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安倍総理の「保守」を問う佐藤清文
Seibun Satow
2014年7月25日
初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁
「もちろん普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは簡単なことだ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」。
ヘルマン・ゲーリング
『文藝春秋』2014年6月号は「安倍総理の『保守』を問う」という特集を組んで100人の論者の意見を80ページに亘って掲載している。内容以前にこの問題設定は「保守」が明確に定義されて使われてこなかったと現状がよく物語っている。「保守」か何んであるかはっきりしていれば、安倍晋三首相がそうであるか否かは論じるまでもない。
「保守」は戦後の革新や進歩派と呼ばれた勢力の反対の意味しかない。自己規定できない概念だから、曖昧なままに使われている。革新でないものが保守という分類だ。そのような理解だから、安倍首相が「保守」なのかという問いが生じてしまう。
藤井裕久民主党最高顧問は、かつて『パック・イン・ジャーナル』に出演した際、何度か安倍首相を保守ではなく、「右翼」と呼んでいる。保守と右翼の違いについて明確な言及をしなかったが、安倍首相の男女共同参画社会に対する否定的意見を取り上げている。
藤井元財相は家族関係を大切にすることと男尊女卑に基づく性別役割分業の肯定は異なると指摘する。前者は歴史を経る中で形成されてきた伝統であるから保守、後者が時代の変化を無視したイデオロギーなので右翼というわけだ。
安倍首相は保守ではなく、右翼である。
藤井最高顧問にとって先の問いは考えるまでもない。その彼の保守と右翼の区別は、素朴に見えて、核心的である。
保守主義がよき習慣を尊び、漸進的な移行をよしとするのに対して、右翼はナショナリズムのイデオロギーを絶対視し、その実現のために急進的変化を指向する。両者は水と油と言っていいほど違う。それを検討してみよう。自由主義にしろ、保守主義にしろ、右翼にしろ、時代や社会によっても違いはあるし、さまざまな種類がある。以下はあくまでその要約である。
古典的には、保守主義は自由主義の批判として規定される。近代社会は自由と平等で、自立した個人によって成り立っている。その理念を推し進めるのが自由主義である。支持者は教養市民層である。医師や弁護士、大学教授、教員などの専門職である。
一方、保守主義は自由主義の鎮静剤である。理念による社会改革に対して現実を提示して批判する。支持者は大土地や鉱山などの所有者、貴族といった前近代からの富裕層だ。彼らの根拠は習慣であり、それは歴史的に積み重ねられ、社会に定着してきた知恵である。保守主義は経験の蓄積による集合知を重んじ、英雄主義と相反する。
自由主義は、支持者に法律家がいるように、近代法の支配を主張する。それに対し、保守主義はよき習慣、すなわち徳を統治に重んじる徳治主義である。法が普遍的正義を志向するとすれば、徳は共同体の内在的正義である。法は杓子定規の傾向があり、万能ではない。法にばかり頼っていると、現実に適用する際に例外を生み出してしまう。思いやりや親切などの徳の裁量によって法は緩和される方が現実的である。
保守主義には現状維持傾向が見られるが、変化を否定しているわけではない。ただ、自由主義の急進主義と違い、保守主義は漸進主義である。自由主義と保守主義は国内政治における競争相手であり、専ら論点は変化の速度である。両者の関係はソナタ形式の第一主題と第二主題と言ってよく、激突から対話まで国情によって多くのヴァリエーションがある。
ところが、右翼は保守主義と違う。右翼は国内ではなく、国際政治から論を進める。彼らの世界観は国家間競争である。19世紀、文化的に同質な「国民」集団が政治単位として「国家」と合致すべきだというナショナリズムが勃興する。それはそのコロラリーとしての外国人への嫌悪・対抗意識も生み出す。この排外主義からナショナリズムを自国優越主義として再構築した思考が右翼である。
右翼の理解する争いの対象は国家の威信であって、抽象的である。そこで右翼は軍事力をその具体的現われと見なす。軍事力はゼロサム状況で行使され、領土・権益の獲得、独立の保持、戦争の勝利など勝敗が明確である。右翼はこの軍事力に翻訳してすべてを把握する。
右翼は、他国に負けるな、当面の競争相手に勝たねばならぬ、自国こそが最も優れている、自分たちは世界のリーダーであるという劣等感と自尊心が肥大化している。他国と協力するのは、あくまで当面の敵との競争に打ち勝つためである。最終的に国家間競争で勝利を収めるのは自国だ。
