“There never was a good war or a bad peace“.
Benjamin Franklin “A Letter to Josiah Quincy on 11 Sept. 1773”
日本のポツダム宣言受諾をめぐって、無条件降伏などというものは実際にはありえないとか、無条件降伏にしたから日本は決断が遅れたといった意見がしばしば主張される。
しかし、これはパリ不戦条約以降の戦争観を理解していないと言わざるをえない。
第一次世界大戦後、戦争はもはや外交の一手段ではない。万が一戦争が起きるとすれば、非民主国家による民主国家への侵略しかありえない。
ポツダム宣言の第10項に「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」と記されている。
この「民主主義的傾向」はおそらく大正デモクラシーを指している。日本には民主主義があったけれども、脆弱で、開戦前夜にはそれが機能していないという見解である。
民主国家と非民主国家の戦いであり、その終結において後者がとるべきは前者の出した無条件降伏の受諾しかありえない。無条件降伏への疑問は19世紀の戦争観であり、第二次世界大戦には通用しない。
19世紀初頭、ナポレオン戦争の終結後、ウィーン体制が成立する。
欧州大戦争の悪夢を蘇らせないため、すべての主要国が「ヨーロッパ協調(The
Concert of Europe)」を尊重し、国際関係の秩序を「力の均衡(The Balance of
Power)」によって構築するドクトリンを受容している。
この秩序は、政治的・経済的・社会的体制が相異なる東西冷戦と違い、欧州の国家が王政復古と正統主義を共有していることが前提となっている。力の均衡において戦争は外交の一手段として位置づけられる。ある国が軍事的に突出しようとしたら、他国が同盟を組んで戦争を行い、力の均衡を保つ。
小さな戦争によって大きな戦争を回避する。そのため、同盟は柔軟であり、組み換えは頻繁で、昨日の敵は今日の友、あるいは国家に友人なしとなる。
このヨーロッパの標準的な外交理論と違うドクトリンを掲げたのがアメリカ合衆国である。大西洋の西岸は議会制民主主義の共和政であり、東岸と体制を共有していない。
1823年12月2日、合衆国第5代大統領ジェームズ・モンローは、連邦議会に新しい外向方針を盛りこんだ教書を提出する。そこでは,中南米諸国の非植民地化・中南米への不干渉・欧州への不干渉という三原則が宣言されている。この孤立主義は戦争の位置づけを外交から切り離す。
アメリカの外交方針にはこのモンロー・ドクトリンと併せてイデオロギー外交がある。合衆国のかかわる戦争はそれから基礎づけられる。ヨーロッパ諸国は国益の追求に走り、堕落している。自由と民主主義という公益を尊ぶアメリカは自らの健全性を守るために、孤立しなければならない。
こうしたアメリカの政治的信条がヨーロッパのそれと異質であることは明らかである。啓蒙主義以来説かれてきた寛容さまったく欠いている。そんな合衆国は、伝統的に、国際的な広がりを持つイデオロギーに対して拒否反応を示す。19世紀にはカトリシズム、20世紀には入ると、共産主義、21世紀を迎え、イスラムが敵視されている。アメリカ人にとって他の人々への好感度は、自由と民主主義に同調しているかどうかで左右される。
他方、米国流の自由と民主主義を脅かす国外の動きに対抗するために、その普遍化=国際化が必要だという考えも沸き起こる。場合によっては、自由と民主主義を積極的に輸出することも検討する必要がある。アメリカにとって、戦争は自分たちの自由と民主主義を守るための正義の戦いでなければならない。
大統領は、開戦する際に、それが自分たちのイデオロギーに則っていることを明らかにして、議会や世論に理解を求めなければならない。このモラリズムは極めて短絡的な二項対立を招く。われわれは善であり、やつらは悪だ。戦争が外交の一手段とすれば、平時と戦時は連続している。
一方、アメリカでは平時と戦時は明確に分離される。大統領の主張が確かにアメリカン・イデオロギーに即しているかどうかは十分議論される必要がある。しかし、一度それが認められたならば、アメリカ人は勝利のために一丸となって一心不乱にとり組まなければならない。その後、戦争が終わったならば、すみやかに平時に戻り、肥大した軍も縮小させねばならぬ。
事実、建国当初、アメリカには連邦軍がなかった時期がある。戦争が終わっても、合衆国が軍備を増強したのは第二次世界大戦後が初めてである。冷戦が始まったからだ。
