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第一章 双世紀(Twinturies) 第一節 一九世紀と二〇世紀 世界史上、ヨーロッパが政治的・経済的制度を世界中に輸出したのは、資本主義と国民国家が最初である。その体制が浸透する前の一九世紀初頭、中国やインドの超えるGNPを持つヨーロッパの国々はない。本格的な中世を経験せず、世界の周辺でしかなかったユーラシア大陸の西端地域は、その輸出品のため、一九世紀半ばになって、初めて世界の中心的な地位を獲得する。「日本とヨーロッパには奇妙な平行現象があって考えやすい。 どちらも本格的な中世がなくて、ルネサンスがある。西洋史では扱わぬが、日本史なら江戸時代をさす近世という概念が、ルネサンスと近代とのつなぎに便利。中国やペルシアのような本格的な中世になるとこうはいかぬ。長安やバグダッドは別世界としか思えぬ」(森毅『時の渦』)。 「西暦(Anno Domini)」ならびに「世紀(Century)」の世界化が一九世紀以降の時代の気質を示している。“The history of the calendar throughout the world is a history of inadequate adjustments, of attempts to fix seed-time and midwinter that go back into the very beginning of human society”(Herbert George Wells “The World Set Free”).暦は政治的・経済的・社会的な習慣・制度を規定する。 キリスト教の暦にすぎない西暦が世界化している現状は欧米の世界に対するヘゲモニーの獲得を反映している。西暦は、スキティアの修道院長デュオニュシウス・エクシグウスが五二五年に定めた受肉紀元に由来する。キリスト生誕を時間の中心に据え、それ以前と以後に分け、西暦年数が四で割り切れる歳を閏年とするが、一〇〇で割り切れる年については、その商が四で割り切れる場合のみ、閏年とする。四〇〇年間に閏年を九七回制定するというこの暦は、復活祭の日が一定期間内からずれないことを目的としている。東方正教会では、現在でも、復活があってイエスはキリストたりえるという理由から、クリスマス以上に復活祭を重視している。”A lot of people say to me, ‘Why did you kill Christ?’ ‘I dunno... it was one of those parties, got out of hand, you know.’ ‘We killed him because he didn't want to become a doctor, that's why we killed him’"( Lenny Bruce). キリストの誕生と復活が人間の時間観念を規定する。ユダヤ歴では神の仕事が反復されるのに対して、西暦は単独的なキリストの存在を繰り返す。グレゴリオ暦と結びつけ、キリストの誕生を時間の中心に定めることにより、一七世紀頃から、創世などさまざまな解決困難な問題を回避できるため、ヨーロッパ全体に定着する。月の最終日の不規則さなどといった常用暦としてのグレゴリオ暦の欠点を修正しょうと何度か試みられているが、一般にはあまり浸透していない。もっとも、この暦にしてもかなり怪しい。 イエスの誕生日を一二月二五日とした理由もさまざまに検討されているけれども、その一週間後に次の年に変わるというのは創世記の冒頭を踏まえているというのは間違いないだろう。と言うものの、この暦の作成者は福音書の記述にいささか注意力散漫だったようである。イエスはヘロデの治世時代に生まれたと見られているが、彼は紀元前四年に亡くなったという多くの史料が現存している。革命後、フランスでは共和暦が一七九三年一一月二四日から一八〇五年一二月末まで使われている。他には、アメリカのエリザベス・アケリスが、一九三〇年一〇月、一年を四期に等分する世界暦を普及する世界暦協会を設立したものの、一九五六年四月に解散している。 西暦は神の死と共に、神の束縛から解放され、世界標準としてヨーロッパの外にも広がっていく。「死人は良いことしか言わない(de mortuis nihil nisi bene)」。その暦はグリニッジ天文台を基準にした世界時刻によって運用されている。一八八三年にグリニッジ平均時が導入され、次第に、世界標準時刻になっていく。 これにより、世界は、歴史上初めて、統一される。これは、古代ローマ人も、モンゴル人も、なしえなかった事業である。時間・空間は資本主義化=均質化されなければならない。資本主義と国民国家体制が浸透していくにつれて、ヨーロッパの暦が世界を支配する。“I’ve been on a calendar, but never on time”(Marylyn Monroe). 二〇世紀は一九世紀に提起された諸問題に対する解答に追われてきたのであり、一九世紀と対象的な関係にある。 金子勝は、『長期停滞』において、パックス・ブリタニカとパックス・アメリカーナには長期停滞状況を招いた点で共通点があると次のように述べている。 パクス・ブリタニカにせよパクス・アメリカーナにせよ、長期停滞局面に入る時には、ある種の共通性が見られるからだ。まず、世界経済の中心にいる覇権国の産業競争力が衰退して、覇権国が恒常的な貿易赤字状況に陥り、国際通貨体制の動揺が始まる。覇権国は金融ビジネスを通じた資本収支の黒字で、それをカバーしようとする。その過程で、国際金融市場のヴォラティラティ(浮動性)が高まり、バブルとバブル破綻の波動が繰り返される。そして、物価も金利も傾向的下落を続けながら、世界同時不況に入っていくのだ。こうして長期停滞局面がやってくる。 一九世紀と二〇世紀は「双世紀(Twin Centuries=Twinturies)」と呼ぶことができよう。本質的に双子であるが、環境が両者を分けている。一例として、双世紀はどちらも機械文明である点では同じであるけれども、一つの概念の点では異なっている。一九世紀に生産現場で機械化が進み、自動車といった工業製品が製造されるようになったとしても、標準化という点では不十分である。 当時の自動車は、家具と同様、クラフトワークにすぎない。二〇世紀、フォーディズムに基づく大量生産方式は「互換性」の概念を生産に導入する。T型フォードは、全車が同じ規格の部品で製造され、どこかが故障したら、それを交換すればよい。逆に、互換性がない工業製品は、一般向けには商品化されることはない。互換性が真に「複製技術時代」の到来を意味したのであり、画一化は互換性というマトリックスが支配することだ。一九世紀以上に二〇世紀は、生産=消費において、記号化が進んでいる。「ヘーゲルはどこかで述べている、すべての世界史的な大事件や大人物は言わば二度現われるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と。彼は付け加えるのを忘れなかったのだ」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』)。 第二節 キーワードによる歴史 一九世紀は、それが体現する問題から見ると、一八二〇年に始まり、一九一九年まで続く。「ウィーン体制(The Vienna Settlement)」と「一八四八年革命(Revolutions of 1848)」が提起した圧縮=開放のサイクルというプロブレマティークによって規定される。他方、二〇世紀は、同様に、一九二〇年に始まり二〇一九年まで存続するであろう。しばしば「長い一九世紀、短い二〇世紀(The long 19th century, the short 20th century)」と言われる。東西冷戦の終結を以て二〇世紀の終わりとする見方である。だが、一九世紀が帝国主義の世紀だとすれば、二〇世紀はグローバリゼーションに象徴される自由貿易体制の拡大の世紀である。冷戦の終了は二〇世紀にとって過渡期である。 「ローリング・トゥエンティーズ(Rolling 20’s)」に代表される金ぴか時代と「大恐慌(The Great Crash)」に表象される不況の時代が決定論的非周期性に則って波のように繰り返し襲う。