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安全神話と不確実性の回避

佐藤清文
Seibun Satow
2012年01月15日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「不安とは共感的反感であり、反感的共感である」。

ゼーレン・キルケゴール『不安の概念』


 福島第一原発の事故以来、「安全神話」がなぜ生まれ、常識化したのかの検証が新聞やテレビ、書籍、ネット上で進んでいる。それらの内容は市民に驚きと怒りを引き起こすものばかりである。政官財学報のさまざまな思惑が絡み合い、政策決定に癒着と無責任が蔓延し、安全性への認識を深めないまま、原発の建設・運用が邁進、反対意見には懐柔・圧力で封じこめる。

 ただ、諸外国でも、多かれ少なかれ、政官財学報の連合体や原子力コミュニティの体質は類似している。「政官財の鉄のトライアングル」と日本の三界のもたれ合いを表するフレーズとしてメディア上で踊るが、これはアメリカ政治の”Iron Triangle”の訳語である。けれども、安全が神話にまで発展し、ゼロリスクが浸透する事態は先進諸国ではあまり見られない。これには、世論もさることながら、推進する勢力の間でさえ共有されている意識が影響しているとも考えられる。

 この問題を考察する際に、原発とは直接的に関係がないけれども、示唆を与えてくれる研究がある。それは、オランダの比較経営学者ヘールト・ホフステード(Geert Hofstede)が『多文化世界(Cultures and Organizations)』(1991)において分析した「不確実性の回避(Uncertainty Avoidance)」をめぐる国際比較である。

 ホフステードは、50ヵ国と3地域への各種の社会調査を元に、「権力格差」や「個人主義−集団主義」、「男性らしさ−女性らしさ」、「不確実性の回避」の四つの次元から分析し、それぞれの文化的特性を明らかにしている。彼は、言うまでもなく、この社会構成論を通じて文化の優劣を論じているのではない。「文化的違い」を認識し、「共生への道」を探ることへの寄与が同書の目的である。なお、ホフステードの分析は非常に興味深いけれども、その理由に関して荒っぽいので、読み流す方が賢明である。


 日本は、不確実性の回避指標の値において、7位である。先進国では最高位で、不確実性の回避が強い社会だと言える。1位はギリシア、2位はポルトガルである。また、韓国は16位、台湾は26位、アメリカ43位、香港49位、最下位の53位がシンガポールである。ただ、使っているデータが東西冷戦時代のものといささか古く、そのまま今日に適用するのは難しい面もある。このランキングに旧東側諸国は入っていない。

 以下で、「不確実性の回避が強い社会」の概観を見てみよう。本文内ではこの次元は他のそれとも関連しているが、ここでは細部に入るのを控える。また、特に日本に限定しているわけではないことも断っておく。

 「不確実性」は「危険」と対比して定義される。危険は事件や事故など具体的な事象から引き起こされ、発生頻度、すなわち確率によって客観的に導き出される。それに対応する感情は「恐怖」である。一方、不確実性は何かが起こりそうだが、それが何だかはっきりしない主観的な思いであり、「あいまいさ」を意味する。これに対する気持ちは「不安」である。危険=恐怖=安全と不確実性=不安=安心という対比図式が成り立つ。

 これはあくまで比較経営学の調査であることに注意が要る。危険は頻度だけで、被害は加味されていない。事故において、被害はエネルギーの総量で大雑把に推測できる。原発事故の場合、頻度は小さくても、エネルギー量が巨大であるため、被害は甚大となる。譬えてみよう。冬季に頻繁に味わう静電気の電圧は1万Vはあるが、ほんの一瞬なのでエネルギー総量は小さい。他方、家庭用コンセントに差し込まれた剥き出しの電気コードの場合、電圧は100Vでも次から次とエネルギーが供給されるため、こちらの方がはるかに危険である。しかも、自動車であれば衝突実験を通じて安全性を検証できるが、原発ではそういかない。メルトダウン実験を行って安全性を確認するなどやれるはずもない。

 不確実性の回避行動は危険ではなく、あいまいさを減らすことへと向かう。こうしたあいまいさを避ける行為はしばしば危険を増やしている。不確実性を感じとると、具体的な事象への対処ではないから、組織や制度、人間関係からあいまいさを排除することで対処しようとする。静観する態度は狂信的に罵倒される。あいまいさを可視化するために、敵を作り出し、緊張を煽り、戦いを始める。

 不確実性の回避の強い文化では清潔さへの関心が高く、潔癖でさえある。また、未知の状況や見知らぬ人への警戒感が強い。年配者は若さへの期待よりも、「今時の若者は…」という感情を抱いている。さらに、排外主義的で、ナショナリズムに走り、少数派を抑圧しがちである。人権侵害に敏感ではない。

