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進化する民主主義

佐藤清文
Seibun Satow
2012年01月23日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


 “A democracy is more than a form of government; it is primarily a mode of associated living, of conjoint communicated experience. The extension in space of the number of individuals who participate in an interest so that each has to refer his own action to that of others, and to consider the action of others to give point and direction to his own, is equivalent to the breaking down of those barriers of class, race, and national territory which kept men from perceiving the full import of their activity”.   John Dewey “Democracy and Education”

1 進化的政治としての民主主義
 
 民主主義は”Politics Based Learning”、すなわち”PBL”である。学習に基づく進化する政治が民主主義である。民主主義には、王権神授説と違い、失敗がつきものだ。しかし、そこから学んで、さらに進化する政治である。

 民主主義は物理的実体を持っていない。物理的実体のあるものは個体としての寿命がある。首相官邸が建て直されたのがその一例である。実現形態は固定的で、時間の経過につれ、機能が低下する。一方、民主主義は時と共に劣化するわけではなく、その実現には進化が可能である。民主主義を古びたものと見なすのは誤謬にすぎない。「継続的プロトタイピング(Continual Prototyping)」、すなわち「進化的プロトタイピング(Evolutionary Prototyping)」のシステムである。

 民主主義は永久革命ではない。革命は過去との断絶を強調するが、民主主義は互換性を配慮する。既存のソフトが動かなかったり、ファイルが開かなかったりしては影響が大きすぎる。民主主義はループ的思考による修正を選ぶ。

 インターネットの進展とそこから得られた知見は民主主義の進化を促進させている。インターネットは専門家が情報を共有する分散型ネットワークとして始まっている。情報の提供者と利用者の境界が曖昧になり、コミュニティを形成することで情報の重みが増す。関心を共有する仲間がコミュニティを介して情報交換を行う。そこから結集して知的営みを実現していこうという集合知の動向が強まる。

 多くの分野において項目は、従来、動植物の分類のように、ディレクトリと呼ばれる階層構造によって管理される。しかし、集合知では、こうした構造性は希薄である。ユーザーが自分の必要に応じてファイルやホームページに「タグ(Tag)」をつけて整理する。これは特定のテーマに沿って構造化して管理し、アクセス制限も可能なデータ・ベースの考えとは異なっている。

 タグはその一つ一つが意味記号であり、それがつけられたファイルは記号の連合体である。光を例に説明しよう。この現象は波と粒子の両方の性質を持っているが、同時に見えることはない。これは単純な記号論ではお手上げである。しかし、光に「波」と「粒子」のタグをつければ、これを具現化できる。一つのファイルをタグによって複数のコンテクストから把握できる。文章ファイルのみならず、画像や音声、動画などのファイルにもこうした整理は拡張できる。

 当初、運営者が管理(ルート)権限を持って特定のツリー構造のカテゴリーに従ってデータ・サービスを提供していたが、電算化の進展に伴い、自由検索が導入された結果、各ユーザーがルート的な分類をできるようになる。反面、情報秩序の乱雑さ、すなわちエントロピーが増大してしまう。そこで見通しをよくしようと「フォークソノミー(Folksonomy)」という発想が広まる。これは、ユーザー自身がウェブ上の情報に複数のタグを付け加え、誰もが検索できるようにする分類方法である。語源は”folks(民衆)”と”taxonomy(分類法)”に由来する。まさに集合知の自浄作用とも言うべきコミュニケーションである。

 非構造的秩序である以上、動的なインタラクティブが保持できるため、変化への対応に強い。ウェブが更新されると即時にわかるRSSがその好例である。さらに、ユビキタスやクラウド・コンピューティングなど遍在するコンピュータをインターネットを通じて環境とのコミュニケーションの拡充を図っている。

 こうした新たな状況は現代の政治にも適合的である。近年、参加型民主主義が実践されている。従来の政治では市民と政治家、公務員などの役割が比較的明確で、コミュニケーションは一方向的である。それに対し、新しい民主主義では、これらのプレーヤーが政治決定の過程に積極的に参与し、相互作用を行う。非専門家も関わるのだから、試行錯誤の連続で、判断には失敗がつきものである。その際のリカバーが肝心だ。参加型民主主義はインターネットがもたらし認識の変化によくマッチしている。民主主義は、環境と相互作用をしつつ、このように進化を続けている。


