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“tu fui, ego eris”. 2011年3月11日以来、毎月「11日」は死者の日として日本国内で意識されている。死には大きく二種類がある。他者の死と自分の死である。前者は他者がこの世からいなくなることである。一方、後者は自分がこの世からいなくなることである。11日の死者は他者を指している。 考古学の調査により、人類以前のネアンデルタール人が葬儀を習俗として行っていたと確認されている。葬儀は生きている人が死んだ人を明確に意識するための儀式である。死ぬことは生命体の間で違いはないが、それを死者として取り扱うことは文化的認識が不可欠である。死者の扱われ方は時代や社会、個人的事情も影響する。葬儀を行うネアンデルタール人は、自分の死はともかく、他者の死を認知していたと考えられる。 人類が自分の死をいつから不安に思うようになったかははっきりしない。ただ、秦の始皇帝が死の恐怖に苛まれていたことは確かである。始皇帝は不老不死を求め、徐福に蓬莱の国へ行って仙人を連れてくるか、あるいは仙薬を持ち帰るようにと命じている。なぜ始皇帝が不死を願ったのかの問いへの答えは広大な陵墓と兵馬俑が物語っている。 始皇帝は史上初めて中国を統一した王の中の王である。理念上ではあるが、世界は始皇帝のものである。彼より前に世界を手にした者はいない。けれども、死は始皇帝からその世界を奪ってしまう。そのため、彼は不死を希求している。 人類学のフィールドワークによると、無階級社会では自分の死に不安をあまり覚えない。その社会の住民は愛着のある他者の死に喪失や悲哀を感じている。けれども、自分の死に関しては、いずれ必ず訪れてくることとしてさほど話題にしない。文化によって異なるが、あの世がこの世の延長であり、自分の死を世界の移動として捉えられていることも少なくない。 なお、自分の死を話題にしないことは生存への意志が弱いことではない。死の回避は、人間のみならず、生物一般に見られる。それは、具体的・現実的に自分の生存を脅かすものから逃れようとすることである。自分の死について抽象的・想像的に思い悩むことではない。 他者の死に対する哀悼の気持ちは普遍的に見られるが、自分の死は必ずしもそうではない。他者の死が本来的だとすれば、自分の死の観念は歴史的・社会的な産物である。 キリスト教にしろ、仏教にしろ、イスラムにしろ、世界的に浸透した宗教は自分の死を意識させている。それらは富が蓄積され、所有の考えが広まり、社会に階級が生まれてから登場している。さらに、終末論が現われてくると、あの世が天国と地獄のように階層化し始める。そこに行ける基準も善悪などの所有に対応する。階級社会の事例も併せて考えると、自分の死は所有の観念の進展と共に認知されている。 ジョン・ロックは基本的人権を所有権に求めている。近代はこの一元的所有権が認められた社会である。それがなければ、市場経済は機能できない。この所有の観念が自分の死に対する恐怖や不安を関連している。私的所有権が認められた近代に入って、自分の死のウェートが死において増大していく。誰もが所有を許されている。しかし、死は所有した世界を奪う。近代人は自分の死に怯え、恐れることになってしまう。 近代人の死の不安について論じた思想家としてマルティン・ハイデガーが挙げられる。彼の『存在と時間』(1927)によれば、人間だけが死の観念を持っている。誰もがその時を迎えるのだから、人は死を目がけて存在している。死は、そのため、人の全体を完結する。人の全体性を捉えるには、死の意味を分析する必要がある。けれども、平均的日常の世事のうちに「世人」は我を忘れ、死の問題に向き合っていない。世人は、言い換えると、恐怖と不安によって本来の姿で死をつかまえていない。死はそんな世人にとって本質が隠されている。死の分析は、そのため、世人の態度に抗って行わなければならない。 ハイデガーは、『存在と時間』第2編第1章52節において、死について次のように結論付ける。 死の実在論的・存在論的は、いまや次のような規定において限界づけられるわけである。すなわち、現存在の終わりとしても死は、現存在の最も固有な、没交渉的な、確実な、しかもそのようなものとしての無規定的な、追い越し得ない可能性である、と。死は言存在の終りとしておのれの終りへとかかわるこの存在者の存在の内で存在している。死は、交換不可能性・没交渉性・確実性・無規定性・追い越し不可能性という特徴を持っている。自分の死は誰かと交換できない。それに直面するとき、人は孤独になり、「共存在」が脅かされる。また、人は自分がいずれ確実に死ぬと知っていて、かつそれがいつ襲ってくるかわからない。しかも、死は人にとって最後の可能性で、それを追い越すことができない。 1920年代という市場経済が過熱し、大衆文化華やかかりし頃に出版されたこの書物は同時代の知識人や学生に多大な影響を与えている。