付資本の蓄積、新規投資の波を誘引する利潤機会である。こうした条件下、旺盛な投資意欲から景気が上向く。この新規投資の波は新興諸国・地域の世界市場への編入をもたらすものの、次第に、政治的・社会的不安定を招き、貸付資本の漸次的枯渇と利子率の上昇、資本蓄積の緩慢化が生じる。投資は減少し、波動は下降へと転じる。ただ、生産費を削減する技術革新への発見・発明に対する刺激が復活する。けれども、画期的な科学技術は、資本蓄積の新たな上昇傾向が見られるまで、生産場面に応用されない。下降波の間、物価水準は下落し、貯蓄が固定所得者層内に蓄積される。生産が価格変動に順応しにくい農業部門は、不況に入ると、深刻化し、都市部と農村部の交易条件を後者に不利に傾く。そのため、工業部門での貯蓄活動が促される。物価水準が軟調であれば、金の購買量が増加するので、金生産が活発化、貸付資本の供給量も増加する。このような条件が整ってくると、利子率は低下し、新規の投資が徐々に強まり、波動は上昇傾向に入っていく。

 コンドラチエフはこの長期波動が過去三度発生したと主張する。ただし、第3波の終点は明らかではない。彼自身による第1波から第3波までの卸売物価と利子率、総合の始点と頂点を要約すると、次の通りである。

第1波 第2波 第3波
始点 頂点 始点 頂点 始点 頂点
卸売物価 1789 1814 1849 1873 1896 1920
利子率 1792 1813 1844
(1845)
1870
(1874)
1897 1921
総合 1780
(1790)
1810
(1817)
1844
(1851)
1870
(1875)
1890
(1896)
1914
(1920)

 今日では、()内がコンドラチエフ自身による仮説の適切な年だと一般的に認知されている。コンドラチエフは1892年にモスクワで生まれ、1917年5月に成立し、同年11月にボルシェヴィキが勝利を収めるまで続いたアレクサンドル・ケレンスキー臨時政府の食料省次官を短期間ながら務めている。彼は1920年に景気循環研究所を設立し、当局によって解散させられる28年まで指揮をとっている。長期波動論はこの時期に発見・展開されたものであり、その間、若干の修正が認められる。特に、ロシア革命における最高の論客レフ・トロツキーとマルクス主義の発展論と長期波動との関連をめぐって論争が繰り返されている。裏切られた革命家は政治的・社会的要因を重視している。スターリン体制下の1930年、コンドラチエフは非合法の勤労農民等のメンバーであるという嫌疑で逮捕され、38年、シベリアで粛清されたと見られている。

 コンドラチエフは、必ずしも、資本主義内部の要因から長期波動を説明してはいない。戦争やゴールド・ラッシュなど不規則な外的ショックの資本主義体制への効果を強調し、その規則性を示唆している。また、コンドラチエフは工業と農業の関係に関心が高かったせいか、論旨の一貫性が不十分である。証明に卸売物価に関する時系列データを用いているが、19世紀の欧州では農産品の占める割合が大きく、適切ではない。さらに、工業上の技術革新と産業における資本蓄積の波及効果から長期波動の理論が組み立てられている。不況の圧力は画期的な技術革新の研究・開発を後押しするが、その実用化には不確実性が伴うので、金利が下がり、投資意欲が増す波の上昇を待たねばならない。この考えならば、利子率に着目する方が適当であろう。長期循環の目安は利子率の周期的変動である。

 コンドラチエフは、以上のように長期循環が資本主義発展の固有の特徴である可能性の確率が高いと主張している。その議論に不備があるとしても、資本主義における最長の時間性をモデル化した意義は評価されなければならない。


第2章 コンドラチエフ以後のコンドラチエフ循環

 われわれが取り扱おうとしている変化は経済体系の内部から生ずるものであり、それはその体系の均衡点を動かすものであって、しかも新しい均衡点は古い均衡点からの微分的な歩みによっては到達しえないようなものである。郵便馬車をいくら連続的に加えても、それはけっして鉄道をうることはできないであろう。

 『経済発展の理論』(1912)の英語版の脚注でこのように記すヨゼフ・アロイス・シュンペーターは、『景気循環論』(1939)において、コンドラチエフ循環を「経済体系の内部」からのみ論じている。率直に言って、長期循環を世に知らしめたのはこの書物のおかげだろう。彼は、キチンの在庫循環と生産高と雇用に関連するジュグラーの設備投資循環をコンドラチエフ循環に結びつける。キチンの循環が三回起きればジュグラーのモデル、それが六回発生すればコンドラチエフの波動になる。この貴族趣味のオーストリア人は、景気循環を内因的に説明する際にも、「技術革新」を重視する。

 根井雅弘京都大学大学院教授は、『経済学の歴史』において、『経済発展の理論』に見られる技術革新には次の5種類があると述べている。

(1) 新しい財貨、あるいは新しい品質の財貨の生産
(2) 新しい生産方法の導入
(3) 新しい販路の開拓
(4) 原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得
(5) 新しい組織の実現

 先駆的な革新技術は模倣されるため、さまざまな産業で一時に多数の革新が生まれ、最初の革新者の超過利潤が後の追随者によって侵食され尽くすまで続く。革新の力も消えるが、新世代のそれが登場し、新たな軌跡が始まる。この過程が長期循環である。シュンペーターの長期波動は産業循環と呼べるだろう。ただ、シュンペーターはなぜその過程が45〜60年も必要とするのかについては語っていない。
 