 唯一の正解への志向が強く、ミスに関して非寛容的である。教育現場では教師や教官への質問や意見が差し控えられる。目標が明確で、細かい課題が用意され、スケジュールがきっちりした構造化された取り組みを好む。また、この道一筋の専門家が信頼される。素人と専門家の線引きをはっきりさせ、役割分担を図る。専門家は難しい問題をわかりやすく語るよりも、難解な専門用語と緻密な論理を展開する傾向がある。逆に、あいまいさのために、多彩な才能を発揮する人物には好意的ではない。信頼感の高さは、それが裏切られた際には、幻滅や憤怒へ反転する。

 あいまいさは許されないので、幅広い領域で規則を制定し、その遵守が要求される。ルールを守れないのは、その人に問題がある。それがたとえ事実上不可能な規則であったとしても同様である。市民は国家当局に対して無力であり、諸制度に対して否定的な態度をとるが、抗議行動は抑制的である。また、公務員は開かれた政策決定のプロセスに好意的ではない。

 不確実性の回避の強い社会では、人々はいつも忙しそうだ。規則重視の姿勢から精緻さを好む。業務が複雑化してくると、組織内の役割を再確認するため、詳細なマニュアルが作成される。また、奇抜なアイデアには寛容ではない。独創性はないものの、広く浸透する商品・サービスを開発すると評価される。

 学説や主義、信条の対立が友人関係の決裂にまで発展する。仲良くけんかできないというわけだ。あいまいさはここまで回避される。

 以上が不確実性の回避の強い文化の概観である。本文内でホフステードが挙げている具体例は欧米が多い。ただ、日本に関する言及が一ヵ所だけある。「不安の高い文化ほど表出的な文化」という傾向が見られる。ジェスチャーがオーバーだったり、声が大きかったり、感情をあらわにしたりすることが社会的に認められている。一見したところでは、日本人はそうではない。「しかし日本の場合、また韓国や台湾でもある程度当てはまるのであるが、仕事の後で同僚とのみに出かけるというはけ口がある。酒を飲むと、男たちは鬱積した感情発散させて、上司にさえもそれをぶつけることがある。しかし次の日にはいつも通りに仕事が行われる。このような酒の席は、不安感を発散させるための一つの慣行として、広く認められた場所と時間である」。

 ホフステードの分析が今の社会心理学や文化心理学の水準に耐えられるかははなはだ疑問である。この見解の妥当性を学問的にさらに検証したら、まったく別の結論が導き出される可能性もあるだろう。しかし、市民が日本の文化を相対化し、客観視する手がかりとして見るならば、ホフステードの分析は示唆を与えてくれる。

 安全神話は日本社会に見られる不確実性の回避の強い結果として形成されたのではないかと考えずにいられない。あいまいさを避けるため、ゼロリスクを前提にし、危険を増幅させる。もっとも、安全神話のみならず、この分析が直観的に思い当たる現象も少なからずある。政治や職場、学校、地域、家庭、マスメディア、インターネットなどでこうした傾向があると思わず納得してしまう。

 文化と組織の国際比較がテーマの書物で日本文化全体を検討するのは無理がある。ましてこの指標のみとあっては乱暴すぎる。しかし、不確実性と危険の区別と回避に関する指摘は傾聴に値する。リスク・コミュニケーションやリスク・マネジメントの日本へのさらなる導入は必要である。けれども、リスクと不確実性が混同されていないかと確認しなければならない。伝えようとする人自身にも言えることであり、両者の区別を意識して、不確実性の回避が強い実情に合わせた啓蒙が不可欠である。また、メディア上で専門家が「リスク」を口にするとき、それは不確実性のことではないのかと市民も批判的に受けとめることが求められる。「リスク」と言いながら、内実は不確実性のことで、それに備えるとかえって危険を増すのではないかと疑う姿勢が要る。

 不安は不確実性と関連している。不安が高まると、客観的な説明をされても、納得するどころか、主観的な気持ちを理解してくれないと反発することさえある。むしろ、傾向を自覚した上で、建設的な未来に向けた回避を見出そうとする努力や工夫が必要だろう。いかなる事情があろうと、もう安全神話はごめんだ。それに、グローバル化は今後も進展していくことが見こまれる。世界には不確実性の回避の弱い文化も少なくない。そうした環境変化の中で、あいまいさとの共生が日本社会の課題の一つとなる。
〈了〉
参照文献
キルケゴール、『キルケゴール著作集10』、氷上英廣訳、白水社、1,995年
G・ホフステード、『多文化世界』、岩井紀子・岩井八郎訳、有斐閣、1995年