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ヒューリスティックと
リテラシー


佐藤清文

Seibun Satow

初出:2008年5月9日

無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。



「黒澤君、知らないことは『知らない』と言いなさい」。
山本嘉次郎


 2008年5月2日、TBS系列で8時30分から放映された『はなまるマーケット』は、「今日のとくまる」としてカレイの煮付けをとりあげている。主婦にカレイの煮付けをつくる際の悩みをアンケートしてみると、「煮くずれ」をワースト1位に「味がしみない」、「パサつく」という回答が続く。

 白井隆明東京海洋大学准教授は「カレイの煮付けをおいしく作るコツは、カレイの体を理解することなんです」と指摘する。サバなど煮くずれしにくい魚は、主に、ヒレだけを動かして泳いでいる。一方、カレイは体全体をくねらせ、自分で水流をつくるような泳ぎ方をする。全身の筋肉を激しく動かして泳ぐカレイは、筋肉間のつながりを強化するためにコラーゲンを多く持っている。ところが、加熱によってコラーゲンが溶け出してくるので、結合組織が少なくなり、カレイの肉は崩れていく。加熱時間が長くなるほど、カレイは煮くずれを起こしてしまう。

 パークホテル東京の25Fにある花山椒の高田賀章料理長は、「カレイの煮付けは、煮魚ではないんです」から、「サッと炊き上げるというのがコツなんです」と言っている。加熱を短時間にすることで、コラーゲンが流れ出るのを防ぎ、煮くずれしにくくなる。そのため、味をしみこませようとするのではなく、濃い目に味付けをし、カレイに味をしっかり絡めると、食べた際に、しみている感じがする。

 以上から、先の悩みのワースト3は、一つの失敗に起因しているのがわかる。それは、カレイを長時間コトコト煮こんでいることである。けれども、番組によれば、どの料理本のカレイの煮付けについてのレシピを見ても、弱火でコトコト煮るとは書かれていない。

 この件から興味深い傾向が明らかになっている。レシピに目を通さないで調理している主婦は別にして、読んでいるのにそうしていない人が少なからずいるという点である。流し読みしているにしろ、字面を追って確かめているにしろ、この調理の掟は記憶に残っていない。

 通常、レシピには食材や調味料、調理手順が書かれている。時に、注意事項が付けられているが、理論的な根拠を提示した上で、説明されていることは稀である。それはまるで歴史の年表のようだ。カレイの煮付けの場合なら、短時間で調理することは記されてあっても、なぜそうしなければならないのかという学問的な意味づけは触れられていない。ほとんど経験則として記述されているにすぎない。料理は、主に、生物学・化学・物理学によって科学的に説明することが可能である。スペースと読者層を考慮して、料理本などではそれらを省いているのだろうが、その意味を伝えられていなければ、人の記憶には残らない。結果だけではなく、過程も知ることによってその知識は身につく。『はなまるマーケット』に限らず、『ためしてガッテン』などテレビの情報提供番組では、むしろ、その科学的な根拠に焦点を当てて説明している。家族から教わったり、料理教室などで体験しなかったりしたまま、本だけで学習すると、どうしてもそれが抜け落ちてしまうことが多い。

 確かに、学問的に解明されていないことも数多くある。高度な数学と最新のテクノロジーを用いている証券投資の世界にも、世界各地で、「アノマリー(Anomaly)」と呼ばれる経験則がある。それは、理論的な解明はできていないけれども、統計上ある規則性を示す現象である。アメリカの証券市場での「1月効果(January Effect)」や日本の「節分天井彼岸底」などがそれに相当する。解明は試みられているものの、とりあえず、今は経験則としてそれを認め、投資を考えていく方が現実的だとされている。

 プロの料理人にとっては、カレイの生体に基づく論拠を知らなくても、煮付けの調理法は経験則であってもかまわない。しかし、一年に数回しかつくらない主婦の場合は、手順を忘れてしまう可能性が高いので、記憶に残るように意味を記している方が効果的であろう。年表よりも歴史書や歴史小説を読むと、その出来事を覚えられるものだ。

