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被災と物語

第三章 生者と死者

佐藤清文
Seibun Satow
2014年3月11日

初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


第3章 生者と死者

 死の認知は人間と動物を分かつ識別の一つである。人間だけが文化を持つとすれば、それはその重要な基盤だろう。その人間にとって死は二つある。自分の死と他者の死である。

 マルティン・ハイデガーを代表に近代の思想家が死を語る時、それはほぼ自分の死に集中する。人間はこれまで他者の死を意識してきただけであり、自分の死を見つめていない。いまだかつて自分の死が語られたことがなく、そうした根源的な思索をしなければならない。言い方はさまざまであるが、死を考えることは自分の死と向き合うことだと言う主張は共通している。

 しかし、それこそが近代的な認知バイアスだろう。死と言えば、伝統的に他者の死を考えてきたとすれば、それが本来的だからである。他者の死を認知できるから、人間だけが死を意識の上で何度も経験できる。

 死と言えば、近代人が自分の死と思うのは、それが所有の概念と結びついているからだろう。近代の基本的人権の発端は私的所有権である。これを主張したのがジョン・ロックである。所有の源泉は労働であり、それはその個人に由来するものだ。市場経済を持ち出すまでもなく、所有という概念は近代が効率よく機能するための原則である。所有の定着が近代人に死を自分の死と認識させている。これは歴史的にも妥当性がある。

 前近代社会において、最も死を恐れた人物として秦の始皇帝が挙げられる。彼が不老不死を願っていたことはよく知られている。世界は理念上始皇帝の所有である。しかし、死ねば、それを手放さなければならない。自分の死を恐れたのはそのためである。あの巨大な兵馬俑は、始皇帝が生前に所有した世界を来世に持って行こうとした証だ。また、仏教やキリスト教、イスラームなどの世界宗教にも信者に自分の死を問いかける場合がある。これらの登場と浸透は階級社会の発生と発展と相関している。実際、金持ちが神の国に行くのは難しいなど自分の死と所有を関連させる教えが認められる。

 考古学はネアンデルタール人が埋葬を行っていたとことを明らかにしている。これは他者の死を認知していなければできない行為である。なぜ彼らがそうしたかと言うと、愛情を感じていた存在を失ったからだろう。愛情は他との絆を意識する原初的な感情である。

 他者の死は愛する者を失ったことである。英語の”bereavement”はこのニュアンスをよく表わしている。それは自分が残されたことも意味する。他者の死は生者である自分自身を意識する。他者の死は死を生き残った者にとっての問題とする。埋葬という習俗は、死別を生者が自身の問題として認知していなければ執り行われない。

 他者の死が愛情と関連しているとすれば、死者にとって大切なのは自分を覚えていてくれることである。忘れたものに人間は愛情を抱くことはない。記憶されていなければ、それはた過去に物理的に存在していたものである。死者は、生者に追憶されて、初めてそれになる。

 覚えているのだから、生者は、死後も、死者を存在しているかのように語る、記憶された死者は生者のように振る舞ったり、生者を代理人と利用したりすることができる。それはしばしば「幽霊」や「死霊」と呼ばれる。

第四章につづく