国家間競争を基盤にしているため、総力戦で動員され、過酷な塹壕戦を経験した第一次世界大戦の復員兵が欧州において右翼の温床となったとしても不思議ではない。敵と味方の二分法、上意下達で極度に具体的な命令文中心のコミュニケーション空間は右翼の発想に適合する。
競争に勝つために、右翼は改革を指向する。自由主義者は近代の理念の実現のために変革を望んだが、右翼の革新は自国の優越を示すために進められる、それは国家を一つの有機体と考え、すべての部位が意思に忠実に動くようにすることだ。国家は理性主体ではなく、意思主体である。競争に勝利する意思を全体に行き渡らさなければならない。国家の意思は指導者を通じて表明される。右翼はリーダーを意思と決断の英雄として賛美する。
右翼は議会制民主主義を無視したり、利用したりするだけで、その制度本当は嫌っている。国内にはさまざまな利害対立があるが、彼らは国家間競争に勝ちさえすれば、全員が報われると根拠のない成果を約束する。だから、一つにまとまるべきだと人々に説く。
右翼の政策や行動の優先順位は、そのため、合理性を欠く。競争至上主義の観点から地域の活性や弱者の救済などは後回しにされる。
自国が芳しくない状態にあると、右翼は陰謀があるという妄想によって自らを納得させる。外国による国際社会への巧妙な扇動と国内の裏切り者の妨害工作のせいだ。彼らの糾弾は、論理に無理があるため展開されず、「アカ」や「非国民」といったレッテル張りが中心である。強迫観念に駆られる右翼は内部を固めなければならないと個人の自立性や自由をできる限り抑圧し、外部には攻撃的な姿勢態度で臨む。反個人主義・反自由主義・排外主義は正当化される。
右翼は反個人主義・反自由主義の点で社会主義に親近感を持つ。急進的革新を指向する北一輝の超国家主義が国家社会主義であるのはその好例である。また、右翼の極端な一元主義は権威に対する信頼・従属として示され、多元主義的な思想・運動はそれを乱すと糾弾する。保守主義は個人主義ではなく、歴史的に形成されてきた地域の共同体を重視するが、右翼はそうしたしがらみの弱い都市で成長する。保守主義にとって相容れないのは自由主義ではなく、右翼である。
右翼は国家や民族にアイデンティティを直結させる。一般の人々は国民としての意識を持っていても、アイデンティティは自身をめぐる社会的ネットワークと認知されている。右翼にはこうした多元主義を認めない。
このアイデンティティにとって重視されるのが歴史である。歴史は連続しているからだ。しかし、右翼は排外主義的自国優越主義から歴史を再構成する。自身のイデオロギーに基づく本来の姿を抽出するため、外部との交流の産物不純物として排除したり、紆余曲折しながら積み重ねられてきた過程を切り捨てたりする。過去はすべて自らの信念を実現するためにあったと位置付けられる。彼らの描く歴史はグロテスクであるが、劣等感と自尊心によるバイアスから認知しているので、そう感じていない。
徳富蘇峰はこうした論理を展開している。蘇峰は、『新日本の詩人』(1891年)において、欧化主義をバネにした国粋主義を唱えている。欧化主義は花鳥風月など伝統的な価値観を破壊し、「平民的」、すなわち国民的な視点から日本史や民俗学の領域が「詩人の材料」に提示される。歴史から日本の西洋に対する優位が見出され、観念的な欧化主義は愛国主義の高揚へと転じる。国粋主義は西洋近代の認識を用いながら、優越性の観点から日本の歴史を再構成する。
蘇峰の主張で興味深いのは、自国優越主義が伝統的ではなく、西洋近代的な見方から歴史を再構成することで生じるとしている点だ。保守主義には個人主義や自由主義に対する批判がある。しかし、それは歴史の積み重ねに基づいてなされている。他方、右翼はそれを無視する。右翼が伝統と言う時、それは口実にすぎない。
蘇峰が『徳富蘇峰終戦後日記』の中で昭和天皇に敗戦の責任があると記したことはよく知られている。その理由は、明治天皇の日露戦争の際の詔書と比べ、やる気が感じられないからだ。戦争に勝つという明確で強固な意思を昭和天皇が表明していない。こんなことでは勝てる戦争も勝てないというわけだ。この蘇峰の意見はおよそ合理性を欠いている。
このように検討してくると、保守主義と右翼の違いは明瞭で、使い間違えることはないだろう。むしろ、右翼的勢力が保守主義を隠れ蓑に使ってきたのではないかと疑ってしまうほどだ。その状況が安倍首相に対して「『保守』を問う」という考えるまでもない問題設定の特集記事を生み出している。
〈了〉
参照文献
徳富蘇峰、『徳富蘇峰終戦後日記』、講談社、2006年
島内裕子他、『日本の近代文学』、放送大学教育振興会、2009年