 料理は特殊な専門家だけのものではないため、このような事態が起こりやすい。道具は、初心者と熟達者の技能差の点から、「日常的道具」・「一般的道具」・「専門的道具」の三つに大別できる。日常的道具は初心者と熟達者の間の技能差があまり出ない道具である。食器洗い用スポンジやシャベルがそうだろう。一般的道具は初心者でもある程度使えるが、訓練と素質次第で極めて高い技能に至ることがありうる道具である。包丁やパソコンなどがこれに入る。専門的道具は初心者にはお手上げで、専門家のみが用いることができる道具である。鉋はその代表である。鉋は削りクズを見ただけで、熟達者であればその大工の腕前がどの程度かわかる。料理の道具は前の二つが多く含まれていることもあり、日常的繰り返しにながされやすい。

 記憶に残っていないまま、カレイの煮付けをつくり失敗しても、そのアンケート結果を推察すると、主婦たちはレシピを見直さずに、「ヒューリスティック」によって問題を解決しようとしている。サバなど煮くずれしにくい魚の調理法を類推して、我流で改善を試みる。これは素朴な試行錯誤ではなく、ある種の合理性に根拠を置いている。レシピにはそう書いてあったはずなのに、うまくできないのは自分の手際に問題があったからではないかと推測するというわけだ。

 「ヒューリスティック(Heuristic)」は時間や労力をある程度に抑えて、最善ではないかもしれないが、比較的よいと思われる解答に到達する探求方法である。それは正しいと言うよりも、適切な解決である。ただし、解決に至らないケースもある。アラン・ニューウェル(Alan Newell)とハーバート・サイモン(Herbert A. Simon)は、『人間の問題解決(Human Problem Solving)』(1972)において、各種のヒューリスティック探索を分類している。中でも、「手段目的分析(Means-End Analysis)」がよく知られている。まず、目標と現在の状態の差を効果的に短縮で切ると思われるオペレータを選んでみる。しかし、現状に当てはめられるオペレータがすぐには見当たらない場合、そのようなオペレータの適用条件をつくり出す下位目標を設定し、それをクリアした後に、次のオペレータによって目標に近づいていく。これは一旦後に下がって、徐々に前に戻ってくる方法である。数学の文章題を説く際に、適用できる公式を思い出し、どの未知数にそれぞれが適当なのかを探して代入することで答えを導き出すのがこれに相当する。もっとも、たいてい、丸暗記しているだけで、その公式の理論的意味付けを知らず、総合的・体系的な知識・認識を欠いている。手段目的分析は、そうは言っても、現在の状態に適用できるオペレータを探し続けていい結果が生じるのを待つよりも、効率的であることが多い。

 ただし、ヒューリスティックの中には、明らかに最善ではないと承知しながら、その選択をする場合もある。その一例が「最後通牒ゲーム(Ultimatum Game)」である。

 AとBの二人がいる。ここに1万円があって、その分配をAに任されているとする。BはAの判断に従ったら、その金額を手にできるが、拒否したならば、権利を放棄したこととなり、一切受けとれない。合理的判断ができるなら、中身はどうであれ、BはAの決定に従うはずである。

 ところが、実験してみると、AがBに1円だけ渡すことにした場合、Bは全員が断る。同意すれば、1円をもらえるのだから、この選択は合理的ではない。そんなことは百も承知の上で、Bは断っている。「バカにするな」というわけだ。ある一定比率以下、概ね30%以下になると、なぜそうなのかははっきりしないけれども、Bは拒否し、またAもほぼ半分の分割提案する傾向があるという結果が出ている。

 このゲームは決して気楽なものではない。その変形として「独裁者ゲーム(Dictator Game)」などもある。こういったゲームの実験結果は、なぜ民衆が地域のマフィアに従属したり、独裁体制に我慢できたりしているのかという根本的な理由は不明であるとしても、ボスや為政者にとっては支配もしくは体制を維持する目安と考えられる。

 問題を解くためには、ニューウェルとサイモンによると、まず、その表象がつくられる。それは、初期状態、目標状態、現在の状態を変化させるための「オペレータ(Operators)」の集合、解決への道筋を制限する制約という四つの要素によって構成されている。これらが明確に定義されている好例はパズルである。彼らはそれを「よく定義された問題(Well-defined Problems)」と呼んでいる。

