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政治家には大いなる素人を

佐藤清文
Seibun Satow
2012年06月17日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「重大な問題でございまするので、防衛局長から答弁をさせます」。

久保田円次防衛庁長官


 民主党を中心とする連立政権誕生以来、素人に政治を任せられないといった意見が国会の内外から聞こえる。それは、特に、一川保夫元防衛相と田中直紀前防衛相に対して向けられている。

 政治家の資質として高い専門性が主張されるようになったのは、90年代に入ってからである。その好例が「政策新人類」であろう。1998年の金融国会において、金融機関の不良債権・破綻処理をめぐる与野党協議や金融再生法の成立に貢献した若手議員が「政策新人類」と呼ばれる。これは特定の政策に強いが、族議員と違い、その業界の利益代表としてふるまわないタイプの政治家である。枝野幸男経産相や石原伸晃自民党幹事長、塩崎恭久元官房長官などが含まれている。

 しかし、政治家の専門家化が必ずしも好結果をもたらすとは限らない。戦前の日本では、軍務大臣現役武官制が採用されていた時期が長い。まさに専門家が専門分野の政治的トップに就いていたが、その帰結は今さら言うまでもない。

 政治家が専門性を高めていくと、官僚化する危険性がある。政治家は官僚に政策立案を委任している。官僚の代行業務をやめ、政治家自らが政策立案に携われば、有権者との距離は遠のく。

 政治家は選挙という民主主義の手続きを経ている。彼らは、官僚以上に、有権者の声や巷の空気に接している。明確な要求や主張はしばしば陳情として役所にいても耳にできるだろう。けれども、社会にはさまざまな問題に対する漠然とした不安や不満、期待、意欲といったものがある。これをくみ上げて政策に反映させることは官僚にはできない。言うまでもなく、それを利用して政治家が自分の野心を実現しようとすることではない。

 また、専門化するほど視野が狭くなりがちで、社会全体のバランスを考えられなくなる。専門家コミュニティの一員としてその利益のために振る舞ってしまう。専門家も自分の専門外では素人であり、専門バカともなれば、社会性のない素人に堕落する。政治家の専門家化は、こうした点から、好ましい傾向ではない。結局、永田町が霞が関になるだけである。

 森本敏防衛大臣は、就任後の記者会見・国会答弁を聞く限り、選挙を経ていない民間人であるため、社会の漠とした思いを読み取ることに明らかに疎い。沖縄県世論の彼に対する反発は激しい。社会の表情を読めず、巷の熱気を冷まし続けている首相らしい人選と言えばそれまでだが、森本大臣は浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相のようなことをしでかしかねない。専門家を自認する政治家ほど自信があるから、取り返しのつかない失敗をする危険性がある。

 日本の行政における意思決定は閉鎖型のボトムアップ方式である。2012年5月に毎日新聞がスクープした原子力委員会の秘密会議が典型である。広く関係者や関連団体の要求や主張を積み上げて合意の集約を図っていくが、その過程は閉鎖的・不透明である。

 この意思決定モデルにはいくつかの欠点があるとすぐに気がつくだろう。まず、批判が少ないため、願望思考に陥りやすく、もしもの事態への備えがおろそかになる。また、責任の所在が曖昧になるので、急激な変化に対応できず、現状維持を志向する。さらに、ここから排除された人にとってその決定に当事者意識を持てない。

 政権交代の際、民主党を中心とした連立政権への期待の一つに、この意思決定プロセスを開放型にすることが挙げられよう。クラウドソーシングの時代において、当然の流れである。実際、発足当初はそれに応えようとしている。米連邦議会の公聴会を意識して、公開で実施された事業仕分けがその一例である。

 けれども、開放型ボトムアップ式の意思決定の制度化に至らず、徐々に後退していく。2011年に登場した内閣は政権交代以前に回帰することに政治生命をかけている。フクシマの原因に、専門家コミュニティの閉鎖型ボトムアップ式の意思決定が大きくかかわっているのではないかと推測されている。にもかかわらず、この後ろ向き政権はその検証と改善策が十分に提示されていないうちに、大飯原発の再稼働を推進している。

 むしろ、政治家に専門家化は必要ではない。素人が望ましい。けれども、それは、現首相が示しているような思いつきと思いこみで語るただの素人やバカな素人ではない。大いなる素人である。

 社会の表情を読み取れる社会的知性やいかなる人とも社交できるコミュニケーションなどの社会性、社会正義を貫徹したり、結果責任を負ったりする倫理性、専門的な議論のポイントを把握したり、変化の激しい中で本質をつかんだりする洞察力、視点を変えて戦略的に発想したり、将来ヴィジョンを提示したりする構想力などを持った素人である。政治家には、専門家と総合力で渡り合え、社会と彼らとをつなぐ結合力が専門性よりも欲しい。大いなる素人こそ政治家にふさわしい。

 もっとも、そうした総合力は政治参加する市民にも求められる資質である。これからの市民はただの素人でも、バカな素人でもない。大いなる素人でなければならない。政治家はそんな大いなる素人の代表だ。それが成熟した現代民主主義の姿である。

〈了〉