「今日の経済政策をめぐる論点は、この大恐慌の原因をめぐる論争を再現しているにすぎない。論点も一応出そろっている」(金子勝『長期停滞』)。この二〇世紀が体現した問題は、前世紀に出現した変化が導き出した矛盾の産物であり、それへの代替案の創造に追われ続けている。一九世紀は問いを発し続けた時代であるが、二〇世紀には問いも答えも不要なアルゴリズムの時代にほかならない。「経済予測家にとって一番有利なことは、あらゆる予言が、正しいにせよ間違っているにせよ、まもなく忘れられてしまうことだ」(ジョン・ケネス・ガルブレイス『経済学の歴史』)。 一九世紀のキーワードが政治的であるとすれば、二〇世紀は経済的である。一九世紀が政治主導であったとするなら、二〇世紀は経済が優先される。こうも言い換えられる。一九世紀はハード・パワーが盲信され、二〇世紀にはソフト・パワーの効果が認知される。 『キーワード辞典』のレイモンド・ウィリアムズに倣うなら、こうした二〇世紀の特徴はキーワードとしての歴史が表象している。森毅は、『数学の歴史』の中で、一七世紀を「原理の世紀」、一八世紀を「事実の世紀」、一九世紀を「体系の世紀」そして二〇世紀を「方法の世紀」と命名している。一九世紀、すなわち体系の世紀において、歴史の認識は、カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』における「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」のように、歴史観の構築であったが、二〇世紀は方法の世紀であり、歴史家はそうした短絡性に違和感を抱き、さまざまな見方を提案する。方法論が歴史認識を体現しているのであって、それが完全で唯一の歴史ではない。長所もあれば短所もある。それを踏まえた上で、近代以降の歴史認識をキーワードによって表わすことができる。 言うまでもなく、歴史は多様であり、それに分け入っていくことに研究の醍醐味もある。そうした精緻な考察と比較にならないこのいささか大雑把な試みは「帚木(ははきぎ)」を発見するための方法である。 帚木は『源氏物語』五四帖の巻の第二帖で知られ、遠くから見れば箒を立てたように現われるが、近寄ると消えてしまう伝説の木である。近代は線形的知識の拡大化・先鋭化である。 一九世紀の学問が「体系」を志向したのに対し、二〇世紀は、言語学や文化人類学の方法論が示している通り、「方法」を追求する。近代以降、ある学問が生まれると、「それは何か」を問う本質論が始まり、次いで、メカニズムや関係を分析する実体論が展開する。しかし、今の歴史家は歴史のメカニズムを明らかにすると言うよりも、歴史の現象を記述する現象論の段階に至っている。学者は、非難するにしても、賛同するにしても、具体性ならびに細部に向ける。アカデミズムの正統とも見なせる丹念な分析研究がある一方で、研究者の方が一般よりも柔軟で、主流になるかは別にして、突飛とも思える学説を唱えている。 リアル・ワールドのほとんどの現象は非線形に属するのであり、それを理解するには線形的な手法にとどまらず、非線形に大胆に目を向ける必要がある。歴史家は自らがつくった歴史のシミュレーション・ゲームに参加、もしくはインタラアクティヴなマルチ・メディアを楽しむことができる。ジョン・コルトレーンを参考にすれば、「シーツ・オブ・ノーレッジ(Sheets of Knowledge)」もしくは「シーツ・オブ・アート(Sheets of Art)」と命名できるだろう。「敷石が地中の雑草に持ち上げられた最初の中庭にそっていくと、壊走した哨所の混乱ぶりがみえた。棚に打ち捨てられた武器、皿や、逃げろという叫びに中断された日曜の昼食がのったままの丸太の長テーブル。薄闇の中の倉庫、民生本部、請願書の中にはえたどぎつい色のかびとほの白い百合がみえた。あの請願書は、この地の非情な生よりももっとのろのろと処理されていたのだ。」(ガブリエル・ガルシア・マルケス『族長の秋』)。 歴史現象のシミュレーションをいかに自然に、かつリアルに描くかが課題となり、そのために、CGと同様、個々には分散的でありながら、全体の振る舞いを決定付けられる単純で局所的な相互作用の規則を見出さなければならない。それがキーワードである。”A man’s reach”, says Marshall McLuhan in “Understanding Media”, “must exceed his grasp or what’s metaphor?”キーワードは比喩であり、出来事全体に言及するわけではなく、セル・オートマンが次世代をつくる際の規則のように、そこに含まれる相互関係を規定する。 一九世紀に突入して以来、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェが「神は死んだ(Gott ist todt)」と宣告した状況のために、神によってではなく、自分自身によって己を説明しなければならなくなり、広告がかつてないほど力を発揮している。神はマーケッティングをしない。両世紀における広告には違いがあるとしても、そこで最も重要になるのはキャッチ・コピーである。それはキーワードとしての歴史である。歴史家は検索エンジンたらなければならない。”In the beginning was the key word”. 第三節 ヒストリカルからヒストリックへ ヨーロッパの歴史を見ると、一八世紀と一九世紀の間には大きな断絶が横たわっている。資本主義と国民国家体制が勃興し始めた一九世紀の欧州は一八世紀までの旧体制とはまったく別の世界である。近代以前を「ヒストリカル(Historical)」、近代以降を「ヒストリック(Historic)」と呼ぶべきであろう。両者を分かつ最大の出来事は産業革命である。産業革命を推進させた蒸気機関が従来のヨーロッパの風景を激変させている。 「カルノー・サイクル」で知られるニコラス・レオナール・サディ・カルノーは、『熱の動力に関する考察』において、蒸気機関が最新の資本主義国イギリスの風景を一変させた状況について次のように記述している。 すでに蒸気機関は、鉱山を動かし、船を進行させ、港や河川を浚渫し、鉄を鍛え、材木をつくり、穀物をひきつぶし、糸を紡ぎ、布を織り、いかなる重い荷をも運ぶのである。それはいずれは万能のモーターとなって、動物力や落水や気流にとって代わるにちがいない。 英国からその蒸気機関を奪ってしまえば、石炭と鉄をもまた同時に奪うことになるだろう。それは英国のすべての富の源泉をも干し、その繁栄がかかっているすべてを、亡ぼすことになり、あの巨大な力を根絶することになるであろう。英国がもっとも強力な防禦力と考えている、その海軍を破壊することでさえ、これに比べるとさほど致命的ではなかろう。 一八世紀末、イギリスは世界で初めて産業革命を経験するが、そのきっかけは森林資源の乱用によって起こった薪炭不足である。この深刻なエネルギー危機をイギリスは石炭への代替によって切り抜ける。これ以降、ジェームズ・ワットの蒸気機関などの発明を筆頭に、イノベーションを通じて製鉄・鉄道・綿工業を主とする産業の大規模な工業化へと波及していく。それは、一九二三年には、アルテュール・オネゲルの力強い傑作『機関車パシフィック二三一』を生み出すに至る。この成果により、一九世紀は「蒸気の世紀と呼ばれる。 社会的・時代的変化を人々が理解するにはイデオロギーがなければならない。言葉を使い始めて以来、人間はそうしてきている。アダム・スミスと重農主義者の思想は一九世紀を特徴づける社会および世界にもたらされた決定的な変化の物質的側面である産業革命にイデオロギー的背景を提供する。「社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある」(アダム・スミス『国富論』)。脱イデオロギーは、その意味で、いかなる時代にも絶対にありえない。 マニファクチュア期には作業所は地方に分散していたが、一九世紀のイギリスの風景は、ハードでホットな原動力である蒸気機関がそれを工場として都市に集中させることで、つくっている。