 『景気循環論』におけるコンドラチエフ循環は次のように要約できる。

産業革命
コンドラチエフ
ブルジョア・
コンドラチエフ
新重商主義
コンドラチエフ
技術革新 綿織物・鉄
・蒸気機関
鉄道 電気
・自動車・化学
繁栄 1787〜1800 1843〜1857 1898〜1911
後退 801〜1813 1858〜1869 1912〜1924・25
沈滞 1814〜1827 1870〜1884・85 1925・26〜1939
回復 1828〜1842 1886〜1897 1940〜1953

 それぞれの波に名称がつけられていることに注意しよう。波動のメカニズムに関しては内因的だが、時代精神や気分が表われており、文明批評的な意図も見てとれる。このカール・マルクスとレオンワルラスをこよなく愛した思想家は、1950年に亡くなっているので、長期波動も第3波までの分析に終わっている。

 シュンペーター以後、長らくコンドラチエフ循環は経済学者の興味を惹かない。長期を捨て、専ら短期分析に限定したジョン・メイナード・ケインズの理論が大戦後にヘゲモニーを獲得していては、その状況も無理からぬところである。けれども、ケインズ革命に陰りが見えた19770年代、ドル・ショックと二度の石油ショックによる世界的不況のため、資本主義の危機もしくは終焉という文脈からコンドラチエフ循環は復活する。

 主要な論者と主張は次の通りである。

エルネスト・マンデル 利潤率変動
ジョイ・W・フォレスター 資本の不足・過剰交代
J・J・ファン・ダイン 技術革新・新産業サイクル
デイヴィッド・M・ゴードン インフラ投資
クリストファー・フリーマン 技術革新による労働需要の変化
マネタリスト マネー・サプライ
W・W・ロストゥ 原材料・食料価格
ロナルド・W・カイザー 社会現象の生起
イマニュエル・ウォーラースティン 世界経済の膨張・収縮
のロジスティック波の作用

 この学説の出自からして当然と言えばその通りだが、概して、マルクス主義者がリストに名を連ねている。この中でも、最も知られているのがベルギーのトロツキー主義者エルネスト・マンデルの解釈だろう。彼は階級闘争を長期循環に組みこみ、利潤率を主要な動因と考えている。また、ゴードンのインフラ投資説も興味深い。経済成長の前半部でインフラ整備の占める割合は大きい。なお、論者によって、シュンペーターもそうだったが、始点と頂点がコンドラチエフと異なっている場合も少なくない。

 余談ながら、インフラ整備が景気を底上げする効果があることは、19世紀後半にはもう人々は直観的に理解している。1893年、アメリカは当時としては史上空前の不況に陥る。この年だけで、1万5000社の企業と600行以上の銀行が倒産、翌年には5人に1人が失業者という事態のまで達する。教会や慈善団体の活動も焼け石に水という有様で、全米各地でデモが頻発、地方政府をつるし上げ、無料食堂の設置の他に、道路工事を用意させている。さらに、オハイオ州マシロンの実業家ジェイコブ・コクシーは、連邦議会に対して、成功しなかったものの、失業者救済のために巨大な道路建設計画を立案するように働きかけている。彼はこれを成功させる目的で、集った失業者を「軍隊」と称し、ワシントンへ行進するが、失敗に終わる。連邦政府は自由放任主義を頑なに信じていたが、ケインズ革命以前に有効需要の原理は直観的に人々の間で認知されている。今日、「ティーパーティー」が草の根運動とて有効需要の原理に基づく政策を非難しているのは、アメリカの人民の伝統に反する態度だと言わねばなるまい。

 近年では、金融市場関係者の間で、長期金利の波を長期循環の波が後追いしているデータを根拠に、市場メカニズムの破綻と再生のサイクルとしてコンドラチエフ波動が理解されている。けれども、なぜ長期金利がそのように変動するのかという理由に関しては、人々の同時代的な共通認識の変遷と解説される。これは社会構成主義的な分析であって、資本主義固有の内在的理由から解き明かしてはいない。記述的推論としては妥当であっても、因果的推論には不十分である。なるほど市場の心理を予測することが機関投資家には必須だとしても、資本主義に内在するシステムの構造から生じる景気循環に対して、主意主義的・唯名論的な解釈を持ち出すべきではない。当局に頼らず自分でけりをつけるヴィジランテ・ムービーのごとく、均衡論だけで長期循環を描くのもどうかと思うが、外的要因に求めるのは後知恵の帰来がある。

 もちろん、社会的通念が経済制度の定着に影響を及ぼすことは確かである。エルナン・コルテスやフランシスコ・ピサロのように、富は金銀であり、その獲得は略奪であるという認識が支配的であっては、資本主義は浸透しない。富は効率性に基づく生産力であり、それは増殖として手にしなければならない。技術革新をめぐる論考は技術決定論・文脈論・社会構成論などに分類され、それは供給側から需要側へと重心が移っているが、適者多産という原則は共通している。現在の科学技術は社会の意識よりも速く進展している実情があり、それを踏まえるならば、今後、アプローチも変わらざるを得ないだろう。とは言うものの、それぞれ非常に示唆に富む考察を提供しており、経済学を考える際にも参考になる。

