エントランスへはここをクリック
ニカラグア事件と集団的自衛権佐藤清文
Seibun Satow
2014年7月14日
初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁
「よい戦争もなければ、悪い平和もない」。
ベンジャミン・フランクリン
安倍晋三政権は、2014年7月11日、集団的自衛権行使を可能にする法整備として、武力攻撃事態法を変更する方針を示している。同法は武力行使を日本が武力攻撃を受けた場合に限定しているが、それを「攻撃が発生する明白な危険が切迫している」場合にもぁ可能であると変えようとしている。これは先制自衛論である。自衛権の本質にかかわる見解であって、集団的自衛権に限らない。
一般の国家は安全保障を国防に限定しているが、米国は「世界の警察」として対象を世界全体に適用している。合衆国は先制自衛論を必ずしも否定していない。米国との集団的自衛権を行使するために、認識を一致させる思惑からこのような方針を打ち出したのだろう。
しかし、先制自衛論は国際的な規範になっていない。米国と友好関係にあっても、承認していない国もある。それを実行した場合、共通基盤に基づいていないので、自国の事情を説明しても、国際社会から糾弾されるだろう。国際社会を納得させるには、歴史的に蓄積されてきた共通理解に則って自説を展開する必要がある。
国際法は国内法以上に学説がわかれている。だからと言って、自分たちに都合がいいからと有力ではない説をエキセントリックな政府が採用するのは危険である。国際法は紛争のない平和な世界の実現を目指し、経験と議論が積み重ねられている。そうした知見を無視ないし軽視することはそれに対する挑戦である。
安倍政権は集団的自衛権に関する憲法解釈の変更を立憲主義を無視して行っている。法ではなく、恣意の支配をこの政権がとっていることを意味している。国際法に対しても同様の態度が出る。国内法をないがしろにする者は国際法をもそうする。過去の独裁政権の行動から世界は思い出すべきだ。
国連は憲章51条で個別的自衛権と集団的自衛権を認めている。集団的自衛権はサンフランシスコ条約の際に米州機構の主張から急遽編み出されている。東西冷戦時代の産物である。集団的自衛権は国連憲章で初めて規定された概念であり、決して古くからある物ではない。
東西冷戦期に生まれたことは、集団的自衛権が仮想敵を前提にしていることを意味する。個別的自衛権や集団安全保障は仮想敵を必要としない。集団的自衛権を新たに認めることは相互依存が浸透するポスト冷戦にあって反時代的である。
安倍首相は憲法解釈変更の記者会見の際に、同盟の力学による紛争の抑止を主張している。しかし、この力の均衡論は第一次世界大戦までの国際政治の理論である。19世紀の欧州諸国の体制は類似している。その共通基盤を信頼して、同盟を柔軟に組み替えて力の均衡を維持し、大戦争を抑止する。けれども、同盟が膠着化し、その連鎖によってサラエボ事件が世界大戦に発展してしまう。力の均衡論はこのように破たんしている。集団的自衛権は体制が異なるために相互不信で対立する東西冷戦に誕生している。力の均衡と集団的自衛権はなぜ結びつくのか理解できない。しかも、ポスト冷戦という今の状況との関連も分からない。
集団的自衛権に関する解釈には次の三つの稜威の見解がある。
1 個別的自衛権を共同で行使すること。
2 武力攻撃を受けている他国を援助すること。
3 他国が武力攻撃を受けていることにより自国の死活的利益が侵害されていること。
現在、国際社会において標準的規範とされているのは2である。それはニカラグア事件に対する国際司法裁判所の判断に基づいている。
1981年、合衆国大統領に就任したロナルド・レーガンはニカラグアの内戦を冷戦の文脈で捉える。ニカラグアは米州機構の一員である。左翼のFSLN政権を放置していては中南米全体が共産化してしまうとして、それを打倒すべく反政府勢力、すなわちコントラを全面支援する。コントラへの軍事援助と同時に、FSLN政権に対する政治的・経済的圧力を実施する。米国からの経済援助の停止のみならず、世界銀行にも干渉し、支援をやめさせている。
ニカラグア事件(Nicaragua Case)に関する国際司法裁判所の判断が有力とされている。1984年4月9日、ニカラグアは同国に対するアメリカ合衆国による軍事行動の違法性の宣言や損害賠償などを求め、国際司法裁判所(ICJ)に提訴する。この国際紛争が一般にニカラグア事件と呼ばれる。