新たな発明は人間の肉体的・個人的差異、水力や風力に必要な地域的自然条件の差異から生産を、かなりの程度、解放する。それは資本制生産を実質的に可能にし、貨幣経済を基盤とした生産を包括していく。ただし、一方で長年に亘って機能してきた地方的分業は崩壊し、経済圏に基づく画一化がスタートする。 「国々が造る財貨は生産費に従って交換されるものではない。生産要素の国際間の移動は難しいから、各国はその最も長ずるものを作る」(D・リカードゥ『経済学および課税の原理』)。一次産品の生産から工業製品やサービスの生産に労働力が変換された結果、かつてない大量の工業製品が生産され、輸送コストが減ったこともあって、生産効率は著しく向上している。これは科学知識を製造工程に応用しただけでなく、地方に点在する作業場を都市に集中化させたために達成されている。歴史的に文明が勢いづくと、都市が繁栄する傾向にあるが、当時のイギリスも例外ではない。産業革命は農村から都市への人口移動をもたらしている。 さらに、作業場から工場への変化は労働力も改変する。生産は、封建時代の家庭や荘園ではなく、まだ株式会社の規模ではないものの、企業で行われるようになり、仕事は次第に規格化・専門化する。工業生産は資本に大きく依存し、効率アップのために道具や機械の利用が進み、専門性もより要求される。それは、生産手段を保有または管理しているという点で、労働者と異なる新しい階級、すなわちブルジョアジーを生み出す。 ロンドンは、そのため、世界の貿易ネットワークの中心となり、この網の目を通じて工業製品の輸出が増大していく。輸出市場は繊維その他の産業にとって不可欠であって、これらの産業ではイノベーションによって急速に生産が拡大し、イギリスの輸出成長率は一七八〇年以降、驚異的な伸びを示す。輸出収入のため、製造業者は原材料を輸入する購買力を獲得し、貿易商人は国内の商業の発展を後押しする技能を習得する。大陸諸国が封建制にとどまっていた間、「栄光ある孤立(Splendid Isolation)」を選んだ国家は圧倒的な経済力を持ち続ける。 けれども、一九世紀中頃になると、徐々に、状況は変化する。フランスやベルギー、ドイツ、合衆国が独立一〇〇周年記念までに産業革命を達成し、大英帝国の絶対的な優位は崩れていく。 一八世紀末の産業革命の結果、労働者は工場や企業で雇用されるようになる。けれども、彼らは経済的搾取あるいは病気、身体障害、失業など、社会的に引き起こされる事態から保護されていない。かつてのカリブの海賊たちの方がはるかに保障制度を完備している。一九世紀初頭の一〇年間で、自由の考え方が広まり、労働条件はかなり改善している。とは言うものの、フリードリヒ・エンゲルスが一八四五年に公表した『イギリスにおける労働者階級の状態』が告発している程度であって、労働者は労働組合や協同組合を結成し始め、多様な政治活動に参加し、政治的・経済的手段によって自己防衛するようになる。 産業革命以来の二世紀の間に、分業はいっそう進み、労働はますます細分化されている。企業や工場の規模が大きくなるほど、生産の中で自らの労働が果たした役割を確認することは不可能に近くなる。酷使されて、疎外されていると労働者が感じるのはまったく正当な感覚である。 第四節 ウィーン体制と一八四八年革命 この産業革命の激震が欧米を変えていく一九世紀を象徴するウィーン体制と一八四八年革命という二つの出来事には次のような背景がある。 フランス革命とナポレオン軍はヨーロッパの地図を大きく書き換えただけでなく、「自由・平等・博愛」の理念がヨーロッパに広まる。” L'Empire, la paix”.ジャック・ルイ・ダヴィッドが愛してやまない皇帝の敗退後、各国の領土画定と体制の保障を決める目的で、二〇〇名を超える各国代表がウィーンに集い、二〇世紀にも及ぶ国家間のゲームの規則を争う会議が開催される。 今日の国際会議のような全体会議が開かれることはなく、イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアの四大国代表が大筋を決定し、フランスを含む他の参加国の了承を得るという方式で進められている。もっとも、ウィーン会議の進行は順調ではない。小国の不満を利用し、フランス代表で、ナポレオン時代の外相シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールがフランスの権益の確保を狙い、ロシア皇帝アレクサンドル一世とプロイセン首相カール・アウグスト・ハルデンベルクの強引な領土拡大要求にイギリスとオーストリア、フランスが秘密協定を結んで対抗している。Der Kongress Tanztおまけに、一五年二月にはナポレオン・ボナパルトがエルバ島を脱出し、会議は中断する。 ロシアは、ワルシャワ大公国の大部分をポーランド王国として、同君連合の形態で支配し、さらにフィンランドを自国領に組み入れる。スウェーデンは、フィンランドの代わりに、ノルウェーを同君連合の国家として確保し、デンマークは、そのノルウェーの見返りに、ホルシュタインを得る。プロイセンは全ザクセンを要求したが、北部に限定され、その代わり、フランス国境周辺のラインラントとポーランドの一部を手にする。 スイスは、州の緩やかな連合体としての連邦形成と永世中立を認められる。オーストリアはオーストリア領ネーデルラントをオランダに譲り、ドイツとイタリア半島に領土を獲得する。サルディーニャ王国はサヴォアとニース、ジェノヴァ、イギリスは、ナポレオン戦争中にスペインやオランダ、フランスからとった海外植民地と聖ヨハネ騎士団から奪ったマルタ島を得る。フランスは、皇帝が征服した領土はすべて失ったものの、ブルボン家の復活を支援するために寛大な措置がとられ、一七八九年当時の領土をほぼ維持する。 ドイツ人の世界は、対照的に、大きく変化する。ドイツ人地域は、ナポレオンに征服されるまで三〇〇余りの小領邦に分かれ、ほぼ全体が神聖ローマ帝国の名目的な支配下に置かれていたが、この会議において、四〇程度の領邦に整理された上で、新たにドイツ連邦が結成される。オーストリアが加入して盟主の地位に着いたけれども、ハプスブルク家の支配するハンガリーなどは除外され、やがて、プロイセンが大きな影響力を持つようになる。 また、イタリア半島ではベネツィアやジェノヴァなどの古い共和国が姿を消し、オーストリアやサルディーニャが支配権を行使する。他にも、この踊る会議では、国際河川の航行の自由、奴隷貿易の廃止などが決定され、単一の議定書に記されている。かつての君主の家系は復帰したが、領土の配分は四大国の都合に合わせたにすぎず、民族主義や自由主義といった新しい動きを抑制する反動的な体制である。 このウィーン体制は、フランスの二月革命まで、三〇年程続く。民族主義的な革命勢力の要求の中に、ウィーン体制に対する異議が数多く見られるように、時代の逆行以外の何ものでもない。ウィーン体制自体は一八四八年革命によって瓦解するものの、抑圧的で極端な反動化は一九世紀を通じて何度か起きている。 一八四八年革命は突然沸き起こったわけではなく、その前から用意されている。一八四五年、多雨によってイギリス本土の小麦の収穫量が激減し、アイルランドのジャガイモも胴枯病の発生で壊滅状態に陥る。大量の餓死者とアメリカへの移民によってアイルランドの人口は約四〇〇万人から半減する。 イギリス政府は、翌年、食糧自給を定めた穀物法を廃止して大陸から穀物を輸入しようとしたものの、ヨーロッパ最大の農業国であるフランスでも凶作となり、小麦の価格が高騰してしまう。これを聞きつけて、ドーバー海峡の向こう側では、四七年に小麦と小麦を運ぶための鉄道への投機が過熱するが、このバブルは、ロンドンにおいてはその年の一〇月、大陸でも翌年の三月までにはじけ、欧州は恐慌に包まれる。各地で生活苦にあえぐ民衆の政府に対する不満が表面化する。収入減に苦しむ農民やレイオフされた労働者の怒りはかつてない程高まっていく。 一八四八年から翌年にかけて、あちこちで革命が起こり、封建制の打破はしたのに、何と、帝政の強化につながってしまう。一八四八年革命は、イギリスと北欧を除く全ヨーロッパで一斉に発生し「諸民族の春」と言われたが、地域よって要求内容が異なっており、また参加した社会階層それぞれに目標が多様である。