 以上がコンドラチエフ循環をめぐる考察の大まかな歴史である。コンドラチエフ循環は、他の短い循環と違い、在庫や設備、建設といった特定の投資形態がない。それでいて、卸売物価や金利などの価値的指標には認知できる。他方、実質成長率や工業生産量などの数量的指標では鮮明ではない。ほぼ国際的に同時進行し、ピークは高インフレ・高金利、ボトムは低金利や場合によってはデフレも加わる時期に当たる。確かに、これを解き明かすのは難しいと言わざるを得ない。

 各種の景気循環は階層構造を形成している。在庫循環はレイヤーの上層にあり、次が設備投資循環、その下に建設循環が続く。コンドラチエフ循環はこの階層の最下層に位置する。レイヤーが下層であるほど、その循環は時間もかかり、波及効果も大きくなる。景気循環が投資の階層構造を形作っているとすれば、コンドラチエフ循環はエネルギー投資がかかわっていると想定される。

 資本主義は、それまでの遺産相続社会と違い、大量消費の需要を見越して、大量生産と大量輸送が行われる。それを可能にしたのはかつてないほどパワフルなエネルギー・システムである。エネルギーは経済的・商業的資源である。その中で最も波及効果の高い主要なエネルギーを利活用する編成体制を「エネルギー・システム」と呼ぶことにする。エネルギー・システムは経済の基盤であり、それに基づいて産業の関連・連鎖が生じる。その限界や課題は経済成長に大きな影響を及ぼし、システムの変換は社会構造さえも変える。古い産業は衰え、新しい産業が産声を上げる。その整備は大規模であるため、莫大な投資と労働力を集められる時期を待たねばならない。長期の不況という技術革新への強烈な圧力も必要である。それはまさに半世紀に一度というような出来事だ。コンドラチエフの長期循環はこのエネルギー・システムの循環である。論者が長期波動を考察する際、その動因がさまざまに分かれるのも、エネルギー・システムという基盤の転換には多くの変化が伴うからである。


第3章 エネルギー・システムから見たコンドラチエフ循環

 「17世紀の全般的危機」が過ぎ去った18世紀、英国では農業革命により食糧事情が改善、人口が増加し始め、重商主義による民間資本の蓄積や海外市場の拡大、関連産業・鉱業の発展、数々の科学の発見と技術の発明などを背景に、産業革命が本格化する。

 産業革命がそう呼ばれるのは、やはり動力源の蒸気機関へのシフトが革命的だったからだろう。初期は水力に依存していたが、効率性もさることながら、地理的条件に制約され、投資先も限られる。産業革命はしばしば供給側から説明されるが、需要の拡大が見こまれていなければ、いくら供給したところで、在庫の山をつくるだけである。遺産相続社会の注文生産と違い、資本主義的生産様式は不特定多数を消費者として想定する。消費者は相対的優劣を基準に商品を選ぶ。他の企業との競争を勝ち残るために、技術革新を積極的にとり入れる。けれども、技術革新には不確実性が伴う。好況期は、概して、応用的・連続的技術革新による多数のマイナー・チェンジが繰り返される。一方、不況期には、生存圧力が強まるため、メジャー・チェンジをもたらす基本的・非連続的技術革新の研究・開発が進められるが、本格的に実用化・商業化されることは多くない。特に、この時期、既存エネルギーの効率化と次世代エネルギー利活用の研究・開発の技術革新が促進される。生産・流通・消費のいずれの場面でもエネルギー・システムへの依存は高い。長期循環の下降期はこれが原因でボトルネックが生じ、応用的技術革新が行き詰った状況である。さらなる効率化にはエネルギー・システムの技術革新が不可欠であるが、影響が大きいだけに、転換には時間を要する。長期の不況のため利子率が下がってカネがあまり、有望な投資先と投資家が探している。新しいエネルギー・システムが実用的な水準に高まったとき、巨大な資本と労働力が投入されて、その技術革新を支えるインフラ整備が始まり、景気が上昇していく。産業革命の歴史を辿ると、そこに登場してくる発明が動力源やインフラにかかわるものが多いことに気づかされる。

 以下では、エネルギー・システムからコンドラチエフの三つの波を考察するが、長期の波動であるため、細部に拘泥していては生産的ではなく、視点・頂点・終点が何年であるかは必ずしも厳密ではない。重要なのはいかなる循環の流れを辿っているかである。また、「形成期」や「成熟期」といった概念を用いる。前者は、全体として見れば、従来型のエネルギーが中心であるけれども、時代の流れとしては新エネルギーにシフトしていく時期である。他方、後者は在来型エネルギーの能力が十分発揮されているものの、決定的な問題点が見つかり、非在来型のエネルギー開発が模索される時期である。

 第1波の物語は石炭エネルギー・システムの形成期である。この波動は、工業化が進展していたのは英国だけなので同国だけに限定できるが、いつ始まったかを特定することは難しい。1785年にエドモンド・カートライトが蒸気管を使った力織機を発明、以後の機械はこの原理の延長上にあるから、1780年代後半が始点だったと推測できる。シュンペーターの1787年説が適当であるように思われる。圧倒的な生産力から生み出される英国産の綿織物は大西洋市場を席巻する。上昇は1805年頃まで続き、13年が金利のピーク、1817年から恐慌が発生し、機械輸出禁止令の緩和された25年まで後退、翌年以降、回復期に入っている。終点は1843年が妥当であろう。この年、イギリスは機械輸出禁止令を廃止する。この法律は他国・植民地への機械・技術の輸出ならびに熟練職人の渡航の禁止を定め、1774年に制定されたものの、抜け道が多く、すでに25年に緩和されている。自由貿易の時代がすぐ目前に迫っている。