86年6月27日、国際司法裁判所はアメリカの行動の違法性を認定する。本判決は国際法上の集団的自衛権行使の要件や武力行使禁止原則の内容について初めて本格的な判断を示しでいる。国際法における重要な判例の一つである。ただ、米国は賠償をせず、ニカラグアも請求取り下げる。国際司法裁判所は、91年9月26日、裁判終了を宣言している。
国連憲章は2条4項で「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と規定している。これは「武力不行使原則(the Principle of Prohibition of the Use of Force in International Society)」と呼ばれる。
ここでは「戦争(War)」が用いられていない。それどころか、実は、国連憲章には「戦争」の語は登場しない。代わりに、「武力による威嚇又は武力の行使」が使われている。これはあらゆる「武力(Force)」の使用を禁止するという意図である。それには軍事力のみならず、政治的・経済的圧力も含まれる。
「武力の行使」は憲章51条の「武力攻撃」よりも広い内容の概念である。武力攻撃と無聊行使は重大度の高低によって区別される。この解釈に関してニカラグア事件の判断が引用される。正規軍が他国に侵入することが前者、他国の内戦において叛徒に武器等を支援することが後者である。
現在、武力不行使原則は国連憲章上の規定にとどまらない。慣習国際法上の原則としても認められている。これを正面から否定ないし挑戦する国家が国際社会に存在していない以上、「強行規範」とも考えられる。
安全保障を語る際に、国際法の知識が不可欠である。ところが、それ持たないまま、思いこみと思いつきで日本国憲法を揶揄する日本国民が要る。しかし、現代国際社会において、戦争はすべて違法である。「自衛のための戦争」も認められない。「戦争のできる国」は理念上存在しない。国際法は紛争のない平和な世界の実現を目標にしている。それを目指す国連は加盟国に「武力行使」も原則的に認めていない。
例外が自衛権と集団安全保障、相手政府の要請に基づく武力行使である。集団安全保障は国連軍に関することなのでここでは触れない。また、相手政府の同意は2013年にマリがフランスに要請したケースである。国連憲章上の自衛権は相手国からの武力攻撃に対する反撃の権利である。武力攻撃に至らない「武力による威嚇又は武力の行」についての自衛権行使は認められない。
国際司法裁判所は自衛権行使を被害国による「均衡のとれた対抗措置」に限定している。これは憲章に明記されていないけれども、やむを得ない緊急の反撃であっても、相手国の武力攻撃と均衡がとれていなければならない。
「武力攻撃が発生した場合」という憲章の記述をめぐり先制自衛論が主張される。実際に発生する前に武力攻撃の脅威が存在した時点で自衛権を行使できるという考えである。こうした拡張した見解をとり、イスラエルのように、実行している国もあり、国際的な一致が達成されていないのが実情である。規範となっていない説を安倍政権は採用しようとしている。
集団的自衛権の憲法解釈変更に際し、安倍首相を筆頭に政治家に「自衛権」や「武力」、「武力行使」に関する国際法上の知識が十分にあったとは言い難い。領土保全や政治的独立を目的として武力行使は認められない。自衛権は相手国からの攻撃に対する均衡のとれた反撃権である。東西冷戦期に生まれた集団的自衛権もそれに含まれる。
自衛権が均衡のとれた反撃権とすれば、実際には、先制自衛論は机上の空論である。均衡という制限は、確かに、具体性を欠く。しかし、外交は情報が不完全であるから、合理的判断も制限されている。先制自衛論は情報と合理性が完全であることを前提にするが、そんな条件での均衡のとれた反撃は現実的ではない。安倍政権の主張は、どこまでも観念的である。
武力攻撃の主体が国家以外の場合もある。2004年のパレスチナ壁建設事件へのIJC勧告的意見から自衛権をあくまで国家間にのみ限定されるのが標準的である。
このように簡単に自衛権をめぐる国際法の標準的考えをたどるだけでも、安倍政権の政策がエキセントリックだということがわかるだろう。国際法の本質からこの政権を考える時、あまりに危うい。
〈了〉
参照文献
柳原正治、『国際法』。放送大学教育振興会、2014年