2 コンテクスト志向の政治

 現代は激変の時代である。未知の体験も増えていく。この素早く、激しい変化に対処するには、乳児に学ぶべきだろう。乳児は、そうした環境の中で、未知の経験を積み重ねながら、感覚を用いて成長している。現代人は感覚の意義を再認識する必要がある。しかし、感覚が重要なのは瞬時の判断ができるからではない。コンテクスト志向だからである。

 抽象概念はコンテクスト・フリーであるため、汎用性が高い。理性はそれを扱うことができる。一方、感覚は具体的な知覚を通じて了解される。それは特定のコンテクストに依存している。近代の政治制度はコンテクスト・フリーを前提に設計されている。近代人を自由で平等、独立した個人と設定するのはその象徴であろう。しかし、今日、個々人のコンテクストが重視されるようになっている。ジェンダーへの意識はその一例である。コンテクスト志向を政治に導入するために、感覚の意義を認められなければならない。

 コンテクストから離れて社会全体のことを考えるのが政治的議論としてあるべき姿と信じられてきている。けれども、人間の思考には限界がある。「限定合理性(Bounded Rationality)」しか持っていない。むしろ、自身も含めてコンテクストを自覚した上で、討議を進めた方が建設的である。コミュニケーションは限定の枠をを押し広げる。

 ユルゲン・ハーバーマスが「熟議」の民主主義を提唱した際、ポストモダンに浮かれた思想家はそれを理性中心主義、すなわちデカルト主義の亡霊として批判している。しかし、彼らは非理性主義的な政治をその代替案として示し得ていない。理性を批判しても、それに代わるものとその意義を合わせて理解できていない。

 理性の代替として感覚を持ち出し、「感情の政治」を掲げたとして、それは理性主義のアイロニーにとどまるだけである。感覚の意義はコンテクスト志向にある。反面、普遍性が低く、中長期的な目標の設定には向かない。感覚による判断を優先させ、熟議を軽視する姿勢は短絡的である。熟議ではコンテクストがぶつかり合い、中長期的な展望も生まれる。熟議は、人は多種多様のコミュニケーションから学んでいくように、参加者にとって学習の機能を果たす。コンテクスト志向と熟議を融合させる継続的プロトタイピングの発想が政治には必要である。

 民主主義へのインターネットの寄与に関してしばしば見当はずれの意見も聞こえてくる。g。SNSやブログ、動画投稿サイトなどネット上のリアルタイムな動向に向き合うことがこれからの政治だという東浩紀の『一般意志2.0』の主張もその一つである。この一種の社会選択論は極めて表層的である。リアルタイムに対応しているのでは遅すぎる。

 しかも、個々のコンテクストも捨象される。Ajaxのように、各ユーザーの行動の先を読んでリアルタイム性を高めたとしても、それはあくまでシステム内でのことだ。コマンド・ベースという点では従来の政治スタイルと何ら違いはない。市民は、変化が速く、激しいために、何を目指しているのかさえわからない。

 激動の現代の政治の目標は「価値の協創(Value Co-Creation)」である。民間企業には収益を上げる明確な目的がある。ところが、公共の仕事は、実は、目的が漠然としている。政治はこの公共性にかかわる。アマルティア・センの「潜在能力(Capability)」を発揮できるための基盤整備は政治の仕事の提言としては極めて革新的である。それを理念として進めたとしても、具体的な政治課題が待っている。一つの政治課題には複数のタグがついている。

 それを目印に人々が集いコミュニケーションを始める。できるだけ多くのプレーヤーが意思決定過程に参加し、その場が価値の協創のコミュニティと化す。状況変化が少ない場合には、戦術的展開で事足りる。けれども、激変する際には、戦略目標の検証をしながら、執行を進める必要がある。時には、一旦決まった戦術の修正も余儀なくされる。参加型民主主義は激変の時代に合っている。さまざまな知識や技能、意見、すなわち多種多様なコンテクストとリテラシーを持ったプレーヤーが加わり、価値協創のコミュニティを動的に創出する。価値はそのコミュニケーション過程の共有にこそある。