 第1波は運河バブルから明ける。以前から石炭・工業品・農産品などを大量に輸送できるため、コスト削減につながる水運は非常に好調な産業である。1790年代から英国では工場の動力源として蒸気機関が普及し始める。蒸気機関はたんに力強いだけではない。これまでの動力と違い、シリンダー内の平均圧力を割り出すインジケーターを用いて馬力を算出できるため、改良の成果が定量化できる。1796年、ジョン・サザンがこれを発見している。進化が可視化できるのだから、使った場合の仕事量の予想が立てやすい。工業化が進展するにつれ、運河の建設ラッシュが始まり、1790年には投機熱を沸き起こし、93年、バブルは弾ける。しかし、新たな運輸手段の必要性は決して陰りを見せない。1807年、ジェームズ・フルトンが最初の蒸気船クラーモント号を発明している。また、やはり1790年代、無軌道蒸気機関車が出現し、1804年、リチャード・トレヴィシックが炭鉱で古くから使われてきたレールにそれを乗せるアイデアを考案する。1825年、ジョージ・スティーヴンソンの発明した蒸気機関車が35台の客車と貨車を引いてストックトン=ダーリントン間約40kmを時速18kmで走破する。この成功は水運を国内輸送の主役の座から陥落させ、運河建設も廃れていく。しかし、海外輸送では船舶の重要性は揺るがない。39年、スクリュー・プロペラを初めて装備した汽船アルキメデス号が就航、徐々に外輪式にとって代わる。とは言うものの、外洋の大幡貨物船は1860年頃まで帆船が主流である。蒸気機関の輸送・交通への応用はいずれの分野でも試行錯誤と言ってよく、確立は第2波の到来を待たねばならない。

 イギリスから独立したアメリカでは非常に面白い現象が起きている。1790年代有料道路建設のブームが起き、東部の港湾都市と後背地域との商品交通が可能になり、国内の工業化の基盤を提供している。しかし、馬車だけではとても広大な国土を輸送するには十分ではない。そこで、1810年代後半から運河建設のラッシュが始まる。19世紀前半のアメリカ経済を牽引したのはこの有料道路と運河の建設・整備である。しかし、輸送・交通で最も実質的に活躍したのは河川蒸気ボートである。1815年から1860年まで花形であり、これにより中西部で蒸気機関工業が発達している。英国では熟練甲羅による機械の打ち壊し運動が発生したが、アメリカは国土が広く、職人の絶対数が不足しているため、機械の導入に工場は積極的である。英国は技術者の渡航を禁止していたが、アメリカの高い報酬に釣られ、身分を偽って大西洋を渡り、近代工業の術を伝授している。この歴史が教えてくれるのは、近代工業化にはインフラ整備が前提であり、新興産業の発達には、既得権益勢力による抵抗が少ないという受験が必要だということである。その後のアメリカンも産業力をこの時点ですでに予感させる。

 蒸気機関が英国で全産業に常識的に導入されるのは1830年代以降である。しかし、それは英国における蒸気機関の工場への設置が革新的異議を持たなくなってきたことを意味する。第1波を通じて、蒸気機関は、従来の動力源のもたらす産業の関連・連鎖の拡大を妨げるボトルネックを克服している。ただ、この頃には蒸気機関も運輸・交通への定着という第二世代に入りつつある。30年、リヴァプール=マンチェスター間約50kmの最初の実用鉄道が開通する。これだけでは、言うまでもなく、とても「インフラ」とは呼べない。上野動物園のおサル電車とさして違いはない。インフラはネットワーク化して効果を十分に発揮する。間違いなく、近い将来、鉄道の時代が来る。

 ここでもアメリカは興味深い。1840年に全ヨーロッパの鉄道の総延長が1818マイルだったのに対し、アメリカではすでに3000マイルが建設されている。運河よりも地理的条件に制約されないので、広大な国土であるから鉄道の必要性は認められるのみならず、何しろ、地価が安く、投資先として魅力的である。低金利も後押しして、巨額のイギリス資本が流入し、路線建設競争が始まる。次第に国内資本も参入、1860年までにミシシッピ川以東に3万マイルの鉄道が敷かれ、国内市場がほぼ統一される。第2波の時期、アメリカは第2波の実験場という観を呈している。

 第2波は石炭エネルギー・システムの成熟期である。この波の前半の経済を引っ張ったのは鉄道だと言ってよい。英国の鉄道バブルの真っ只中で、金始点は利が底をうった1844年にしよう。この並みの前半はイギリスが自由貿易を堅持したため、インフレが抑制されている。しかし、70年代半ばから20年以上に及ぶ長期的な世界不況に突入している。鉄道網整備の勢いが若干衰えた58年から69年までは後退期、金利がピークを示し、蒸気機関に手詰まり感が生じた70年から85年までは沈滞期、低金利で、第3波の鳴らし期間とも言うべき86年から97年が回復期に当たる。