フランスにおいては普通選挙の要求と共に社会主義的な社会改革が叫ばれ、ドイツでは封建制からの脱皮と共に統一が悲願として掲げられる。イタリアの人々は、さらに外国勢力の追放をアルプスの北側の民衆の願いに加える。 また、オーストリア帝国内には、会議のホストであるクレメンス・ヴェンツェル・ネポヌク・フェルシュト・ロタール・フォン・メッテルニヒに反対する東欧各地の民族主義の勃発という複雑な内容が含まれている。万国の革命勢力の足並みがそろうことはなかったのである。この革命は、労働者運動や社会主義運動が重要な役割を果たしている点で画期的であったものの、多くの地域で商工業者や知識人はこの新しい勢力に驚愕し、保守的な勢力と妥協して穏健的な姿勢を選び取っている。一八四八年の革命運動は四九年になると、急速に分散し、秩序の再建を狙う各国君主の下で、鎮圧されてしまう。 ウィーン体制と一八四八年革命を経て、国民国家を単位とするヨーロッパが成立する。それと共に、国家は官僚制と常備軍を備えた政治的な組織として、権力と権威を強化していく。 この二つの出来事はヨーロッパを舞台にしているが、カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』が出版された年はヨーロッパにとどまらない世界中にかかわる歴史的な変化の始まりでもある。それは「ゴールド・ラッシュ(Gold Rush)」である。 第五節 ゴールド・ラッシュ 「黄金狂時代(The Gold Rush)」は先のキーワードに含まれていない。と言うのも、チャーリー・チャップリンが一九二五年に映画で描いている通り、物・人・情報の三つが国境を超えて移動し、さらに大規模な環境破壊が起こっており、二〇世紀を予告する一九世紀の「現象」だからである。金への憧れは六〇〇〇年前のブルガリアの遺跡ですでに見られている。そこから精錬した金を原料とした装飾品が出土している。 また、中世のヨーロッパでは、錬金術が大真面目に論じられ、アイザック・ニュートンに至るまで、試されている。さらに、一一世紀から一二世紀にかけて繁栄した平泉の奥州藤原氏は多くの金鉱を支配している。彼らは金箔で覆われた金色堂を建設し、豊富な金を背景に、中国と、中央政府とは別に、貿易を行っている。マルコ・ポーロが伝えた黄金の国「ジパング」の名は彼らに由来する。しかし、近代の金への情熱はそれらとは異質である。 一九世紀に生まれた新たな理想は、その矛盾を弁証法的に解決することなく、ゴールド・ラッシュが体現した想定していなかった現実によって組み替えられる。ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争は直接的に止揚されず、二〇年代の文化の担い手である大衆というまったく別の社会的な集団の出現によって、次の世紀には理念化してしまう。カール・マルクスは、一八五〇年に、ゴールド・ラッシュが太平洋航路を誘引し、大西洋を当時の地中海の地位へと貶めるだろうと予言している。その頃、太平洋の定期航路はまだなく、そこで世界が分断されている。ゴールド・ラッシュは地球をアースからグローブへ変えるというわけだ。ゴールド・ラッシュは双世紀をつないでいると同時に、両者を分かつ。 資本主義の発展は金本位制の採用が可能にし、ゴールド・ラッシュ自体が影響を与えている。金本位制をすでに採用していたイギリスは、植民地のゴールド・ラッシュの恩恵を受け、金の保存量を確保して、ポンドを発行し、さらなる経済発展につながったが、まだ金本位制を導入していないドイツやアメリカといった新興国はそれを使えない。一九世紀に至るまで、多くの国々では、グレシャムの法則に悩まされる金銀本位制もしくは銀本位制が採用されている。金本位制が世界的体制になったのは一九世紀後半である。 一八一六年にイギリスが最初に確立して以後、七一年にドイツ、七三年にアメリカ(ドルが金本位貨になるのは一九〇〇年)、九七年に日本、一九〇〇年にはほとんどの主要国が金本位制に移行している。 その世界標準化は商品生産の著しい増大と世界貿易の基礎拡大を引き起こした産業革命の結果であるが、それには先進国から途上国へ大量の資本輸出が行われている。国際金本位制の確立は、各国ともこの制度に備わっている自動調整作用を通して、三つの基本目標──国際的な商取引及び金融取引の決済の簡便さ・外国為替相場の安定の確立・国内通貨の安定の維持──が達成されると見なしたことによって促進されている。ある国の国際収支が赤字になると、為替相場が下落し、その国から海外へ金が流出する。 その場合、国内の通貨供給量、すなわちマネー・サプライがこれに応じて減少し、物価の下落を通じて輸出競争力が増大する。それにより国際収支は好転して、物価が上昇し、為替相場が安定する。この合理的なメカニズムは一九世紀という時代にふさわしい。金本位制は政経分離をもたらし、一九世紀自由主義の象徴である。資本主義社会に入会するには、金本位制の採用が条件である。 交換紙幣の発行は、産業界に、かつてないほどの投資を可能にしているが、銀行の役割も、それと共に、重要視されていく。ささやかな両替商では革命を推進できない。預金や貸付、債務保証、為替などの銀行業務の多くは、総合的にはともかく、紀元前にすでに行われており、中世になると、銀行は貸付業務だけではなく、外国為替業務にも従事するようになっいぇいる。 中でも、フィレンツェのメディチ家は地中海を中心にした国際貿易金融を支配している。一七世紀、スウェーデンのリクスバンク(一六五六)やイングランド銀行(一六九四)といった近代的銀行が設立される。近代的な銀行は、イギリスの金細工師(ゴールドスミス)をモデルにしている。彼らは金の預託を受け、所有者の求めがあれば、それを返還するようにしている。所有者によって引き出されるのは全預託額の一部だったので、金細工視は利子を得るために残りの金を利用して一時的に貸付や手形割引を始める。そのうちに、金の預り証としての金匠手形が銀行券として流通するようになり、金匠手形の流通額は実際の金の預かり額を超えていく。 この金匠の二つの特徴は、現在の銀行においても、維持されている。預金通貨の合計額が銀行準備の額を超過する特徴は産業革命の原動力の一つであると同時に、過度の信用創造はインフレの原因になってもいる。銀行の貸借のバランスシートにおける負債は銀行の資産より流動性が高い。預金の預け入れ期間は貸し付けの回収期間より短いという特徴は家計や企業、政府の財務活動を可能にする反面、金融危機を内包する。預金者による取り付け騒ぎが発生すると、流動性の停滞によって銀行は引き出しに応じられなくなる。銀行は需要ではなく、信用に基づいている。 通常の財・サービスの市場ではある企業が倒産しても、需要があれば、それを他の企業が補える。ところが、銀行の場合、預金者から預かった資金を貸付や投資などに運用していても、信用が揺らぐと、預金者が払い戻しを一斉に求め、資金が調達できなくなり、破綻してしまう。一八二五年、イギリスで世界最初の事例が起きて以来、恐慌は第一次世界大戦までほぼ一〇年の周期で発生している。 これは資本主義経済の発展に伴う過剰生産に起因する。資本主義経済では景気は絶えず変動し、好況・後退・不況・回復という一連の圧縮=開放の景気循環が出現するが、恐慌は好況期の過剰生産によって景気が急激に後退する危機的局面として発生する。好況期の活発な設備投資で生産が増大し、この過剰生産が原因で商品価格の下落や需要の減退が生じ、企業倒産や失業が増える。その結果、経済活動が停滞して信用不安が広がり、銀行に対する取り付けなどの金融恐慌に至る。 資本主義的な再生産を拡大させていくには、これまでにない投資を呼びこまなければならない。そこで金本位制が採用される。政府は金の準備高に応じて貨幣を発行できるが、それだけでは資本主義的な拡大を期待できない。実際の金の準備高以上に貨幣を発行できるのが金本位制である。金融市場・労働市場・財サービス市場のうち、金融市場は調整速度が速く、投機として、未来も取りこまれている。未来は顕在的に実体を示していなくとも、潜在的な兆候として意識される。資本主義的な拡大再生産が起動してしまえば、もはや金などという実体は必要がない。 