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「日本にはためているのは実はユニオン・ジャックなのです」。 マハトマ・ガンディー『インドの自治』 2012年8月22日、現首相は首都圏反原発連合のメンバー10人と官邸内で面会する。これは毎週金曜日を中心に抗議活動を続ける13の市民団体と個人による連絡組織である。すべての原発の廃炉を要求、新設される原子力規制委員会の人事案の撤回も求めている。それに対し、現首相は「中長期的に原子力に依存する体制を変えることを目標にしている」とゼロ回答で応じ、面会は30分で終了している。 現首相はとりあえず脱原発派の話を聞いたとアリバイを作り、既定路線を進めるつもりだろう。しかし、彼の対応は歴史から何も学んでいない愚行である。官邸デモは日本における「塩の行進」であり、今回の会見は第二回英印円卓会議に相当するからである。 1920年、マハトマ・ガンディーは英国への抵抗運動「サティヤーグラハ」を開始する。その原理は非暴力・非協力・不服従である。ガンディーは、運動に際して、「スワラジ」と「スワデシ」の綱領を掲げる。前者は自治、すなわち自己決定であり、後者は国産品愛用奨励であるが、現代風に言えば、地産地消である。この運動の象徴が糸車、すなわちチャルカーである。これには多くの意味がこめられており、民族・宗教・カーストの融和もその一つである。 サティヤーグラハはトルストイ主義から多くを負っているが、ガンディーはそれをインドの文脈に独創的に組みこむ。ストライキやサボタージュ、ボイコットをインドの生活伝統である祈りや断食と結びつける。これはたんなる職場放棄ではない。仕事を休み、集会を開き、断食を行い、インドのために祈りを捧げる時なのだ。こうした闘争は各地で成功し、独立運動へと盛り上がりを見せる。 紆余曲折はあったものの、この不服従運動は英国経済にボディブローのように効いてくる。完全独立の機運の高まる30年3月12日、ガンディーたちは「塩の行進」を実行する。塩税法によってインド人は塩の製造が禁止されていたが、マハトマはこれを破ると宣言、グジャラート州アフマダーバードからダーンディー海岸までの約380kmを24日かけて行進して、製塩している。ガンディーは即刻逮捕されたが、全インドを熱狂の渦に巻き込み、呼応する者たちが続々と登場し、当局は最終的に10万人を投獄する。 1931年、この男を何とかしなければならないと慌てた英国政府はガンディーを第二回英印円卓会議に招く。大衆はイギリスに到着した彼を熱烈に歓迎する。その中には、チャールズ・チャップリンやロマン・ロランもいる。しかし、英国政府はガンディーの発言力を薄めるために、他の勢力の代表も会議に参加させ、民族・宗教・カーストの対立を煽る。何の成果も得られず、失望のうちに帰印している。 英国政府はこれでガンディーに勝ったと確信したが、抵抗運動はその後も続く。47年、独立運動が激化し、管理統制能力を失ったイギリスはすべての計画を放棄、逃げるようにインドから去っていく。民族・宗教・カースト間の対立が、そして、インドにおける最大の課題の一つとして続いている。 官邸は、脱原発運動に対して、当時の英国政府と似たような態度をとっている。しかし、今や脱原発運動は、官邸デモが非暴力的であるように、日本流のサティヤーグラハである。 12年8月20日、電気事業連合会は7月の電力販売量が全国10電力会社のうち9社で昨年より減ったと発表している。増えたのは3・11の中心的被災地を抱える東北電力であり、やむを得ないだろう。家庭向けの「電灯」の統計では、電力不足の恐れがあった関西電力で昨年比16.9%、節電目標のない東京電力が14.5%のそれぞれ減である。 しかも、ピーク時でさえ5%以上も供給の余裕があり、電力不足の起きる心配はない。東京電力に至っては、一部の火力発電所を停止させて供給調整しているくらいだ。現在稼働しているのは大飯原発3・4号機だけである。これを利用している関西電力は、確かに、ピーク時にその供給なしには苦しい日もあったが、もし止まっていても、他社からの融通で十分間に合っている。 