 この波もバブルから始まる。今度は鉄道である。1840年頃、英国では鉄道会社が乱立し、鉄道株への投機熱が発生する。46年には272社にまで鉄道会社が増加、重複路線・不採算路線など過剰な設備投資が行われた挙げ句、バブルは崩壊する。鉄の生産力と質の向上、関連産業の成長、市場の統一などを背景に、さらなる経済発展のために、路線拡張が英国で本格化する。鉄道網建設は莫大な労働力と資本を必要とする大規模事業であり、極めてセクシーな投資先である。鉄道の開通自体はヨーロッパの各国共に1830年代であるが、鉄道狂時代は、その後、大陸諸国のみならず、新大陸でも発生、交通ネットワークが整備されるのは、1850〜70年代である。1869年、アメリカで最初の大陸横断鉄道が完成し、以降、全米を鉄道網が覆っていく。1870年代までアメリカ最大の産業は鉄の馬であり、最初のミリオネラーはコーネリアス・ヴァンダービルトやジェイ・グールドのような鉄道王である。1890年、鉄道の収益総額は、10億ドルに達し、これは連邦政府の歳入総額の二倍半に囲相当する。

 1846年における藩穀物法同盟の勝利により、英国は自由貿易と自由放任に基づく商工業を中心にした発展と繁栄を目指し、「世界の工場」として欧州の経済覇権を掌握する。大陸諸国から原料と食糧が英国に亘り、石炭と工業製品がそれと交換される。ヨーロッパは、この経済体制の下、経済成長する。1870年にピークを迎えると、イギリスは73年から深刻な大不況に陥る。43年〜73年に物価は毎年上昇したが、一転、74年〜96年に長期に亘って下落する。さらに、利子率と利潤率も共に低下している。ただ、この時期、イギリスの主な輸入品である原材料や食料の価格が輸出品のそれと比べて国際市場で安値だったため、労働者の実質所得が以前より向上している。このデフレの恩恵の光景は、100年以上後に、極東の経済大国でも眺められることになる。1870年代半ばから長期に亘る不況期の克服のため、工業諸国では新産業に対応する大規模工場が増設される。しかし、蒸気機関がすでに浸透していた英国は新エネルギー導入に遅れ、米独に工業生産部門で猛追され、90年〜96年に追い抜かれる。エネルギー・システムの転換は、ボトルネックを生じ、新しい技術への転換が必要だとわかっていても、大掛かりである理由から思うようにうまくいかない

 1870年には石炭エネルギー・システムが成熟し、産業のボトルネックが生じたと言える.蒸気機関は19世紀後半に不具合が目立ち始める。蒸気機関の熱効率は10%に満たない。大出力を得ようとすれば、大きなボイラーが必要であり、機関全体が巨大化し、重くなってしまう。定着型はともかく、移動用で使うには限界がある。しかも、ボイラーの爆発事故も多発している。英国では1862年〜79年までの間に約1万件の事故が起きている。他にも、始動に手間がかかるといった問題もある。工業生産や交通輸送機関における動力の受容は高まっているが、このまま蒸気機関に頼っていてはさらなる経済成長は望めない。蒸気機関に代わる技術革新が模索される。それはエンジンと電気である。

 70年代半ばから90年代半ばにかけての不況期、軽くて熱効率のよい各種のエンジンが実用化される。容積型内燃機関では4サイクルやガソリン・エンジン、ディーゼル・エンジンが次々と実用化される。外燃機関でも進歩は目覚しい、1884年、英国のチャールズ・パーソンズが反動タービンの特許を取得、発電用・船舶用の蒸気やービンの実用化に目処がつく。現在日常的に使われているエンジンの原型はこの20年の間に生まれている。

 新エンジンには、当初は、燃料として石炭ガスが使われていたが、次第にガソリンや軽油に代わる。石炭ガスは石炭を乾留したもので、当時、照明用燃料として用いられている。定着型は問題がないが、移動用では使い物にならない。ガスを詰めた容器もしくは石炭をガス化する発生器を搭載しなければならない。前者では、気気体燃料は単位容積当たりの発熱量が低く、一回の充填で数kmしか動けないという欠点、後者においては発生器が重すぎるという欠点がそれぞれある。単位容積当たりの発熱量が高く、運搬も容易な液体燃料が必須である。そこで注目されたのが石油である。灯油は照明用に需要があったけれども、発火しやすいガソリンや黒い煤が出る軽油や重油は厄介物だったが、エンジンの開発によってこれらは有効資源となり、ジョン・D・ロックフェラーを億万長者にする。

 この時期に発電所も登場している。電気の研究は、主にアカデミズムで進められてきたが、発電・送電の実用化は19世紀に入ってからである。電気と言えば、やはり彼だろう。1882年にトーマス・エジソンがニューヨークに世界最初の石炭火力発電所を建設する。ただし、このときの電流は直流で、主に近郊都市の照明用である。以後、発電所の建設が徐々に始まり、各種の発電機や発電方法の研究・開発が進み、産業の動力用に耐えるシステムが出現する。

 このような革新の動きはあるものの、長期不況下では、国内に投資しようという気は起きない。先進国で生じた余剰資本が、利潤率の高さを求めて、原料・労働力・市場を持つ後進国や植民地に投資される。主な投資国はイギリス・フランス・ドイツ・アメリカ合衆国である。中でも英国は海外投資全体の半分を一国で占めている。1870年代から20世紀の初めにかけて、工業国としては衰退したものの、英国はこの対外輸出と海運、保険業からの収益で経済的なヘゲモニーを維持し続ける。