金融市場が信用に基づいている以上、資本主義にとって、最も重要なのは、アイバン・F・ボウスキーの名声と転落が物語っているように、情報である。情報を握るメディアが経済を動かし、信用を操作できる。産業資本や金融資本の将来を情報資本が左右する。紙幣は使用価値でも、交換価値でもなく、情報価値の表象と言える。 マルクスの過まちは、お金を物だと考えたことにある。旧ソ連が崩壊したのも、唯物論信仰が強すぎて、物を売買すれば事足りると思い込んだところに原因がある。 お金とは使用価値でなく情報価値。物の売買も、半分は情報の流通である。情報は扱いが複雑、それを物のように単純に扱おうとしたから経済破綻を招いた、とぼくは推測している。 (森毅『お金こそ、もっとも重要な情報である』) 歴史的に、世界各地で、金の採掘作業には奴隷や罪人、捕虜が使われ、労働環境は劣悪であり、逃亡できないように、厳しい監視の目が光っていたが、ゴールド・ラッシュでは、事情が異なっている。フォーティナイナーズを筆頭に、自ら進んで、金持ちになるために、その労働に従事し、金を求めて情報を収集して、カリフォルニアからオーストラリア、南アフリカ、カナダに至るまで、渡り歩いている。 金採掘の知識もほとんどない素人ばかりで、その労働の過酷さも知らずにやってきている。一攫千金の夢は神の死が解放した欲望が見させている。Ad maiora!いずれのゴールド・ラッシュも、幸運な一握りの者だけが富を掴み、大部分は生きていたことが幸運だったと思えるほどの結果に終わる。金鉱の発見に伴い、大規模で急速な人口移動が起こり、それらの地域への人口集中によって町ができ、農業・商業・交通などが大きく発展するなどの現象が見られる。ゴールド・ラッシュは、ミシェル・フーコーの権力論のように、偏在し、下からくる現象にほかならない。 重金主義者の幻想はどこからくるのか?重金主義は、金額から、それらが貨幣としては社会的生産関係を、と言っても特別な社会的属性を持った自然物の形態で、表わしているということを、見てとらなかった。また、近代の経済学は、高慢に拝金主義を冷笑しているが、その呪物崇拝はそれが資本を取り扱いやいなやたちまち明白になるのではないか?地代は土地から生まれるもので社会から生まれるものではないという重農主義者の幻想が消えたのは、どれほど以前のことだろうか? (カール・マルクス『資本論』) ゴールド・ラッシュは一八四八年革命と同じ背景から生じている。当時のアメリカは欧州の恐慌が飛び火したのみならず、経済難民とも言える移民が大量に渡ってきている。恐慌がもたらすデフレにはマネー・サプライを増やさなければならないが、金本位制を採用しているなら、それには金の準備量を増加させる義務があるため、金価格が高騰する。そんなときに、西海岸での金発見のニュースが飛びこんできたのである。大量の失業者や移民と金価格の高騰というデフレ状況が人々を一攫千金に駆り立てている。 もっとも、ゴールド・ラッシュの初期は金本位制ではなく、金自体の魅力が動因となっている。一七九九年、ノースカロライナ州シャーロットのリトル・メドー・クリークで、一二歳の少年コンラッド・リードが七・七キログラムにも及ぶ金を発見する。家族の誰もが、それが金とは気づかず、ドアのストッパーとして使っている。隣人の勧めにより、父親のジョン・リードが、三年後、フェイエットビルの宝石商にそれをわずか三ドル五〇セント──当時の金の相場は三〇グラム当たり一五ドル──で売り払ってから、金が見つかったという情報が全米を駆けめぐり、さらにヨーロッパにも伝わる。この噂を聞きつけてイギリスやドイツ、ポーランドから金を求めて人々がシャーロットに渡ってきている。 ここには金鉱床が豊富にあり、運がよければ──あくまでも運がよければ──、川の水をすくったり、ちょっと穴を掘ったりするだけで、簡単に金を集めることができる。一箇所から七〇キログラムの金が見つかったケースもある。ところが、金が徐々に減り、山に登って、採掘を始める。補強もせずに山を掘るという採掘の知識も乏しかったため、落盤の危険性も高く、極めて危ない現場である。こうした光景は後に続くゴールド・ラッシュでも見られるようになる。「無からは無(de nihilo nihil)」。 一八二九年になると、ジョージア州やアラバマ州でも金鉱床が発見され、南部には一〇〇〇個所もの採掘所が生まれている。一八四八年、カリフォルニア州サッターズミルでも金が見つかり、世界中を巻きこんだ本格的なゴールド・ラッシュが始まる。 川底をさらう作業は重労働であり、従事者の健康被害も深刻である。そこで、一八四八年、アイク・ハンクリーが開発して以来、比重の違いを利用した土砂洗浄のための機械が導入される。カリフォルニアでは、二年間で地表の金は掘られてしまう。一八五一年以降、資本力がある業者がそれに取り組む。 一八五〇年代、彼らは大規模な水力採鉱を始める。川にダムを建設して、水を堰きとめ、その水力を使って金鉱を採掘したのである。しかし、泥水を処理しないまま、周辺に垂れ流したため、その水は飲料水を汚染し、農業水にもならず、環境問題をもたらしている。さすがに、一八八四年、州もこの採掘法を禁止する。 ゴールド・ラッシュは、環境問題の他にも、二〇世紀の現象をいくつかの点で先駆けている。一九世紀半ば、カリフォルニアの事件が世界中を駆けめぐったように、メディアは、ある程度、迅速かつグローバルに発達し、第四の権力に育つ片鱗を見せ始めている。さらに、交通機関が大規模化して、封建制が緩み、人の移動の自由が可能になっていないと、そこに集まれない。ゴールド・ラッシュはこうした点から二〇世紀の兆候だと見なせよう。 西半球の金鉱は、北アメリカ西部のアラスカからメキシコに至るロッキー山脈を中心とする大山脈地帯に多数存在し、一九世紀後半に次々と発見される。中でも、一八四八年からのカリフォルニアでのゴールド・ラッシュが原型だろう。また、南アメリカではブラジルでのゴールド・ラッシュがよく知られている。時期こそ他の地域とずれるが、一六九三年のミナス地方での金鉱発見によって、植民地内だけでなく、ポルトガルからも何万人という移住者が押し寄せている。東半球でも一九世紀半ば以降に起きており、オーストラリア東部はゴールド・ラッシュによって大きく発展している。さらに、南アフリカでは、ウィトウォーターズランドでの世界最大と言われる金脈発見によって沸き立っている。 一八四八年一月、カリフォルニアのサクラメント近郊のアメリカン川で、製材所を建設中の大工ジェームズ・マーシャルが砂金を発見する。この知らせはまたたく間に近郊一帯に広まり、続々と人々が金探しに押し寄せ、サンフランシスコは、そのあおりを食って、一時的にゴースト・タウンと化してしまう。まもなく、金発見の知らせに全米から一攫千金を夢みる人々がやってくる。一八四八年一二月の年次教書でジェームズ・K・ポーク大統領が金発見のニュースに触れたため、ブームにいっそうの拍車がかかる。ホーン岬周りでマゼラン海峡を通るルートやパナマまで船で行きパナマ地峡を陸路横断して海路カリフォルニアにいたるルートの他、幌馬車でロッキー山脈を越えるルートで多くの人が殺到している。また、メキシコには、中国やオーストラリアからも金の山を目指して人々が集まってくる。 カリフォルニアに金探しにやってきた人々を始め、商人、売春婦、宿屋、金融業者などは、「フォーティナイナーズ(49ers)」と呼ばれ、男女比が一二対一という圧倒的な男性社会であり、無法者や無頼漢も多かったが、カリブの海賊たちと同様、自然発生的な民主主義の支配する多数の鉱山町が建設されている。カリフォルニアの人口は一万数千人から一八四九年末に九万人、五二年までに二二万人へ増加する。金を見つけて手にしただけでは、言うまでもなく、金持ちにはなれない。カリフォルニアの場合、発見した未精製の金をウェルズ=ファーゴ社の事務所に持って行き、それを金貨と交換するのが一般的である。 会社はそれをサンフランシスコやデンバー、カーソン・シティの鋳造所に送り、精製して金貨へと変えられる。ウェルズ=ファーゴ社は現在のウェルズ=ファーゴ銀行の前身であり、一八五二年、ヘンリー・ウェルズとウィリアム・ファーゴによって設立されている。郵便・電信のサービスの提供が主な事業内容だったが、ゴールド・ラッシュに目をつけて馬車便など事業規模を拡大し、成功を収める。