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「ただそれほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない。もしそういう誤解が生じてそれを解かなければならないとしたら、その仕事はなにしろ馬鹿馬鹿しいに違いないから」。 中野重治『素僕ということ』 傍から見れば不思議でならないだろう。世界有数の経済大国同士が、しかも相互依存を通り越して相互浸透しているとまで言える両国があんな小さい島々の領有をめぐって争っている。領土が国力の重要な要素と信じられた時代はすでに過ぎ去っている。 戦前、スコットランド啓蒙から影響された石橋湛山は植民地の全面放棄を提唱している国力は領土や軍備といった軍事力へ翻訳できるものではなく、技術力や人材、互恵関係などである。当時はあまり顧みられなかったが、戦後の日本はまさにこの「小日本主義」で国力を拡充している。 尖閣諸島に関して日本の週刊誌やワイドショーなどでは「一触即発」といった表現が踊っている。他方、中国のSNS上でも好戦的な意見が飛び交っている。しかし、あんな岩だらけの島の領有をめぐって日中の経済関係を断絶し、両国の若者の命を失うのに値するとは思えない。資源が得られるとしても、代償には釣り合わない。 尖閣諸島をめぐる戦闘シミュレーションを日本の保守派のメディアで紹介されているが、真に滑稽だ。戦争の勝敗が軍事的ではなく、政治的に決まるものだということをまったく理解していない。 しばしば領土問題は生物の縄張り争いのアナロジーで語られるが、これは不適切である。種によって自己あるいは自分の遺伝子を保存するために必要とされるテリトリーが決まっている。この合理的判断を超えてまで争うことはしない。無駄な行動は死を招く。 国家間の領土問題は合理性を欠いていることが少なくない。争いは当該国の周辺に位置し、資源が絡む場合もあるが、大局的にはそれに見合うわけではない。あるきっかけでそうした争いが生じ、次第に対立が両国にとって象徴化し、今さら引くに引けないと自己目的化する。こういう過程をたどることが多い。家の境界線をめぐるもめごとと似ている。 実際、重要な地域であれば、その領有権争奪は当該国にとどまらない、国際社会が調停に乗り出す。典型がスエズ運河である。1956年、エジプトがスエズ国有化を発表すると、英仏イスラエルとの間で戦争が勃発する。そこに米ソが介入し、エジプトを擁護、問題を決着させている。 世界で最も危うい領土問題はカシミールの帰属だろう。それをめぐって印パ両国がお互いを仮想敵国と見なし、核兵器で対峙している。人類絶滅の引き金ともなりかねない米ソの冷戦と違い、両国の保有する核兵器の量が少ないため、いわゆる抑止論が働きにくく、使用されるハードルが低い。 しかも、南アジアでインドは大半の統計で突出した値を示す。インドに対して他国は一割程度の規模でしかない。これだけの差があるため、逆に、政府がインドに妥協的な姿勢をとると、弱腰と国内から突き上げられる。インドは、それゆえ、つねに周辺国から脅かされているという意識を抱いている。インドと周辺国との貿易総額は対日のそれより少ないというのが実情である。諸国間の経済の相互依存も進んでいない。 1947年、英領インドから印パが分離独立する際、カシミール藩王国の帰属が問題化する。マハラジャがヒンドゥー教徒であるが、住民はイスラム教徒が多い。しかし、カシミールは地下資源に恵まれているとか交通の要所であるとかいった国益に直結するような地域ではない。印パの建国の理念に関わってくるために帰属が争われている。 パキスタンはイスラム教徒の国を国民統合の理念として建国する。カシミールはイスラム教徒が多いのだから、それに基づいて、パキスタン領とならなければならない。一方、インドは世俗主義を掲げて独立する。政教分離であるのに、イスラム教徒が住民の大半だからと言って、放棄するのは理に合わない。 特に、パキスタンがカシミールの領有に固執するようになったのは、1971年のバングラデシュ独立戦争以降である。イスラム教徒の国を国家イデオロギーとしていたのに、その一部がベンガル人の国を国民統合として分離独立してしまう。パキスタンの建国の理念が事実上崩れる。 インドにしても、ヒンドゥー主義の人民党が国政を担当する機会も生まれている。世俗主義が維持されてはいるが、揺らいでいることも確かである。インドもカシミール領有の根拠がかつてより弱まっている。 そうしている間に、カシミール問題を口実に武装勢力が成長する。対立の長期化はそれを自己目的化した集団を生み出す。彼らには、両国が和解して解決されては困る。 カシミールの帰属の主張は、印パ両国共に建国当時の理念に基づく根拠が弱まっている。その反面、対立は核兵器で対峙するなどエスカレートしている。ここに領土問題の本質が見える。 さもない地域だからこそ、領有権や国境線の争奪が激化すると考えるべきだろう。大したことがないほど、根拠が怪しいほど、それをめぐる争いから客観的意義が失われ、主観的な感情が反映する。双方いずれにおいても、その帰属を問題にすることによって、われわれの同一性と彼らとの差異性を認知できる。領有の裏づけが自分の主観性にしかない。これに反対するのは彼らであり、理解できないのは他人だ。主観的であるからこそ、その意識の共有が排他的一体感となり得て、感情の共同体が形成される。衝突が感情的であれば、それはこじれ、かつ激しくなる。 今日の領土問題は主観的である。だから、かえって、解決が難しい。 〈了〉 参照文献 『ちくま日本文学全集39 中野重治』、筑摩書房、1992年 |