 第3波は石油エネルギー・システムの形成期である。始点は、金利が底をついた翌年の1898年、繁栄は1912年頃まで続く。1870年代半ばから研究・開発の進められてきた新たなエネルギー・システムに基づく技術革新が工場の動力源は電力に代わり、電気工業・化学工業が発展する。この重化学工業により国内の近代化が本格化する。また、石油を燃料として用いる輸送・交通手段が次々に登場する。先進国は海外市場の獲得競争を激化、工業製品を輸出する。ただ、石炭から石油へのエネルギー・システムの転換は頭の痛い問題を先進国に突きつける。石炭は欧米域内で調達可能だが、石油は埋蔵地域が世界的に偏っており、合衆国を除けば、自国内から入手することがほぼ不可能である。石炭よりも効率はいいものの、石油は供給の不安定さを抱えている。第一次世界大戦頃から内向きの経済姿勢が目立つようになり、戦後もそれは変わらない。20年代は華やかだったが、それ以前に出現したエネルギー・システムの大衆化であって、見かけよりも革新的ではない。13年から25年までは後退期である。20年に金利が最高値をつけている。1929年に世界恐慌が発生し、第二次世界大戦後に至るまで世界経済は上向かない。30年代からの不況期に、石油を原料とする石油化学工業やガス・タービン・エンジンに代表される速度型エンジンの研究・開発も行われている。これらは第4波で大きな産業に育つ。26年から39年までは沈滞期、40年から53年までが回復期である。

 1890年代からドイツやアメリカでは、工場の動力源として電力が導入され始める。1870年代から欧米で第二次産業革命が進展する。鉄鋼・石油・電気・化学などの生産財工業は、後に基幹産業と呼ばれる。新エネルギーとして工場動力・化学工業・交通・通信・家庭などの分野に進出する。化学工業は、物質の分解・合成によって工業資源や新物質を得る分野であるが、設備投資が大きく、莫大なエネルギーを必要とし、また従業員に高度な専門的知識が要求される。現代の産業の中で最も電力を必要とするアルミニウム工業が始まったのも19世紀末である。この重化学工業による国内が本格的に近代化される。兵器もそれに含まれる。また、先進国で生産された工業製品がカナダや中南米、アジアといった新しい市場へと輸出される。各国共に海外市場の重要性を認識し、その獲得競争に躍起になる。港湾施設や運河、大型貨物船などの海運インフラが強化される。

 電力やエンジンが鉄道にも採用され始める。1890年、英国で地下鉄に電気駆動の列車が採用される。その後、ヨーロッパやアメリカの都市に電車の地下鉄が開通している。また、1930年代からディーゼル機関車が欧米で本格的に導入されている。電気モーターは立ち上がりが速く、煙を出さず、ディーゼルは低速に強く、パワフルだ。第4波の頃には、蒸気感謝はノスタルジーを喚起する骨董品と化すだろう。文明開化は遠くなりにけり。

 20世紀に入ると、輸送・交通の分野で石油のエネルギー・システムが浸透し始める。1908年、フォード社はモデルTの販売を開始する。自動車生産の増加は石油の消費量の伸びを後押しする。のみならず、自動車の時代の到来はそれに適合したインフラ整備を必要とする。都市を中心に舗装道路が敷かれていく。自動車産業は、何しろ、関連企業の裾野も広く、20世紀最大の産業へと成長する。また、船舶の燃料も重い石炭から軽い石油へと変更される。19世紀末の海戦において、軍艦は、機敏に動くため、大事な燃料である石炭を海洋に投棄して、交戦していたくらいである。さらに、ウィルバーとオーヴィルのライト兄弟が1903年に初の有人動力飛行を成功させて以来、飛行機の燃料は石油以外にありえない。石油の需要は増えることはあっても、減ることはない。第一次世界大戦は史上初めて石油が主要エネルギー源としなった戦争である。

 石油は世界的に偏在しており、採掘には莫大な資本と高度な技術力が要求される。埋蔵地域と消費地域が必ずしも一致していない。国際情勢の影響にも敏感で、供給不足にも陥りやすい。石油に依存するエネルギー・システムは不安定さを抱えざるをえない。

 第一次世界大戦後、アメリカは債務国から一転して世界最大の債権国へと変身する。ところが、半世紀前の大英帝国が自由貿易を守ったのと違い、三代続く共和党政権は高関税の保護貿易政策を実施する。1920年代の合衆国の経済成長率の年平均は4.7%、失業率の年平均は3.7%である。旺盛な購買意欲に満ち溢れている。都市が電化され、新しい家電製品が次々に市場に投入される。フォード社のモデルTがモータリゼーションを巻き起こし、電話やラジオといった通信放送の新しいインフラが普及、チェーンストアという流通形態も出現する。全国的な債券市場が整備され、デュポンやGM、RCAなどの巨大企業も登場している。今や世界最大の市場と化した合衆国だったが、高関税のため、GNPに占める輸入比率はわずか5%で、極めて内向き名経済状況である。アメリカに債務を負っているヨーロッパ諸国にしてみれば、工業生産力や金融など多くの分野で世界最高レベルに成長したのに、その責任をまるで果たそうとしない身勝手な振る舞いに映る。アメリカ市場に輸出して獲得した外貨で債務を返済することができない。しかも、アメリカで生産された数多くの耐久消費財が各国の市場へと輸出される。おまけに、27年にヨーロッパの中央銀行の要請を受けて欧米間の金利差を解消するまで、高金利が続いている。対米貿易収支は各国共につねに赤字で、富をアメリカが独占し、世界経済を不安定化させてしまう。この内向きの経済姿勢は、世界恐慌の1930年代に入ると、アメリカののみならず、欧州や日本もとっている。排他的・閉鎖的な自給自足体制であるブロック経済を主要国が設立する。1932年を最後に、各国は合衆国への債務の返済を一方的に打ち切っている。