金貨を運ぶ駅馬車を狙う西部のならず者とそれを守るガンマンの姿を西部劇で楽しめるのも、彼らのおかげと感謝しなければならないかもしれない。一九一八年、アメリカン・レイルロード・エキスプレス社と合併し、金融部門だけが「ウェルズ=ファーゴ銀行」という名前で運営されている。 ブームは年間金産出量が頂点に達した五二年(約八一〇〇万トン)をピークに衰えたもの、その後も多くの人が農民や商人としてカリフォルニアに残留し、都市の発展に寄与している。大陸横断鉄道の太平洋岸からの建設を促し、アメリカ経済の躍進をもたらしている。カリフォルニアは一八五〇年に自由州として連邦加入を実現している。 しかし、これは奴隷制問題をめぐる南部と北部による「一八五〇年の妥協(Compromise of 1850)」の産物でもあり、南北対立に影響を及ぼしている。一九世紀後半にアメリカ西部の開拓は急速に進んだが、東部の場合とは異なり、ロッキー山脈の西部やその東部大平原での開発は罠猟師や開拓農民に先だって、鉱山開拓者や放牧業者、鉄道業者が行い、開拓の前進基地として独特の社会を築いている。特に、金の採掘者や鉱山業者は西部開発の先兵として、人の流れに弾みをつけ、それまでと逆の西から東へのフロンティア・ラインの東漸運動を促している。 一九世紀後半、カリフォルニア以外でも、ゴールド・ラッシュが西部各地で生じる。ゴールド・ラッシュは金に限らず、西部山岳地帯で、一八七〇年代にかけて起きた銀や銅、鉛、亜鉛などの鉱業ブームを指す。当初、カリフォルニアでは簡単な道具だけで川底から容易に金が採取できたが、徐々に、坑道を使った大規模な採掘が必要となり、資本と労働力を扱える資本家が中心となって、採掘が進められるようになる。そのため、牧歌的なプロスペクターは、金銀を求めて西部の山岳地帯や砂漠地帯に、噂だけで金鉱脈がないところにまで、入りこんでいく。 一八五八年、コロラドのサウスプラット川で金鉱が見つかり、デンバーを中心に、フォーティナイナーズを彷彿とさせるゴールド・ラッシュが巻き起こる。さらに、五九年にも豊かな金鉱脈が発見され、セントラル・シティという大規模な鉱山町が建設される。同じ年、ネバダのカーソン川近くでも金銀鉱脈が発見され、カムストック鉱山が開かれて、バージニア・シティを中心にカリフォルニアとの道が開かれ発展する。その中には、後に、「マーク・トウェイン(Mark Twain)」の名で知られる人物もいる。おかげで、六一年にネバダは準州となり、現在、同州内には二〇〇ものゴースト・タウンが残っている。その後、モンタナ(一八六三)、ワイオミング(一八六七)、ダコタ(一八七四)と続くが、南北戦争を境に、東部資本が金採掘に本格的に参入し、個人の採掘者は次第に賃金労働者に転落していく。 ゴールド・ラッシュは、マイケル・アプテッド監督の映画『サンダーハート(Thunder Heart)』(一九九二)で描かれたようなアメリカ先住民を現在に至るまでの屈辱的な状況に追い込んでいる。一八七四年、ダコタのブラックヒルズで金が見つかり、連邦政府はブラックヒルズ一帯に居住するスー族と協定を結び、保留地として保護を約束している。金発見後、政府はジョージ・アームストロング・カスター将軍の第七騎兵隊に警戒させていたが、白人採掘者たちが警戒線を突破して、次々と保留地内で採掘を始める。多くの採掘者がブラックヒルズに侵入して手に負えなくなると政府は、こともあろうに、土地の放棄をスー族に迫る。スー族は武力抵抗を行ったが、九〇年のウーンデッド・ニーでの虐殺を最後に力で弾圧されていく。 ジョージア州の先住民居住区でも金が発見される。アンドルー・ジャクソン大統領は一八三八年から翌年にかけてチェロキーを「涙の旅路(Trail of Tears)」へと追いやる。この強制移住の途上、アレックス・W・ピーラーの『そして名前だけが残った』によると、四人に一人が亡くなっている。「時に、涙は言葉と同じほどの重さを持つ(interdun lacremae pondera voces habent)」(プブリウス・オウェディウス『変身物語』)。 金をめぐる騒動は、国内だけでなく、アメリカとカナダの外交関係まで不安定にさせている。一八五八年、カナダ南西部のフレーザー川流域とカリブー山脈で金が発見され、サンフランシスコから鉱山採掘者たちが大挙して北上し、中心だったバーカービルは最盛期に二万五千の人口を抱えている。一八六九年にはアラスカに近いユーコン川流域で金が見つかり、九六年にはユーコン川の支流であるクロンダイク川上流のボナンザ・クリークで豊富な金が発見される。シアトルでこの話が広まると、翌年には大規模なゴールド・ラッシュが起こり、全盛期の一九〇〇年には、二二〇〇万ドル以上に相当する金がこの一帯の川から採取される。九〇年代末にノームで金鉱が発見されると、鉱山キャンプがあいついで建設される。一連の出来事のため、アメリカとカナダの間ではアラスカ方面の国境紛争が生じたものの、一九〇三年、合衆国に有利な条件で解決される。 一八五〇年代のゴールド・ラッシュは、囚人の流刑地だった「マイトシップ(Mateship)」と呼ばれるオーストラリアの社会と経済は急速に変えていく。五一年四月、ニューサウスウェールズ植民地のサマー・ヒル・クリークで、アメリカ帰りのエドワード・ハーグレイブズが金を発見する。少し前にカリフォルニアでゴールド・ラッシュが起きていたため、多くの人が金鉱探しに殺到する。イギリス人やカナダ人を始め、アメリカ人、中国人が移住し、四〇万人程度の植民地人口は一〇年後に三倍になっている。ところが、金採掘許可証をとるのに高額の手数料がかかり、金鉱を探すことも制限されていたため、一八五四年にバララトの鉱夫たちがユリーカ砦で反乱を起こしている。しかも、翌年、植民地政府は中国人を標的にして移民制限法によりヨーロッパ人以外の移民を制限して、一九七二年にエドワード・ゴフ・ホイットラム労働党内閣によって正式に撤廃されるまで続く白豪主義が始まる。パトリック・ホワイトは、『ヴォス』において、こうしたオーストラリアの「精神の白夜」を描いている。 アフリカ南部では、一八六〇年代からいくつかの金鉱脈が知られていたものの、一八八四年にウィトウォーターズランドの地表で金が発見され、八六年、本格的な採掘が始まる。イギリス人を中心に数千人の採掘者が押しかけ、ゴールド・ラッシュが始まる。トランスバール共和国政府は、この地域を国有化し、地区ごとに採掘権を認める貸区制をとったため、投機的で、野心に溢れた企業家が数多く集まる。八九年、地表深くから世界最大の金鉱脈が見つかる。イギリスはこれに目をつけ、オランダ系移民の多いトランスバール共和国の支配を画策し、ボーア戦争(一八九九─一九〇二)を経て、この地域を自国の領土化に成功する。 Howard: Oh laugh, Curtin, old boy. It's a great joke played on us by the Lord, or fate, or nature, whatever you prefer. But whoever or whatever played it certainly had a sense of humor! Ha! The gold has gone back to where we found it!... (Curtin joins Howard in boisterous laughter.) This is worth ten months of suffering and labor - this joke is! (John Huston ”The Treasure of Sierra Madre”) 第六節 金と紙幣 金が世界を変えたけれども、金本位制下、通貨の主流は紙幣である。金貨や銀貨は貴重金属としての価値を持っていたのに対して、紙幣はそれ自身は無根拠であるが、中央銀行の金準備高に保障されているにすぎず、兌換紙幣は神の死にふさわしい。蔡倫を輩出した国で、商業の宗教とも言えるイスラム教の信者が権力中枢に近い立場を得たときに、紙幣が生まれたとしても、不思議ではない。元のフビライ・ハーンは交鈔と呼ばれる紙幣を唯一の通貨として発行させている。