 なお、デジタル技術の普及と共に、デジタル・データ化に関する誤解も広まっている。「今の政治に満足していますか」という質問に対してツイッターでリアルタイムに集計できたとしても、その結果はデジタル・データの範疇に入らない。「今」や「政治」、「満足」の定義がないからだ。「満足」を生理的反応と捉えて、その数値の変動幅と定義すれば、デジタル・データ化できないこともない。

 デジタル技術が進展しているにもかかわらず、残念ながら、定義の重要さが十分に認知されていない。デジタル技術にはできること・できないこと・やってはいけないことの三つがある。それを見極めて議論をすることが肝要である。

 熟議の批判者は民主主義の手続きを手段と見なし、意思決定の結果のみに着目して、コミュニケーションの政治からの追放を欲している。

  しかし、今日、コミュニケーションの多様化が進んでいる。これを無視することはできない。特に、環境と生命体の間のコミュニケーションである「アフォーダンス(Affordance)」を政治でも認知すべきだろう。なぜ登山をするのかと尋ねられた際、ジョージ・マロリーが「そこに山があるから」と答えたことはよく知られている。これはアフォーダンスの認識と把握しなければならない。環境の変化が「周囲知(Ambient Knowledge)」として人々に考えさせる。

 現代社会では国家に限定されるものとそうでないものとの間で齟齬が生じることもしばしばである。民主主義は公民権に立脚しているため、国家の枠組みに制約されていると思われている。けれども、民主主義をコミュニケーションと捉えるならば、国際情勢や自然環境からの意味作用も取りこむ必要がある。知は至る所に遍在している。民主主義はこうした周囲知の感受へと進化している。


3 進化の行方

 現在のインターネットの現実政治への貢献の一つは、オリジナル・ソースの提供が挙げられる。従来、行政や立法、マスメディアは政治的決定・発言・文書などを編集して市民に伝えている。市民は構造化されたものを受けとらざるを得ず、そこに彼らへの不信感を増幅させている。そのコンテクストが本当はどうだったのか知る術がない。しかし、インターネットでオリジナル・ソースが公開されていれば、編集が作為的・恣意的ではないかを確認できる。未編集の文章や映像は必ずしも面白くはないし、理解しやすくもない。リテラシーがなければ、その真の意味を把握できないだろう。けれども、公開されていることに意義がある。市民はそこから学ぶ。

 また、マスメディアはランク付けをしてニュースを報道している。しかし、市民は、インターネット時代において、この構造に従ってそれを受容する必要はない。個々人には固有のコンテクストがあり、ニュースの優先度が異なっていて当然である。ランク外のニュースの方が重要度が高い場合もあるだろう。マスメディアに対抗して、自分なりのニュースのランキングを作成したくなるものだ。2004年にソーシャル・ニュース・サイトDiggがサービスを開始したのもこうした欲求を察知してのことである。そこでは、ニュースのエントリーがユーザーの投票によって決まる。さらに、なぜマスメディアがそのランキングで報道するのかも相対化によって見えてくる。広告収入の減少を恐れている、あるいはニュース欲しさに霞が関・永田町の思惑通りに垂れ流しているなど背後に隠れている動機を考えることができる。

 インターネットはマスメディアの相対化という意義が認められるが、それを絶対化するとしたら、本末転倒である。ネットには、特定の思想や信条、信念などで固まる排他的な集団を形成する「サイバー・カスケード(Cyber Cascade)」の問題もある。インターネットは「メディア」ではなく、現段階では、「チャンネル(Channel)」と冷静に認識すべきだろう。

 これまで述べてきた通り、民主主義はインターネットのもたらした変化と知見によって進化している。民主主義は動きながら、考える政治である。失敗を恐れる必要はない。大切なのはそこから学び、それを次に生かすことだ。その都度、民主主義はフォークソノミーのような自浄作用を強化していくだろう。民主主義は進化する。今も、そしてこれからも!そのプロセスに価値がある!         〈了〉