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「これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云う事に帰着するのである」。 夏目漱石『現代日本の開化』 2010年の参議院選挙以来、日本で二大政党制への疑念が生じている。中には、そもそも日本には二大政党制は合わないと文化論的に語る者さえいる。さらに、中選挙区制に戻すべきだという主張もある。なぜか世界で主流の比例代表制に変更する提案が少ない。 しかし、二大政党制はたんに二つの大きい政党が議会勢力として活動している状態を意味しない。近代の理念を実現しようとする政党とそれがもたらす現実の諸矛盾を批判する政党が競争するシステムである。欧州や中南米で見られた古典的二大政党制の概観を示してみよう。 自由・平等・友愛の理念に基づき、自由で平等、独立した個人によって構成されるのが近代社会である。この実現を目指すのが自由主義である。二大政党の一翼を担うのが自由主義に立脚した政党である。支持者は近代に密着したブルジョアと教養市民層である。教養市民層とは弁護士や医師、大学教授、教師、ジャーナリストなど専門職層である。 理念を実現しようとすれば、諸矛盾が生じる。そうした現実を根拠に近代主義の行き過ぎを批判し、両者の調停を図るのが保守主義である。これが二大政党制のもう一方である。その支持者は地主や鉱山所有者など伝統的な持てる者である。 自由主義と保守主義の競争が古典的な二大政党制である。理念を持っている前者が主流であり、後者は傍流である。保守主義は自由主義の矛盾を指摘するが、それだけなら近代自体と相反してしまう。 次第に、選挙権の拡大などのため国民の政治参加が拡充する。自由主義と保守主義だけでは世論を汲みとれなくなる。ブルジョアと利害が対立する労働者階級の利益を代表する無産政党、近代の個人主義を批判して共同体を志向するカトリック政党などが欧州では登場する。 福祉国家が国家体制のヘゲモニーをとると、二大政党制は社会民主主義=自由主義と保守主義の競争へと変わる。自由主義の主流も政経分離の原則から離れていく。社会民主主義を取り入れた自由主義、もしくは自由主義の影響を受けた社会民主主義が近代主義政党の理念となる。古典的な自由主義を信奉するために、保守主義政党へと支持を変更する者も現われる。あくまでも理念派政党が主流で、現実派政党は傍流である。 今の日本の国会は二つの大きい保守政党があるだけで、二大政党制ではない。自民党は反社会主義を掲げて発足したのだから、保守主義政党である。一方、民主党は、当初、社民リベラルを理念にしようとしていたが、自民党や松下政経塾の出身議員が社会民主主義の看板を嫌い、骨抜きにされてしまう。理念を失ったため、保守主義が入りこんでしまう。この時点で、二大政党制は機能できなくなる。 こうした「もどき」のシステムがうまく働かないからと言って、二大政党制を批判するのは筋違いだろう。戦前の政党政治も二つの保守政党がいただけで、二大政党制ではない。 二大政党制では、存立理念が相反するので、基本的に大連立はあり得ない。インドの二大政党、すなわち国民会議派と人民党はいずれも連邦議会の4分の1の議席しか占めていない。しかし、両者が連立することはない。前者が世俗主義、後者はヒンドゥー主義で、お互いの理念が相手を否定するからである。 確かに、二大政党制でも、ドイツやオーストリアなど大連立が行われる国もある。しかし、それは選挙制度が比例代表中心だからである。小選挙区制が中心の場合、民主主義の形骸化でしかない。二大政党のいずれに投票しても政権の枠組みが同じだとすれば、有権者の行動は無意味になるからだ。 二大政党制にしたいために、大手マスメディアも協力して小選挙区制を導入したはずである。それには理念派政党を育てなければならない。しかし、二大保守政党が小選挙区で争っている状態は、多様な世論を反映するのが困難で、民主主義を形骸化する。途方に暮れる有権者も少なくない。脱原発が典型だろう。一方は矛盾だらけ、もう一方はやる気がない。 英米は小選挙区制で二大政党制で民主主義が活発だから、日本もそうしようと議員や記者たちが浅はかに考えていたとしか思えない。政治が停滞すると、永田町関係者はいつも制度のせいにする。しかし、それは違う。ただ制度の何たるかを理解していないだけだ。 〈了〉 |