ヨーロッパの話に戻ろう。力の均衡はすべからく国際秩序の現状維持を目指している。けれども、19世紀後半、クリミア戦争や独伊の統一などにより欧州再編の動きが進み、力の均衡の共有は、事実上、形骸化する。1890年、ドイツ統一に貢献した首相オットー・フォン・ビスマルクが皇帝ヴィルヘルム2世との確執から辞職に追いこまれる。
力の均衡の維持には鉄血宰相の卓越した外交手腕が効果を発揮していたが、カイザー髭の元首が親政を始めると、英仏露との対立が激化、欧州を不安定化させる。次第に同盟が固定化の方向へと向かっていく。第一次世界大戦前夜には、ヨーロッパは独墺伊の三国同盟と英仏露の三国協商に二分されている。
しかも、1848年以降、各国で議会制民主主義が伸張する。段階的に有権者数が増加し、各政治勢力がそのとりこみを図る。新しい有権者はすでに議席を有している政党の支持層と必ずしも利害が一致しない。しかし、彼らの票を獲得しなければ、無産政党を勢いづかせ、事と次第によっては、政権を奪われるかもしれない。
そこで、既存政党は国外に敵をつくり、愛国心に訴えて得票を試みる。幸いなことに、外国人には投票権がない。この作戦は成功する。ベンジャミン・ディズレーリのような保守主義者がジンゴイズムに乗って、都市労働者から支持を受けている。
しかし、力の均衡から見れば、この扇動は非常に危険である。従来はエリート外交官が力の均衡を踏まえて、同盟を柔軟に組み替えながら、要求と譲歩を繰り返しながら、国益を確保している。国際的な摩擦にも優先順位があり、主のためには従を捨てることもやむをえない。
ところが、外敵への断固たる態度を約束して政権に就いている手前、いかなる譲歩も弱腰と有権者から糾弾されてしまう。国家の戦争は、国民の戦争へと変容する。さして重要でもない件で、妥協が許されないため、国際的緊張が高まる。1898年に英仏間で起きたファショダ事件がその典型である。議会制民主主義の進展と既存政党の思惑がこのように国際的緊張を高め、力の均衡を機能不全に陥らせる。
第一次世界大戦は、ほんの小さな火種が硬直した同盟を通じてヨーロッパ全体に燃え広がった結果である。1914年6月28日サラエボで、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント夫妻がセルビア民族主義者カヴリロ・プリンツィプによって暗殺される。皇位継承者を未成年者に殺害されたハプスブルク帝国は直ちにその小国に宣戦布告するが、同盟の連鎖によってこれは二国間の小規模紛争にとどまらず、欧州全体まで捲きこむ。
スラブ主義を背景にセルビアを支援してきたロシアが参戦を表明、この劣勢を挽回するために、オーストリアはドイツに協力を要請する。欧州最大の工業国であり、最強の陸軍国ドイツが相手では、ロシアは旗色が悪い。そこで、フランスに助けを求めるが、まだ独墺の優位は揺るがない。しかし、仏露にイギリスが加われば、形勢は逆転する。この欧州最強の海軍国は、世界最大の債権国でもある。
世界の海外投資の半分を一国で占めている。同盟国は負けを覚悟の上で戦わざるをえない。オーストリアともめていたイタリアが同盟を破棄して、15年5月に連合国側に立ったのも無理からぬところだ。実際にはもう少し複雑な経緯を経て両陣営に分かれ、戦火が交えるのだが、硬直した同盟がその連鎖によって二国間紛争が欧州大戦に発展し、おまけに結果まで見通せてしまう。同盟の固定化が国際関係に何をもたらすのか当事者が十分に自覚していなかったと言わざるをえない
世界最大の工業国アメリカは、モンロー・ドクトリンを堅持し、開戦後も中立を維持する。けれども、1915年5月、イギリスの客船ユシタニア号がドイツの潜水艦によって撃沈され、アメリカ人100人が遭難、米国の対独世論が硬化し始める。
ただ、ワシントンにとっての最大の懸念は両陣営に貸し付けた債権がデフォルトに陥ることである。17年1月、ウッドロー・ウィルソン大統領は「勝利なき平和(Peace without Victory)」と両陣営に休戦を呼びかけている。しかし、17年2月にアメリカはドイツと断交に踏み切る。ドイツは無制限潜水艦戦を開始すると、4月6日、政治的信条を脅かされる大義を見つけた米国は、実は英仏が敗北した際の負債の未払いを恐れてだが、参戦を表明する。
第一次世界大戦後、同盟の力学によって大戦争を回避する理論は影響力を失い、国際協調主義が唱えられ、ベルサイユ体制が形成される。敗戦国の軍事的再起の防止や反ソ反共、再分割後の植民地維持、各国の議会主義化の促進をその内容としている。