この史上初の試みは、後に、乱発され、水とダイヤモンドの逆説の提唱者ジョン・ローの体制同様、経済が混乱に陥っている。近代はコインではなく、紙幣が主要貨幣になるが、紙幣は印刷術が発達して普及するのであり、経済におけるグーテンベルク革命の顕在化である。「書き言葉と貨幣は、ともにホット・メディアであり、前者は話し言葉を強化し、後者は社会的諸機能から仕事を切り離す」(マーシャル・マクルーハン『メディアの理解』)。 今日の金融の世界は神の死の決定不能にふさわしい。不換紙幣は神の死の決定不能そのものだろう。発行している中央銀行を抱える国ならびに地域の統治機構への国際的な信用度が規定する。信用が失われれば、預金者が預金を払い戻し、コール市場でも資金を調達できなくなる。クレジット・カードはさらに生産や消費といった実体経済が景気を引っ張っていない時代を表象している。マーシャル・マクルーハンは、ジョン・メイヤード・ケインズを「貨幣のハードウェア(金準備)から貨幣のソフト・ウェア(クレジット)への転換を考慮し損ねた偉大な経済学者」と定義しているが、これはまったく正しい。 「古典的なお金の時代は、借金をできる人はそれなりの信用があってのことだし、仕事に失敗して破産してもいくらか尊敬されるようなところがあった.今ではだれでも、簡単にカードで借金ができて、それで破産しかねない。これも一種の信用の大衆化かもしれぬが、昔人間からすれば、借金や破産するだけの器量のない人間が借金や破産しているような気がする」(森毅『カード社会のその先』)。外国為替市場が固定相場制から変動相場制に移行した相対主義は生きられたチャールズ・サンダース・パースの記号論である。表象は対象との関係を持ち、それはまた解釈項との関係を伴う。すべては無でさえない。 ぼくは、倍率が一目でわかる対数目盛をもっと普及してほしいとつねづね思っている。加減だけでお金を扱うのはある意味で物の意識である。一〇円なら一〇円として、物としての価値を認めているから、差額を重視する。 ところが、現実には、一定の金額に絶対的価値があるわけではない。為替変動を例にとれば、一ドルイコール二二〇円が二〇〇円になったのと、一二〇円が一〇〇円になったのでは、同じ二〇円の円高でも日本経済に与える打撃は大きく異なる。(略)為替変動にしても、物価の上昇にしても、関係性のなかでとらえて初めて実態が把握できる。 二〇円には二〇円の価値があるというのはフィクションではないか。このフィクションによって日本人の平等幻想も支えられているような気がしている。 ぼくは、物質的なお金のとらえ方はもう時代に適合していないと思う。対数目盛を普及させたい。 (森毅『万人が騙される近似値のトリック』) 第一次世界大戦後から金本位制は解体し、アメリカ合衆国の通貨にすぎないドルが基軸通貨になっていく。第一次世界大戦の勃発によって、関係国の間で金本位制の機能が一時期停止し、戦争中、債務国だったアメリカは、ヨーロッパ経済の破綻により、世界最大の債権国へと伸し上がる。必要な物資や娯楽を生産する能力が欧州にはない。ヨーロッパで行き場を失った資本にとって、アメリカ市場は格好の投資先である。戦後、制度の内容は変化したものの、ドイツを除いて各国が金本位制に復帰し、この再建された金本位制は大恐慌後もしばらく継続する。 金本位制の利点は、それが維持できないと政府が判断した場合、回復できるまでの間、世界的な金本位制のネットワークから離脱できることである。だが、イギリスと日本は一九三一年、アメリカは三三年に、最後にフランスが三七年にこの制度を停止する。この間、各国は平価の切り下げによる輸出促進政策を展開したが、結局、その効果は他国の金本位制離脱によって相殺されてしまう。フランクリン・ルーズベルトは、平価の切り下げを最初に実施し、三三年四月、彼の大統領就任直後に修正金地金本位制へと移行する。この制度下、法律により金貨流通は禁止されたものの、金は依然としてドル価値を表示するのに用いられ、一ドルは三五分の一オンスの金量と等価であると規定されている。ドルを意味する$は紀元前二世紀頃から地中海で広く流通した金貨ソリドゥス(Solidus)に由来する以上、ドル本位がヴァーチャルな金本位と言えなくもない。 第二次世界大戦後は豊富な金準備に裏づけられたアメリカだけが固定相場で金とドルの交換性を保証する国際通貨基金(IMF)体制が創設され、その意味では戦後の新しい制度は基軸通貨として機能するドル中心の金為替本位制である。この体制も、やがてアメリカの慢性的な国際収支の悪化からドル危機に及ぶと、六八年には金の二重価格制、七一年にはリチャード・ニクソンの声明によって金とドルの交換停止に至り、崩壊する。戦後一貫して続いてきたIMF体制の終焉である。 七三年、一ドルは三八分の一オンスの金量から四二・二二分の一オンスの金量に切り下げられ、これに対抗して各国は変動為替相場制に移行する。国際通貨制度における金の役割は、七五年、合衆国政府が金を国際通貨ではなく、商品と見なし、その保有額の一部を市場で売却したことでさらに減少する。七八年には合衆国議会は、IMFと共同で国際通貨制度において金本位から正式に離脱することを承認している。 金本位制の崩壊は合衆国の愚策の帰結と見るべきではない。金本位にとどまっていては、資本主義の拡張は望めない。一八七五年に結成されたアメリカのグリーンバック党は、不換紙幣の発行を主張し、インフレーションを希望している。一八八〇年代に消滅した彼らの夢は一世紀を経て実現したというわけだ。事実上、一九二〇年代以降、世界経済はドル本位であったが、名目上、金本位が守られていたにすぎない。今日、記念金貨発行されるものの、主要国の通貨も金とは兌換されず、金の通貨としての機能は停止したままである。 第七節 二〇世紀の到来 金本位制はヨーロッパを世界舞台の主役にしたけれども、それによって発達した産業・科学技術は自分たちに破滅をもたらしてしまう。そのため、合衆国の経済は、第一次世界大戦中から戦後にかけて、「最短の歩み(Brevi manu)」で驚異的に拡大する。大戦中に連合国が使用した全火薬のうち、四割が合衆国のデュポン社製であり、当時、同社は二億五〇〇〇万ドルの利益を計上している。 荒廃したヨーロッパに向けられていた資本は大西洋の対岸に投資され、ウォール・ストリートを始め、合衆国の産業界は活気づく。しかも、合衆国は連合国に総額一〇三億ドルの政府貸付を行っており、戦前には政府・民間貸付を合わせて債務国だったが、戦争をきっかけに、世界最大の債権国へと変貌する。GNPは一九二一年の六九六億ドルから、二九年にはその一・六倍に当たる一〇三九億ドルまで増加し、経済成長率は年率九%にも達している。「富それ自身の成長とともに、富への愛は成長する(crescit amor nummi, quantum ipsa pecunia crevit)」(テキムス・ユニウス・ユウェナリス『サトゥラエ』)。 ウォーレン・G・ハーディングは英語としてはいささか奇妙な「常態への復帰(Back to Normalcy)」を掲げて、一九二一年、大統領に就任したが、二〇年代の合衆国は異常過熱とも言えるほどの経済的な繁栄を享受している。この共和党政権の一〇年間、工業生産のみならず、金融も含めて世界経済の中心がイギリスから合衆国に移動していく。このとき、イギリスの世紀だった一九世紀が幕を閉じ、アメリカの世紀である二〇世紀のフィルムが回り始めたのである。“Great Britain and the United States are two nations separated by a common language”(George Bernard Shaw). 一九二〇年代、「ローリング・トウェンティーズ」と呼ばれる大衆文化が同時代的に世界中で沸き起こる。彼らは禁酒法に代表されるピューリタニズムやヴィクトリア朝の狭量さといった因習の打破を唱え、モダニズムを筆頭に、挑戦的で多様な芸術活動が生まれる。それは、「運動」と自称していたものの、ニューヨークやパリ、ロンドン、ベルリン、東京、上海など世界各地の都市で同時代的な最初の芸術の「現象」である。この社会にふさわしい新たな耐久消費財産業が経済発展を牽引している。中でも、家電産業と自動車産業は大きな市場を拡大する。