今年の7月は晴れて暑い日が多く、平均気温も北日本と東日本で0.8度、西日本が0.6度平年よりも高い。このような状況でありながら、電力の販売量が減少したのは節電の定着と自家発電の普及である。これは原発依存からのスワラジであり、電力の地産地消のスワデシにほかならない。 しかも、節電は経済への好影響も認められる。一例を挙げると、LEDを使った電球は昨年末から約3割、天井照明も約2割それぞれ値下がりしている。節電対策からLED照明に切り替える動きがオフィスや家庭で拡大、メーカーの市場参入が相次ぎ、価格競争が本格化したからである。再生可能エネルギーの関連技術は、原発と違い、さほど専門的でもなく、難しくもない。「原子力村」が「再生可能エネルギー村」に取って代わるだけではないのかというメディア上の声もあるが、真に滑稽である。課題の大半はコストであり、それは普及にかかっている。 経済界は、再生可能エネルギーの普及がビジネス・チャンスにつながると考え、それに期待する一方で、原発比率0には否定的な企業が多い。財界は自ら課してきたCSRをお忘れのようだ。放射性廃棄物をどうするかの考えもなしに、経済人が推進を口にするのは、無責任である。 画期的な変化は急進的に起こる。漸進的ではない。ある流れが生まれたとしよう。これに乗った方が得だ、もしくは損をしないと合理的に判断すれば、経済主体はそれに殺到し、流れは一気に大きくかつ激しくなる。逆に、今はインセンティブがないと思ったら、コストをかけて変えることはしないので、それは変化をもたらさない。 そもそも、日本の電気事業の成長もそうである。戦前の経済体制は、戦時に入るまで自由放任である。電気事業も例外ではない。5大電力会社が熾烈な電源開発競争を繰り広げ、1915年から30年までの間に総発電量を7倍にまで拡大している。価格競争も激化、その結果、産業の電化が促進される。しかし、日中戦争が泥沼化する1938年、電力国家管理法によって電力事業は国家管理体制へと移行させられる。今日に至るまで、この戦時体制が基本的に電力事業では継続している。原発はその象徴である。 脱原発は日本におけるサティヤーグラハである。それは原発に象徴される考えによって見失ってきたものを思い出すことでもある。だからこそ、脱原発運動にはさまざまな背景・信条の人が参加している。 先住民族や海外に起源を持つ住民を含めて日本の人々は、昔から豊かな四季の移り変わりを心にとめてきている。俳人はわざわざ季語まで考案したくらいだ。風や水、大地、太陽に畏怖と感謝をしつつ、暮らしている。その時には何も感じないが、浴びないようにした方がよい放射線とは違う。「風水土陽」は人々の外的のみならず、内的環境でもある。 吹く風、流れる水、温もりある大地、降りそそぐ太陽に住民は囲まれて生きている。その風水土陽は新たなエネルギー源でもある。日本は資源小国だから、原発を推進する必要があるという考えは真に古臭い。持続可能な資源利用という発想がない。ウランやプルトニウムも資源化の過程を経て初めてそれと認識される。資源は社会的に形成されるものであって、先験的にあるものではない。今日の資源化は持続可能性からなされる。風水土陽はまさに持続可能な資源である。 3・11から人々は日本社会の再興に臨んでいる。自己決定や地産地消、持続可能性に基づく脱原発はその鍵である。四方を海に囲まれた島国で人々は風や水、大地、太陽を感じて生きてきている。それは過去と現在をつなぐだけではない。未来の社会の源でもある。 大手新聞紙上には官邸からの匿名のリーク記事がしばしば載る。そこからは何とか官邸デモをやめさせたいという思惑が透けて見える。実に古臭い手だ。そんなことをしているうちに、政府がアリバイ作りに利用しようとした討論型世論調査・意見聴取会・パブリックコメントのいずれでも2030年までに原発0%が多数派の結果に終わっている。特に、討論型では、した後の方が前よりもその支持が増えている。脱原発はたんなる感情論にとどまらない。理性的判断である。 だから、デモを続けよう! 〈了〉 参照文献 辛島昇、『南アジアの文化を学ぶ』、放送大学教育振興会、2000年 |