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池上彰コラム掲載拒否騒動と
慰安婦問題
佐藤清文
Seibun Satow
2014年9月8日
初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁
「過ちは潔く認め、謝罪する。これは国と国との関係であっても、新聞記者のモラルとしても、同じことではないでしょうか」。
池上彰
池上彰記者が朝日新聞紙上で毎月連載しているコラム「池上彰の新聞ななめ読み」の2014年8月分が掲載拒否されます。それは同紙が14年8月5日・6日に亘って載せた過去の慰安婦報道の検証記事を扱っています。これが世間に知れるや、騒動に発展します。
編集部は当初の判断を見直し、コラムを14年9月2日付『朝日新聞』誌上に掲載します。この「慰安婦報道検証 訂正、遅きに失したのでは」を読むと、巷の反応に二つの問題が混乱しているように見受けられます。池上記者が批判しているのは朝日新聞のジャーナリズムとしての姿勢です。それを理由に慰安婦問題自体を否定することは認めていません。朝日新聞の過去の報道と慰安婦問題は区別しなければならないのに、それを混同した意見はこのコラムの曲解なのです。
池上記者は過去の過ちではなく、検証記事を批評しています。その批判のポイントは二つあります。
一つは、92年の時点で吉田証言の信憑性が大きく揺らいだのに、そのことを明らかにしなかった理由の検証がない点です。
もう一つは、「女子挺身隊」と「従軍慰安婦」の区別が93年までつかず、それ以降混同しなくなったけれども、その訂正をしなかった検証がない点です。
いずれも検証記事の不十分さへの批判です。残念ながら、報道にも間違いがあります。それに気づいたら、訂正の対応をとる必要があります。けれども、当時の朝日新聞はそれに積極的ではありません。今回の検証記事では明らかにしなければならないその点が抜けていると池上記者は指摘しているのです。
検証記事は過ちを読者に報告していますが、謝罪が見当たらないと池上記者は指摘します。これには説明が要ります。日本の企業ジャーナリズムは、原則的に、謝罪はしません。朝日新聞のみならず、読売新聞も産経新聞も同様です。謝罪を認めてしまうと、後から謝ればいいと記事の執筆が無責任になるとされているからです。しかし、彼らの認知する責任がいかほどのものなのかドイツの新聞の歴史を見ると疑問を抱かずにいられません。ドイツの新聞はすべて戦後創刊です。戦前の新聞はナチスに協力した責任をとり、すべて廃刊になったからです。日本の企業ジャーナリズムも謝り方を真摯に考えるべきでしょう。
検証をこのように批評した上で、池上記者は朝日の記事の過ちが従軍慰安婦問題を否定することにはならないと次のように述べています。
朝日の記事が間違っていたからといって、「慰安婦」と呼ばれた女性たちがいたことは事実です。これを今後も報道することは大事なことです。
これはコラムの最後の方に出てきます。吉田証言の信憑性が損なわれたからと言って、慰安婦がいなかったわけではありません。朝日の記事の間違いからこの問題の否定を導きだしてはならないし、さらに報道していくことを池上記者は求めているのです。
池上記者は朝日の過誤を根拠に慰安婦問題を否定することに釘を刺しています。ところが、報道機関を含めまさにそうした動きが池上記者のコラム拒否騒動を利用しているのです。そういった曲解はジャーナリズムとしてあるまじき姿勢です。
慰安婦問題は国際的関心事です。国連人種差別撤廃委員会は、2014年8月29日、日本政府に対してヘイトスピーチをめぐる「最終見解」を公表しています。その際、従軍慰安婦問題に関する言及も含まれています。「日本軍による慰安婦の人権侵害について調査結果をまとめる」ことを促しています。