この体制の存続の中心がウィルソン米大統領の提案した国際連盟である。ところが、モンロー・ドクトリンに固執する連邦上院によって提唱国が参加しないという前代未聞の事態に至る。
ベルサイユ体制下、戦争はもはや外交の一手段ではない。しかも、各国で政党政治を通じて議会制民主主義が行われるようになっている。世界的に戦争観がアメリカのそれに近づいていく。
1927年、仏外相アリスティード・ブリアンが不戦条約を米国に提案し、両国間で締結される。翌年、フランク・ケロッグ米国務長官が国際紛争の解決を武力に訴えない国際条約を提唱し、15カ国が調印する。
今後、起きるとしたら、それは非民主的な国家による侵略戦争でしかありえない。このケロッグ=ブリアン協定、あるいはパリ不戦条約は日本も批准している。けれども、第1条の「人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言」が帝国憲法と合致しない理由で、この部分を適用しないと発表する。
国際条約よりも国内法が優越しているという非常識な論理を展開したというわけだ。希望的観測に基づいて、外部よりも内部の論理を優先する。後の日米開戦につながる傾向がすでにこの時点で見られる。こういった体質をここで改善できなければ、以降も予測できようなものである。
1931年、総選挙の結果、スペインで第二共和政が成立する。パリ不戦条約に調印していなかった同国は戦争放棄を新憲法に書き記す。この1931年憲法は戦争放棄を史上初めて謳ったが、スペイン内戦の後、ファシストによって葬り去られる。
外交の分離の他に、戦争をめぐって重要な動きが現われている。それは戦争犯罪人の訴追である。1918年11月10日、ドイツ共和国が成立、皇帝ヴィルヘルム2世は退位し、オランダに亡命する。しかし、連合国はベルサイユ条約第227条で「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」としてこの冒険主義者の訴追の用意を始める。
イギリスを中心にオランダ政府に身柄の引渡しを要求するが、20年1月21日、これを正式に拒否する。この件はその後立ち消えになる。けれども、これは、戦争が起きた場合、国家元首も含めて推進者・協力者が戦争犯罪人として処罰される可能性が示されたことを意味する。
もし勃発するとすれば、非民主的な国家による侵略戦争である。この好戦国家に対して各国は自由と民主主義の防衛などの大義のために立ち上がる。民主国家が非民主国家に譲歩するなどあってはならず、無条件降伏を受け入れまで戦いは続行されなければならない。
戦後、侵略を企んだり、後押ししたり、主導したりした連中は、たとえ国家元首であったとしても、戦争犯罪人として法廷に連れ出さねばならぬ。第二次世界大戦前夜の戦争観は、現実はともかく、このように形成されている。
パリ不戦条約以降、民主主義において、戦争の終結は無条件降伏以外にありえない。アメリカに宣戦布告してしまえば、モンロー・ドクトリンの原則に従い、それは侵略行為と受けとる。米国は無条件降伏相手が飲むまで戦闘を継続する。日本は日清戦争以来のお家芸である奇襲作戦で主導権を握り、戦況が有利な時点で停戦に持ちこむ計画である。しかし、そんなことはありえない。
戦争の勝敗は軍事的戦闘の優劣ではなく、政治によって決まる。悪の枢軸に正義のアメリカが屈することがあってはならないからだ。日本側がどう考えていようと、もともと米国は孤立主義とイデオロギー外交をとってきたのであり、開戦すれば、おのずと結末は定まっている。加えて、世界の流れもその傾向にある。無条件降伏しかありえない。無条件降伏への異議は時代認識がずれているだけである。
今日では、戦争の形態も変わり、無条件降伏という幕引きではすまなくなっている。権威主義的政府が崩壊し、新政権が樹立されても、アフガニスタンやイラクが示しているように、各地で戦闘が続く。大義に基づいて始めただけに、引き際が見出しにくく、泥沼化しやすい。
開戦のみならず、撤兵にも正しさが求められる時代である。20世紀はアメリカの戦争観が支配的だったが、21世紀にはこの単純な二項対立は通用しないだろう。
もはや国家間で起きるだけが戦争ではない。内戦のウェートが増している。この終結は和解と相互理解、将来ヴィジョンの共有しかない。対話と熟議というコミュニケーションが解決への道である。もう勝っただの負けただのの時代ではない。
〈了〉
参照文献
阿部斉他、『現代アメリカの政治』、放送大学教育振興会、1997年
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