トーマス・エジソンが蓄音機やラジオ、電気掃除機など魅力的な製品を発売し、ヘンリー・フォードは大量生産方式でT型フォードを生産し続ける。電機とモータリゼーションはこの禁酒法の時代を表象するだけでなく、二〇世紀全体で支配的な生活様式である。 一九二〇年代までにリーディング産業が繊維産業から重化学工業に移行していたが、この産業はアルフレッド・マーシャルの言う「規模の経済」、すなわち規模拡大による生産効率の上昇が機能するため、ジョン・メイヤード・ケインズが指摘している通り、残念ながら、セーの法則が効力を発揮しない。ヨーゼフ・アロイス・シュンペーターは長期循環として五〇年周期のコンドラチェフ循環を援用している。産業革命以降、繊維産業から重化学工業、自動車・家電産業へとリーディング産業が変遷し、二〇年代に見られた景気循環は約五〇年周期の技術革新に起因するというわけだ。供給が需要をつくるのではなく、供給は需要に従う。需要を生み出さなければならない。大量生産=大量消費の大衆社会はこのようにして発展する。 ところが、「新時代」の合衆国経済は、かつてのイギリスと違い、国内の生産・市場の自己充足性が高く、チャールズ・P・キンドルバーガーが『大不況下の世界──一九二九─一九三九』において指摘している通り、国際的な責任をまったく果たしていない。債権国でありながら、議会が共和党政権の高関税政策を承認した結果、輸入の対GNP比率は五%にも満たない状態が続く。合衆国に対する貿易収支は慢性的に赤字となり、ヨーロッパ諸国の債務の支払いもスムーズに進まない。結局、一九三二年、各国は戦債の支払いを一方的に停止する。合衆国が唯一スーパー・エコノミック・パワーを持ちながら、自己充足性が強かったため、世界は深刻な国際的な経済の不均衡を抱えてしまう。一九二九年一〇月、とうとうニューヨーク株式市場は自己組織的臨海状態に達する。一九三〇年代の暗黒はこうして用意されたのである。 一九二〇年代、全米中が好況に浮かれていたわけではない。リーディング産業が変わったため、伝統的な産業がゆっくりと衰退し始める。鉄道貨物はトラック輸送、石炭産業は石油・電力産業、綿工業は合成繊維産業に主役の座を奪われる。また、農業は好景気に沸く間でさえ不況にあえいでいる。 一九二九年、一人当たりの所得は全国平均が六八一ドルに対して、農業従事者の所得は二七三ドルである。第一次世界大戦後、ヨーロッパの農業が復興し、合衆国の農産物は在庫を抱えるようになり、価格が下落する。輸入農産物への高関税を課す保護政策は一九二七年と翌年連邦議会を通過したものの、カルヴィン・クーリッジ大統領が、ありがたいことに、二度とも拒否権を行使する。工場労働者にしても、賃金は、二〇年代を通じて、一一%しか上昇していない。職能別組合から脱却できないアメリカ労働総同盟(AFL)は労使交渉ではつねに不利になり、失望した組合員は組織から離れていく。一九二〇年に五〇〇万人だった組合員数は、二七年には四〇〇万弱にまで減っている。そういった動きを見て、福利政策を通じて会社側に組織化するほうが有利だと考えた企業側は会社組合を結成する。二八年の統計では、一五〇万人が所属している。農民や労働者には、黄金どころか、ジョン・スタインベックが『怒りの葡萄』で弾劾する闇の時代がすでに始まっている。 経済的な繁栄は中間層を増加させたにもかかわらず、彼らは保守的な政治を選択してしまう。経済は成長しても、不況の拡大に対する連邦レベルの方策がまったく用意されていない。「アメリカのビジネスはビジネスである(The business of America is business)」で知られる第三〇代大統領の減税政策は貧富の格差を拡大させただけで、労働・社会立法が未整備だったため、次第に、労働者の賃金は伸び悩み、購買力が低下する。消費依存の経済体制は、購買力が不足すると、不安定化に向かう。 資本主義は生産ではなく、消費に依存した体制である。「有閑階級の紳士であるとの世評を得ようとするなら、高価な品物をこれ見よがしに消費すればよい」(T・B・ヴェブレン『有閑階級の理論』)。それ以前、消費できないほどの生産力を持った経済体制は存在しない。生産者は、資本主義下では、商品を消費させなければならない。二〇年代のアメリカはいくら消費しても、国内消費者の購買力の拡充化に努めなかったため、過熱した投資が臨界状態を迎えたとき、なだれ現象を起こして、経済は破綻してしまう。大量生産方式は、不況に陥った場合、急激な生産調整を招き、生産は下降し、金融機関を動揺させる。唯一の大国アメリカの経済不況は、一国にとどまらず、世界中に飛び火する。「大恐慌」は史上最初の経済における世界的なカオス現象である。生産=労働の世紀から消費=失業の世紀に突入したことを世界は思い知ったのである。 メディアを含めて専門家は、しばしば、ヒポクラテスの誓いを破りながら、何かをしているのだと錯覚するようなドラッグ症状を起こしてしまう。二〇世紀の大半、資本主義は戦争や革命、ファッショ、不況によって打ちのめされ続けている。世界恐慌は、資本主義が経験した最も過酷な経済的変動である。その絶望感にはロバート・E・シャーウッドが『化石の森』で描いた不思議なコンビネーションがある。ケインズ革命と呼ばれる大恐慌からの回復は「ニュー・ディール」という経済的実験よりも、実際には、軍需関連産業の大量生産=大量消費が可能にしている。ジョン・メイナード・ケインズは未来に振り回される金融経済に対し、実体経済が未来を先取らせるという大胆な提言をしている。 「どのような知的影響からも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である」(J・M・ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』)。第二次世界大戦後の二五年間、ケインズ学派の思想と資本主義の伝統的形態との混合は驚くべき成功を収める。資本主義諸国は、敗戦国も含めてほとんど高い経済成長と低いインフレ率、生活水準の向上を享受する。しかし、一九七〇年代後半まで失業問題は多くの国で影を潜めていたが、失業率が徐々に上昇していく。ドル・ショックとオイル・ショックがさらに追い討ちをかける。社会福祉への財政支出は増加し続け、多くの国々で、こうした支出が政府支出の大部分を占めるようになる。八〇年代に入ると、欧米諸国では急速に失業率が上昇する。特に、現在のEU諸国全体では、八五年に一〇%を超え、九五年三月には一一%に達している。しかも、一年以上の長期失業者の割合と二五歳未満の若年労働者の失業率が高く、三〇年代の悪夢を思い起こさせるように、彼らの中からネオナチの支持者を多数生んでいる。失業の恐怖は依然として最も人々を脅している社会問題であり。二〇世紀は失業の世紀というレッテルから逃れられない。 いまから百年後に わたしの詩の葉を 心をこめて読んでくれる人 君はだれか─ いまから百年後に? 早春の今朝の喜びの 仄かな香りを、 今日のあの花々を、鳥たちのあの唄を、 今日のあの深紅の輝きを、わたしは 心の愛をみなぎらせ 君のもとに 届けることができるだろうか─ いまから百年後に。 それでも、ひととき 君は南の扉を開いて 窓辺に座り、 遙か地平の彼方を見つめ、物思いにふけりながら 心に思いうかべようとする─ 百年前の とある日に ときめく歓喜のひろがりが、天のいずこよりか漂い来て 世界の心臓にふれた日のことを─ いっさいの束縛から解き放たれた 奔放で うきうきした 若やいだ早春の日のことを─ 羽ばたく翼に 花粉の香りをいっぱいのせた 南の風が にわかに 吹き寄せ 青春の色調で 大地を紅く染めたのを─ 昔の時代から百年前に。 その日、生命たぎらせ、心に歌をみなぎらせて なんと詩人は目覚めていたことか、 どんなにか愛をこめ どんなにか多くの言葉を 花のように咲かせたがっていたことか! 百年前の とある日に いまから百年後に 君の家で、歌って聞かせる新しい詩人は誰か? 今日の春の歓喜の挨拶を、わたしは その人に送る。 わたしの春の歌が、しばし君の春の日に こだましますように。 君の心臓の鼓動のなかに、若い蜂たちのうなりのなかに、 そして、木の葉のざわめきのなかにも、こだましますように。 いまから百年後に。 (ラビンドラナート・タゴール『百年後』) つづく |