 1920年代に世間を賑わせた商品は革新の大衆化を体現している。好況も資産バブルの色彩が濃い。むしろ、技術革新の点では、1930年代に入ってからの方が見るべきものがある。その一例が石油を燃料ではなく、原料として用いる石油化学工業である。きっかけは1920年にスタンダード・オイル社がイソプロピレンの合成に成功したことだが、30年代から他社も成果を発表し始める。ただ、本格的な開花は第二次世界大戦後である。また、従来のピストン・エンジンに代わる速度型エンジンの研究・開発も行われている。ジェット・エンジンやガス・タービン・エンジンも界大戦後に民生分野で大いに発展する。さらに、コンピュータも忘れてはいけない。歯車式計算器は電磁リレーで電流のスイッチを切り替える電気式計算機へと変わり、44年、真空管内臓の電子式計算機ENIACへと変貌を遂げる。処理速度は1000倍、すなわち電機式で1ヵ月半かかった計算がENIACなら1時間でこなせるレベルへと跳ね上がる。「電子」は電子の量子力学的効果を利用した技術に附加される。1948年、ウィリアム・ショックレーとジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッデンがトランジスターを発明する。これはエレクトロニクスにおいて革命を起こす。1950年代前半、現代のコンピュータにつながる技術が次々に登場する。2進法の採用やプログラム内蔵、逐次処理、プロセッサとメモリーの分離などが採用され、処理速度も目まぐるしく向上する。石油エネルギー・システムの成熟期はこうして始まる。


第4章 第4コンドラチエフ長期循環

 資本主義はエネルギー・システムを基盤として成長する。それは技術革新を通じて力強く経済を発展させる。しかし、その過剰さが生産する商品が在庫となり、企業は倒産、失業者が路頭をさまよい、蓄積した資本が行き場をなくす。この状況を改善するには、それを吸収できるだけの新たなエネルギー・システムが必要だ。これがコンドラチエフ長期循環である。

 第4波について検討してみよう。この長期波動は1954年から2013年まで続き、そのピークは73年である。貫く原理は自由貿易であり、「グローバリゼーション・コンドラチエフ」と呼べる。特に、東西冷戦の終結後、世界的なサプライ・チェーンが形成され、途上国も自由貿易によって成長著しい。石油エネルギー・システムの成熟期であり、脱石油依存が志向され始める。

 繁栄は54年から73年までの期間である。石油を主要エネルギーとして産業が発展し、それに基づくインフラが整備される。第3波の前半に出現した技術も少なくないが、生産・消費の規模は桁外れに違う。高速道路や高速鉄道、機械化された港湾、ジャンボ・ジェットに対応できる空港、高出力の火力発電所などを始めとする各種のインフラ建設に資本が投入され、雇用も創出される。郊外から都市へと自動車や電車を利用して通勤するホワイトカラー層の住宅も続々と着工される。第3波の後半に進められた技術革新が拡大応用されて、耐久消費財・石油化学製品・運輸関連の産業が目覚しく成長する。ラジオを始めとするAV機器にはトランジスターが内蔵されている。反面、石油への依存が過度に高まっている。エネルギーは産業の基盤であるために、特定資源に偏重すると、第2波の石炭がそうだったように。その課題や限界に直面した際、技術革新の行き詰まりが経済の停滞を大きくしかねない。

 後退は74年から93年までの時期である。日本では、80年代は好景気だったが、世界的には、中南米諸国の債務問題が示しているように、長期的な不況に陥っている。70年代後半以降、二度の石油ショックにより世界的に脱石油依存の運動が高揚する。確かに、後世につながるような再生可能エネルギーの研究・開発もスタートしたが、巨大な発電所を中心とした発電・送電・配電のシステムは変更されず、長期循環にとって、エポック・メイキングな出来事はない。原子力にしたところで、産業の関連・連鎖において、石油とは比べ物にならないほど限定的である。蒸気機関から電気へのエネルギー・システムの転換では、需要側の工場や鉄道も大きな設備投資を必要とするけれども、火力から原子力への電源の変更ではそのような動きは起きない。むしろ、この時期に重要なのはエレクトロニクスの普及である。生産・流通・販売の現場は言うに及ばず、家電や自動車を始めとしてさまざまな製品にコンピュータが組みこまれている。その一つの目的が省エネである。意図しなくても、小型化するだけで半導体の性能が向上するスケール・ルールに則り、進歩は日進月歩で、コンピュータの応用範囲が急速に拡大する。

 1950〜95年までの地域別実質GDPの変遷は次の通りである。なお、東欧社会主義国からはアルバニアを除外してある。

実質GDP
1950
〜60
1960
〜70
1970
〜80
1980
〜90
1990
〜95
先進国 4.1% 5.1% 3.1% 3.0% 1.7%
途上国 4.7 6.0 5.7 3.8 4.6
東欧社会主義国 9.6 6.8 5.4 2.8 −8.5

