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「その昔、軍隊の内務版とか、炭鉱のタコ部屋とか、『ここへ入れば、お前たちは人間ではない』と言われた。元代の学校は無言でそれを告げる。ここより地獄の門」。 森毅『学校に人権はない』 学校で体罰が禁止されている理由は単純明快です。生徒の人権意識向上の妨げになるからです。基本的人権は近代体制の根幹をなします。体罰は近代への挑戦ですから、認められないのです。 もし体罰が人権意識の高まりにつながるのだとすれば、こうなっていてもおかしくありません。校長は教員に体罰、教育長は校長に体罰、文部科学事務次官は教育長に体罰、文部科学大臣は文部科学事務次官に体罰、内閣総理大臣は文部科学大臣に体罰、そして主権者の国民が内閣総理大臣に体罰をするという連鎖があってしかるべきです。きっと日本国中で往復ビンタの音が絶えることはないでしょう。 スポーツ界にも体罰を容認する空気があります。しかし、近代の下でスポーツをしていながらその体制の否定を認めるのは、自己矛盾にほかなりません。しかも、彼らの大半がかかわっているのは近代スポーツです。体罰が自分の立脚する近代の否定だという自覚もないとは情けないものです。体罰容認が次の体罰を生む連鎖が続くのです。 近代体制の根幹に人権を認めたのはジョン・ロックです。自然物は人間の労働が加わって初めて価値を持つのだから、働いて手にしたものを何人も侵すことはできないと考えます。私的所有権が基本的人権の最初です。これによって自由で平等、独立した個人という近代人の理念が生まれます。これにさまざまな検討が加えられ、フランス革命の人権宣言へと発展していきます。人権は近代の成立の前提なのです。 人権擁護は近代体制の擁護です。人権ばかり主張するといった非難は近代の成立の理念上の仕組みを理解していないだけです。 近代の学校は生徒の人権意識を高める機関です。教師と生徒は教える=学の関係では対等ではありません。けれども、人権としては平等です。生徒の人権意識を高めるには教師のそれが重要となります。人権は不可侵ですから、当然、暴力は否定されます。いかなる理由があろうとも、学校における暴力を用いた指導は、近代の根幹である人権の理念への挑戦である以上、一切認められないのです。 体罰は近代のないがしろです。自分の指導するクラブが強くなって欲しいから体罰をするとしたら、その教師は思い上がりも甚だしいでしょう。近代体制よりも部活が上だと主張しているのと同じだからです。 しかも、今回、自ら若い命を絶ってしまっています。体罰しなければ強くならないことが人の命よりも大切なわけがありません。教員の人権意識がこの不幸を引き起こしたと言って過言ではないのです。 戦争中、学校には軍事教練の授業があり、当時生徒だった森毅少年は苦痛で、自殺さえ考えたと回想しています。その経験を振り返りつつ、1978年に『ぼくは鍛錬されるのはイヤだ』の中で、教育には「鍛錬」が必要だという風潮を批判しています。それは2013年の今も過去の話になっていないのは残念でなりません。 ヘンな使命感に酔う教師たちよ。ぼくだって、戦争中の鍛錬拒否児だったころは、大袈裟にいえば、ささやかながら自分の生死を賭けていたのだ。いま自殺を考えている鍛錬拒否児だって生死を賭けているのだ。ぼくは、キミたちを憎悪する。あえてキミに、最大の悪罵を投げる。このファシストめ!〈了〉 参照文献 森毅、『チャランポランのすすめ』、ちくま文庫、1993年 森毅、『ものぐさのすすめ』、ちくま文庫、1994年 |