それが近代人にとっての死がいかなる意味を持っているのかを良く物語っている。ハイデガーが語っているのはあくまで自分の死についてだけである。他者の死を分析してはいない。自分の死を直視することが人間の全体性を知ることにつながるという主張は、近代的独我論そのものである。残された人が他者の死に感じる喪失と悲哀がそこにはない。 死者はもうこの世にいない。しかし、生者は、死後も、その人について語る。これは死者が記憶の中で生き続けることを意味する。無縁仏に僧侶が供養を続けるのも、その人に忘れていないと伝えるためである。また、死者の話題に触れるとき、その人は孤独ではない。「今頃、新藤さんは黒澤さんと会ってるんだろうねえ」といった具合に、死者は共同体に属している。死後の世界がいかなる秩序を持っているかは文化や時代、社会によって異なる。加えて、記憶の中の死者は決して生々しくない。死者は生者の社会にあるイメージとして位置づけられる。形見もあれば、墓標もあれば、位牌もある。これも時代や社会、個人的事情に応じている。けれども、次第に、新しい記憶がその上に積み重なり、かけがえがないことはわかりつつも、死者の姿は薄らぎ、忘れられていく。 他者の死というものを見事に描いたのが小津安二郎監督の『東京物語』(1953)である。 「東京物語」は、尾道に住む老夫婦が旅行の支度をしている座敷から始まり、ラストもここに戻り、妻が死んで片方が欠けた状態が示されて終わります。同じ場で、同じ構図が反復されることで、変化(を受け入れて生きる私たち)がくっきりと定着されています。ドラマは大きな変化を求めていないのに、私たちが受け取る「変化」は決定的なのです。ふつうであれば、ドラマを変化としてとらえます。小津さんはそうではありません。この、琴の正逆がまず小津さんならではのものです。妻の死は、ドラマの要因ではあるけれど、拡大されません。避けがたい日常の断面としてあるだけです。構造と反復に伴うズレは日常性の変化を描く効果である。同じ場で、同じ構図が繰り返されながらも、いるべき人がそこにいない。その喪失や悲哀は「決定的」である。けれども、それは拡大されない。「避けがたい日常の断面」として受け入れざるを得ない。他者の死はこういうものである。死者を時々思い起こし、何ともなしに語りかける。しかし、新しい日常が積み重なる中で、かけがえのなさは変わらぬものの、次第に忘れていく。他者の死の本質をこれほど描いた作品はない。『東京物語』は人類が生み出した最高の知的遺産の一つである。 ところが、20世紀以降、他者の死についても意識変化が起きている。死者を忘れまいとする意思が強まっている。それは、主に、戦争による死者に対してとられる姿勢である。かつて戦争は王や諸侯、武将などの英雄物語である。しかし、第一次世界大戦の総力戦以降、国民の戦争の時代が到来する。所有権=基本的人権の思想は国民に政治的主権を付与するまでに発展する。関連死者は大量かつ広範囲である。徴兵された若者が戦場で散り、戦闘の巻き添えや都市への空襲よって民間人が犠牲になる。さらにホロコーストで民族浄化が行われる。こうした死者を生者は忘れてはならない。思い出し、語り継ぐ義務がある。それは、記憶の反復を通じてその事態の繰り返しを避けるためである。他者の死は自分の死とこのようにして結びつく。所有の発想が拡張していくにつれ、死が自分の死へと肥大化しただけではない。他者の死が自然な忘却ではなく、意図的な削除と対抗的な保存の間の闘争の対象へと転換されている。こういった傾向は戦争だけではない。事故や犯罪、災害、テロなどの死者にも及んでいる。 3・11は1万人を超える他者の死を引き起こしている。いるべき人がいるべきところにいない。そんな喪失と悲哀を感じながら、生きている人も少なくない。残された人が生きていくために、死者を自然に忘却したり、考えを変えたりしている場合もあるだろう。11日にはさまざまな死者の死との向き合い方がある。 しかし、中には、他者の死と向き合うこともせず、それをなかったことにしようとする意図的な削除も見受けられる。現内閣総理大臣に至っては、3・11とは別の課題をめぐって、「政治生命をかける」と権力の所有と自分の死のことばかり大っぴらに語っている。実は、野党時代にも「マニフェストに書いてあることは命がけで実行する」と街頭演説している。3・11後にこうした自分の死しか頭にない人物を首相にしたことは恥ずべき事態である。自分の死と他者の死、あるいは生者と死者の関係が今後どう変わっていくのかはわからない。ただ、3・11によって直面せざるを得なかった他者の死を反芻することから日本社会の将来があることを再認識すべきである。 〈了〉 参照文献 内堀基光他、『死の人類学』、講談社学術文庫、2006年 小栗康平、『映画を見る眼』、NHK出版、2005年 原佑編、『世界の名著74』、中公バックス、1980年 |