 「よく定義された問題」は、スピードはともかく、先行知識がなくても解ける。もちろん、根気強く続けていれば、いずれ解決するものだけでなく、ある種のひらめきを必要するタイプもあるので、パズル全般というわけではない。「問題解決は、問題空間における探索と定義される。しかし、原理的にはよく定義された問題であっても、問題空間が、そのすべてをしらみつぶしに調べてみるには大き過ぎることが多い。というのは、初期状態から目標状態に至るステップの数によって、問題空間の大きさは、指数空間数的に増大していくからである。チェスのように比較的簡単なゲームにおいてさえも、その問題解決は、約10の20乗の状態を含むという。将棋はこれよりさらに1ケタ大きく、碁はさらにずっと大きい、というのが定説である。そこで人間は、このような問題空間を探索するに当たって、いわゆるヒューリスティック探索を用いる」(波多野諠余夫『問題解決』)。

 ヒューリスティック探索は情報処理の分野でよく採用される。巨大なソフトウェアの作成では、バグがあるかもれないけれども、それを完全に確証することは困難であるため、とりあえず納期に間に合わせて出荷し、後から見つかったら、その都度修正プログラムを配布する。速さが要求される情報処理の世界においては、完全主義よりも、こうしたヒュールスティックの方が合理的な選択と見なされている。

 日常的な問題の多くはパズルのようにはなっていない。こういった「よく定義されていない問題(Ill-defined Problems)」を解決するには、その分野特有の先行知識・技能、すなわちリテラシーが必要となる。「よく定義されていない問題」の解決におけるリテラシーの効用を調べるには、その習熟度のもたらす違いを顕在化するために、熟達者と初心者を比較する方法が効果的だろう。

 ハーバート・サイモンとドロシア・P・サイモン(Dorothea P. Simon)は、簡単な物理学の問題を解く過程を例に、熟達者と初心者は問題解決の際に、異なったヒューリスティックを使うことを明らかにしている。熟達者は、慣れているのだから、洗練された解法をとるという予想も立てられるかもしれないが、実験の結果はそうはならない。初心者の方が後向き、すなわち手段目的分析のヒューリスティックを用いているのに対し、熟達者は考えうるだけの可能性を試し、その中で有望と思われるものを選び、それを発展させていく前向きの方法をとる。初心者は手間をかけずに結果を求めようとするのに、熟達者は労力を惜しまず、過程を大切にしている。

 サイモン&サイモンの発表以降、それを補完する実験が多くの研究者から報告されている。それを要約すると、以下のようになる。熟達者は、問題解決の際に、物理法則など普遍的なルールを見出したり、お客など他者からの反応・評価を想定したりしている。一方、初心者は見かけ上の類似性を手がかりにしたり、自分自身に意識を集中したりする。リテラシーはコミュニケーションにおける通時的・共時的なルールでもあるため、覚えると、ある表現方法がどのような効果をもたらすかも理解できる。初心者と熟達者のリテラシー習得の差は自己から他者への意識の移動も促す、

 こうした実験結果から、よく定義された問題の一部を除き、問題解決にはその領域特有の知識・技能、すなわちリテラシーが不可欠であることが明らかになる。熟達者ほどリテラシーを用いて問題の表象を創作し、効率的な探求を始める。映画制作や学術論文執筆、住宅建設、銀行経営などのような豊富な知識や高度な技能を必要とする問題解決では、初心者には目標設定自体がそもそもイメージできない。こうした複雑な問題解決は、ヒューリスティックで何とかなるという類のものではなく、リテラシー習得が欠かせない。リテラシーが身についてくれば、出来の悪い作品をつくってしまったときでも、その改善のためオペレータも見当がつきやすい。

 リテラシーが異なるために、ある分野で高い問題解決能力を示したとしても、他になると、それが低下する傾向がある。そのためにも、問題解決にはリテラシーが決定的に重要だと認識して、そこから捉える必要がある。複数の領域で、高い問題解決能力を発揮する場合、「アナロジー的転移(Analogical Transfer)」の力が質的にハイレベルにあると考えられる。