人権委が問題にしているのは慰安婦の人権侵害です。人権は人間の尊厳の法的保障です。人権侵害がなかったという反論を読むと、散歩ができたなどの理由が挙げられています。しかし、それが人間の尊厳への尊重だとしたら、「人間とは何か」と問い返したくなります。
深く考えなくても、慰安婦制度が人権侵害を起こすことは容易に推測できます。総力戦以降ですので、有事の際の権力による統制は厳格です。慰安婦を通じて軍の情報が漏洩する可能性があります。ですから、彼女たちは外部との接触が禁止されます。逃げる自由はありません。慰安婦制度はそれ自体で人権侵害に当たるのです。
従来、明示的な強制連行があったかどうかが慰安婦問題の中核であるかのように扱われています。けれども、おそらく女性を集めることは女衒が行っていたでしょう。組織的人身売買にはノウハウがありますから、あからさま暴力に頼りません。
かつての日本には公娼制度があります。それは娼婦を一定の地域に集めて公許の遊里として管理する制度です。その地帯に女性を供給する女衒も暗躍、彼らの行動は小説や映画でも頻繁に描かれています。
慰安所は戦地に設置されます。交通の便がいい都市ではありませんから、女性が独りでそこに行けるはずもありません。業者が連れて行くのです。女衒が本土の女性をだまして戦地の慰安所に送っているという話は、高倉健主演のヤクザ映画でも触れられています。
戦線が南方に拡大し、太平洋の島々を含め各地に現地の女性を慰安婦にした慰安所が設置されています。慰安婦強制連行はインドネシアで行われたことは確かです。これは軍内部でも問題視され、関係者が処分されたとされています。
慰安婦制度は戦時体制に組みこまれていますから、一般の公娼制度と異なります。兵士の性犯罪の防止という目的があったでしょうが、それこそ戦争における性暴力の現われです。
慰安婦制度に軍が直接関与した明白な証拠は現在までありません。ただ、現在の国際法の世界では戦争犯罪等の違法行為に関して国家の関与を証明することは困難と考えられています。国家は証拠を隠したり、消したりすることが比較的容易です。現代の国際政治でもしばしば見られる事態です。
この制度は戦時下で長期的に維持されています。国家機関の権限内で行われたと考えるのが妥当でしょう。権限からは責任が発生します。
慰安所は戦地にありますから、軍が許可しなければ、女性たちを運ぶことができないでしょう。軍のトラックが使われていたとされています。また、機密漏洩の観点から慰安婦の行動が制限されます。これにも軍の意向が働きます。
戦時下には明示的のみならず、暗黙の強制力も作用しています。それを考慮せず、書類の有無に囚われて慰安婦問題を議論するのはあまりに表層的でしょう。
加えて、慰安婦問題で見逃してはならないのは植民地主義です。日本兵として亡くなった植民地出身者がいます。被支配者が支配者の戦争に加わらざるを得なかったのですから、戦死の意味合いが違います。慰安婦問題を考える際に、この植民地主義を無視してはなりません。植民地出身の慰安婦は自身を抑圧する宗主国の戦時体制に組みこまれています。
慰安婦制度は他国でもあったと反論するのは、建設性に欠けます。その言い返しは人身売買や兵士等による性暴力、植民地主義という現代的課題に対する取り組みにつながりません。それらを解決するために、慰安婦問題に向き合う必要があります。そうした姿勢がこの根深い課題への新たな道筋を開くかもしれないのです。
人権委は、最終見解において、慰安婦問題をめぐって謝罪や補償を含む「包括的かつ公平で持続的な解決法の達成」、およびその存在自体を否定する試みを非難することを日本政府に求めています。仮想敵を想定して攻撃し、自らの主張を通そうとしたり、立場を強化しようとしたりすることは慎まねばなりません。慰安婦問題は国際的になっていると言うことは人類の課題であることを意味します。国内外を問わず誰であれ、これをナショナリズムに訴えることは人類に対する挑戦行為なのです。
〈了〉
参照文献
早野透=平野貞夫=鈴木哲夫、『永田町フ〜ゥン録』第8回、デモクラTV、2014年9月1日