 沈滞は94年から2001年の期間である。旧共産諸国や途上国もグローバリゼーションによって世界経済に組み込まれ、世界の産業編成に変化が見られる。反面、3年おきくらいに、世界に波及する危機が発生するようになっている。それまでほぼ単体として使われることが多かったコンピュータが95年からネットワーク化の意義が世間に浸透し始める。インターネットが徐々に普及し、携帯電話も急速に巷に出回るようになる。お約束のように、ITの進展に伴い、バブルが発生している。

 回復は2002年から2013年の期間である。にわかには信じがたいが、世界的な金利の動向を確認しておこう。80年代後半、主要国の金利は10%前後と高い。92年ないし93年から金利は明らかに下落傾向を示し、以降、5%前後で推移している。ミレニアムを迎えると、5%どころか1%を目指して、時々持ち直すものの、下がり続けている。08年のリーマン・ショック以後では、先進国はゼロ金利状態に事実上至っている。08年にリーマン・ショックが発生し、先進諸国の金融当局は低金利政策を採用する。沈滞期に製造業はコスト削減を主目的として生産現場を先進国から差途上国に移している。失業率低下のために、先進国の政府は財政出動をするが、社会インフラもすでに整備され、製造業層も薄くなっているため、思ったように効果が現われない。公共事業を行ったところで、エネルギー核心の実現前では、それはストックではなく、フローになるだけで、維持費がかさみ、赤字が蓄積するだけだ。そこで、当局は金融緩和政策を開始する。増加した貨幣供給量は先進国から収益率の高い新興国へと向かう。これは、19世紀末に起きた海外投資ブームと同様の現象である。先進国は新たな市場を用意して、投資を呼びこもうとする。エネルギー革新とそれに基づくインフラ整備は莫大な資本と労働力を必要とするので、これが有望である。

 低金利になったからと言って、投資が活発となり、景気が上向くとは限らない。有望な投資先がなければ、流動性の罠に陥るだけだ。原発が脚光を浴びたのは、燃料が安価で、十種しやすく、安定した電力供給源と見なされていたからである。その論理上、エネルギーは経済成長のコストとして捉えられている。90年代に先進職の間で始まった電力の自由化はこうした認識を改めさせる。再生可能エネルギーは電力をコストではなく、投資の対象である。この分野は、エレクトロニクスやバイオテクノロジー、機械工学など非常に幅広い裾野を持っている。石炭エネルギー・システムが蒸気機関に支配された石炭の独占体制だったとすれば、石油エネルギー・システムは石油と電気による寡占体制、再生可能エネルギー・システムは競争の社会であり、最も資本主義的である。再生可能エネルギー市場は、現在、最も期待されているものの一つである。2020年までに50兆円規模になると推定されている。加えて、インフラにもかかわるように、産業の関連・連鎖が大きい。再生可能エネルギーの研究・開発は後退期にすでに始まっている。しかし、実用するには、ネットワーク化された電子技術による管理・制御が不可欠である。沈滞期に急速に発達したITがここで生きてくる。半導体はエレクトロニクスには藩伝いが欠かせない。それは技術者の間で「石」と呼ばれ、その制作は「石を刻む」、あるいは「リソグラフィー」と言われる。半導体に基づくIT時代は新しい石器時代だというわけだ。第5波は「新石器時代コンドラチエフ」と命名できるかもしれない。再生可能エネルギーの技術革新は社会インフラの高度化やセキュアな環境整備、すなわちスマート・インフラの構築を促し、第5波を到来させる。

 資本主義はもうすぐ4回目の還暦を迎える。

 どうも人間は、いくつもの時間を生きるような気がする。まず、政治の時間。べつに政治家でなくても、どちらに踏みきるかを考えねばならないが、それは案外に短くて一年か三年、せいぜいが五年くらいのものだろう。新聞の縮小版を眺めてみると、大騒ぎしていたことが、十年もするといまとずいぶん印象が違うように思う。五年前のことだって、すっかり忘れて生きている。
 つぎに経営の時間。これは五年か十年くらいのものだろう。会社だって大学だって、その程度の見通しがないとやっていけぬ。政治の時間だと、一年か三年とかの風の動きを的確にとらえねばならぬが、それだけでは風にふりまわされる。ある種の持続性があって見極めねばなるまい。そのなかで偏在を考えるよりない。
 そして文化の時間は、十年から二十年は考えたほうがよい。人間だって家だって、そして社会の制度だって、そのスタイルが文化として成熟するのに十年以上かかる。
 そして、二十年もすると、その社会をになう人が入れかわっている。これはもう歴史でしかない。五十年前に評判になった本は、図書館に行かぬと読めぬのが普通。大学だって、五十年前にみんなが熱中していたことはよくて古典、たいていは忘れられている。それが歴史だからしかたがない。もっとも、その時代を過ごした人にはいろいろな思いがあるから、百年たたぬと歴史にならぬという考えもある。
 こうしたさまざまの時間を持ちながら人間は生きる。改革を考えるときは、政治の時間、経営の時間、文化の時間、歴史の時間と、何種類もの時間を考えるよりなさそうだ。
 (森毅『改革の時代の時間間隔』)
〈了〉
参照文献
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