 アナロジー自身は日常生活でよく使われるが、その転移はそれほど容易ではない。マリー・ギック(Mary L. Gick)とキース・ホリョーク(Keith J. Holyoake)は、1980年、大学生を用いてアナロジー的転移を調査した際に、構造上は同一であるけれども、見かけが異なる問題に関して、正答率にばらつきが出ることを報告している。表面上の相異にとらわれて、その構造的共通性を読みとれない。逆に言うなら、表面的類似性よりも構造的共通性を見出すアナロジー的転移を使えると、さまざまな領域でも比較的高い問題解決能力を示すことができる。

 カレイの煮付けで言えば、カレイもサバも魚に含まれるが、解剖学的な生体は異なっている。煮付けをつくる際、カレイとサバは見かけ上は類似していても、構造上は違っているため、別々の調理法を適用させなければならない。見かけ上の類似性に依拠したアナロジー的転移によるヒューリスティックは比較的よいどころか、カレイの煮付けでは、最悪の選択になってしまう。

 多様な文学ジャンルで傑作を残した作家の一人として坂口安吾が挙げられる。彼は、ゴルフ・スイングをバッティングにとり入れる新田恭一の「新田理論」が流行したとき、『キャッチボール』(1953)において、むしろ、それはピッチングと共通性があると次のように述べている。

 私は昨年末からプロについてゴルフの稽古をはじめたおかげで、私が昔やったスポーツにいろいろフォームの狂いがあったことをさとった。

 ゴルフは野球の打法に似てはいるが、その他の多くのスポーツの基本的なフォームとの類似点も甚だしく多い。野球の場合はタマがどこへどの早さでくるか分らないのを打つのだから、その打法も複雑で完全なフォームというのは考えられないかも知れないが、ゴルフは停止したタマを打つのだから、完全なフォームというものが考えられるのである。したがって、あらゆるスポーツに基本的な身体の動かし方、使い方というものがゴルフによって会得しうるのである。

 今にして思うと、私の砲丸投や円盤投のフィニッシュには狂いがあった。腰が流れていたのである。あのころは陸上競技の草分け時代で、コーチにつくことができないから、概ね我流でやらざるを得なかった。したがってフォームも狂っていたはずだ。一番大事なところが狂っていたのである。

 ゴルフの打法では足のカカトに重点を置いて身体の回転を起すことにきびしい注意をうけるが、野球における投手の投球動作でも、そのフィニッシュにおける足の爪先の方向や踏ん張りに主点をおき、そこを中心に身体の回転を起すことをきびしく注意したら、一段とスピードが加わるのじゃないかと思う。日本のプロ野球の投手ですら概ね自然発生的で、コーチによって基本的に改良されたようなフォームはなかなか見られない。

 今日では、西鉄ライオンズの投手だったジャンボ尾崎の成功が示しているように、ゴルフ・スイングがピッチングの方に共通点があることは常識となっているけれども、当時はそうではない。安吾は構造的共通性の認識ならびにリテラシー習得という二点の重要性を説いている。リテラシーはその領域を他者のまなざしから認識することであり、それは解剖学的な見方に立脚している。それは、正しくても日本語らしくない表現があるように、「正しさ」ではなく、「適切さ」である。言語化が遅れる部分は、伝えにくいため、思考のブラインドになることが多い。しかし、概して、言葉にできないという安易な言い訳は、自分自身を他者として考えようとしていない証である。解剖学的視点に基づき、リテラシーから物事を考察していくと、別々の領域の間でも構造的共通性を発見できる。我流はストリート・マスマティックスであっても、それ以上ではない。見た目にとらわれず、構造的共通性を見出すには、総合的・体系的な知識・技能の習得が必要である。安吾が多様な領域で傑出した作品を生み出せた理由はおそらくこの点にある。「安吾はいつ読んでも面白く新しい。そしてあらゆる領域において新鮮である。今日の読者は、たとえばその小説・物語に中上健次、批評に花田清輝、歴史小説に司馬遼太郎の先祖を見出すだろう。また、日本古代史に対する彼の洞察は今なお驚嘆に値する」(柄谷行人『安吾はわれわれの「ふるさと」である』)。

 初心者だろうと、熟達者だろうと、必要なのはこの「洞察」ということになろう。それにより、問題解決の道筋を効率的に把握することができる。しかし、洞察の効用はそれだけではない。洞察はこの問題が解決不能だと根拠に基づいて見抜く能力でもある。解けない問題であるのに、早合点して答えを出したり、不毛な時間を費やしたりしてしまうことがある。洞察はまさにこういった問題解決の(不)可能性を適格に認知する能力であり、それはリテラシーの習得によって向上していくものにほかならない。

 カレイの煮付けに話を戻すと、ヒューリスティックに基づく決定は最悪の選択をしていることになる。合理的たらんとしているにもかかわらず、その結果は非合理的である。しかし、この場合にヒューリスティックを用いるのは、ソフトウェア開発と違い、合理的根拠に乏しい。プログラマーはプログラミングの知識やスキルに通じている。リテラシーを会得した上で、現実的制約を考慮して、ヒューリスティックを使っている。他方、カレイの煮付けを失敗する主婦においては、料理に必要なリテラシーが十分であるとは言いがたい。カレイの煮付けの失敗は専門的な技能ではなく、基礎的な知識が欠けていたことによる。ヒューリスティックはリテラシーを会得していなければ、効果的に機能しない。リテラシーあってのヒューリスティックであって、ヒューリスティックがあればリテラシーは不要だというわけにはいかない。

 ヒューリスティック探索がこのような最悪の結果に終わってしまうのは、手段が目的化してしまう場合である。いかに時間と労力をかけないで、最高の結果を手にしたいという願いが先にきている。その方がお得だというわけだ。最善策を目指したいけれども、手間暇を考慮すると現実的ではないため、ヒューリスティックを用いるのではない。願望的な判断にすぎないヒューリスティックはリテラシー学習の手間暇を省くために、濫用されている。安物買いの銭失いとはこのことだ。これが進むと、自惚れていて、自分のすることは間違いがなく、他人の行動・志向にも影響を与えるはずだと「コントロール幻想(Illusion of Control)」にとらわれかねない。「私が社長をしていれば、もっと大きな銀行にしていた」と都議会で答弁した石原慎太郎東京都知事はその行き着く先である。

 情報が氾濫し、複雑化していく社会では、因果関係が見えにくくなったからと言って、安易なヒューリスティック探索ではなく、むしろ、ある程度のリテラシー学習をした方が問題解決には効率的であることも少なくない。リテラシーが身についているからこそ、効果的にヒューリスティックを使うことができる。激変する現代社会は問題解決に正しさではなく、適切さを求めている。リテラシー認識の重要性は、そのため、ますます高まっていくだろう。それは、結局、正しさの認知ではない以上、いくら頭をひねってもわからない謎に直面することにもなるが、建設的で実り豊かな考えの出発点である。

〈了〉


参考文献
東千秋他、『認知心理学概論』、放送大学教育振興会、2004年
柄谷行人、『批評とポスト・モダン』、福武文庫、1989年
川越俊司、『実験経済学』、東京大学出版会、2007年
坂口安吾、『坂口安吾全集18』、ちくま文庫、1991年
高野陽太郎他、『問題解決の発想と表現』、放送大学教育振興会
玉木正之、『プロ野球大事典』、新潮文庫、1989年
ロス・M・ミラー、『実験経済学入門』、川越俊司他訳、日経BP社、2006年
Newell, A. & Simon, H.A. (1972). "Human Problem Solving", Englewood Cliffs, NJ: Prentice Hall.
Simon, D.P., & Simon, H.A. (1978). 'Individual differences in solving physics problems'. In R.S. Siegler (Ed.), "Children's thinking: What develops?" (Chap. 13). Hillsdale, NJ: Erlbaum.
Gick, M. L., & Holyoak, K. J. (1980). 'Analogical problem solving'. "Cognitive Psychology" 12, 306--355.

TBS、『はなまるマーケット』、「今日のとくまる:カレイの煮付け」
http://www.tbs.co.jp/hanamaru/tokumaru/t080502.html

NIKKEI NET
http://www.nikkei.co.jp/

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