第二節 民主主義と自由主義
湛山の普選運動は民主主義(当時は民衆主義)と自由主義への理解に基づいている。彼の『経済界と民衆主義』(1914年4月25日号社説)によると、「民衆主義は、人類が最新に発明したる生活法」である。近代において、経済的・文学的・道徳的側面はいずれも「民衆化」している以上、「民衆主義」は「吾人の生活を豊富にし、清新にし、福利を増進する手段」にほかならない。この民衆主義は、『選挙権拡張の要義』(同年7月15日号社説)によれば、「一切の責任を民衆自らに負わす主義」であって、「人類が過去数千年の経験の結果生産せし最も実用的にして而して最も偉大なる思想」である。
この実現には、自由主義的な政策が必要であると湛山は付け加えている。同年5月5日号社説『断固として自由主義の政策を執る可し』において、次の五つの政策を提言する。第一に、衆議院議員選挙法を改正し、(被)選挙権の範囲を拡大する。第二に、税制改革を断行して貧富の格差を是正し、産業における保護主義を撤廃する。第三は立憲主義に則り、思想言論の自由を保障し、治安警察法や新聞紙法などを廃止ないし改正を行う。第四、内閣の官制を改訂し、陸海軍大臣を軍人に限るとした規定を変え、文民統制を徹底する。第五、高等文官や司法官、弁護士、教員などの試験委員の制度を変更して学閥の弊害を取り除き、志望者に機会均等を提供する。以上は、権力の突出を抑止して、個人の自由と機会均等を保障するための政策と要約できよう。
湛山は、民主主義と自由主義が違う思想であるけれども、前者のよりよい実現化には後者が欠かせないと訴えている。確かに、民主主義と自由主義は別の概念であり、その起源も目的も異なっている。いずれも多義的であるけれども、前者は政治参加と権力分有、後者は公私の領域を区別し、個人の自由の尊重と権力抑止の思想である。その一方で、民主主義と自由主義は現代における政治の正当性を保証するのであり、両者の調停は極めて重要な課題である。
民主主義、すなわちデモクラシーはギリシア語の「δήμος: demos(民衆)」と「κράτος: kratia(支配)」を結合した単語である。現在の民主政の原型は、よく古代ギリシアのアテナイに求められる。けれども、アテナイの市民は選挙を民主政とは思ってはいない。それは、彼らにすれば、貴族政に属する制度である。選挙は権力の集中化・独占化・長期化を招き、腐敗の温床と見なしている。その弊害から民主主義を守るために、成人男性の市民が全員参加できる民会と陶片追放が採用されている。彼らは輪番制こそが民主政だと信じている。これは、軍事を除くすべての役職を抽選で選び、短期間の任期で持ちまわる制度である。抽選は人知を超えた神の意思の反映だというわけだ。なお、将軍職も、戦勝などにより熱狂的な市民からの支持が生まれてしまうことを防ぐために、任期は短期間である。
カール・ポパーなど近代民主主義を擁護するために、プラトンを糾弾する論考がしばしば見られる。しかし、プラトンが批判していたのはこうしたアテナイの民主政であり、それを無視するとしたら、あまりにも乱暴であろう。
今日の議会制民主主義は、選挙制度がそうであったように、むしろ、貴族政にその起源を持っている。近代議会の原型はヨーロッパ中世の身分制議会に遡れる。これは国王による権力濫用を防ぐために、貴族階級と市民階級の代表から構成された合議の場である。当時は慣習法が支配的であり、議会は今のような立法機関ではない。国王に助言・同意を与え、権力行使の容認・制限する役割を果たしている。特に、課税と開戦の決定に関して議会は国王の独断を厳しくチェックしている。
この制度は政治参加と言うよりも、権力の分立と均衡の方に重点が置かれている。それは共和制ローマの共和主義にすでに見られる発想である。紀元前2世紀に活躍した歴史家ポリュビオスは、『歴史』において、ローマの共和主義を君主政(一人による支配)・貴族政(少数による支配)・民主政(多数による支配)の混合政体であると指摘している。執政官・元老・護民官という三つ政治主体が相互に牽制し、その権力均衡により政治的安定がもたらされる。当時、公的利益の実現が善政であって、私的利益の追求は政治腐敗につながるというのが通念とされている。共和制ローマの崩壊以後、欧州では君主政が一般的であったけれども、権力の分立と均衡の考えは中世でも模索される。
その後、ルネサンス期のイタリア都市国家において共和主義は理想として復活する。ニコロ・マキャベリは、『ローマ史論』(1531)において、ローマの政体を考察し、権力分立だけでなく、いかに市民を政治に参加させていくべきかを論じている。市民を政治参加させた方が国運をわがこととして考えるため、自己犠牲を厭わず、傭兵とは比較にならないほどの破壊力を戦争で見せる強力な国家をつくりあげられると予想している。この不吉な予言はナポレオン戦争において的中してしまう。
17世紀英国にこの共和主義思想が流入し、国王・貴族院・庶民院からなる「古来の国制(Ancient Constitution)」論の正当化に援用され、18世紀に入ると、シャルル・ド・モンテスキューがイギリスの政体を模範と定式化する。彼は、『法の精神』(1748)において、混合政体論を再検討し、近代的な権力分立論ならびに政治機構論へと発展させる。立法・行政・司法の三権分立論は、半世紀も経たないうちに、アメリカ合衆国憲法に影響を与え、明文的な制度として実現される。
それと平行して、そもそも権力の正当性を決めるのは誰かという問いが社会契約論者から提起される。トマス・ホッブズは、『レヴァイアサン』(1651)において、すべての人間が自由で平等である自然状態を想定し、絶対主義国家形成の議論を展開している。自然状態では、万人の万人に対する戦争に陥ってしまい、それを解決するために、人々は自然権を王に委譲する。他方、ジョン・ロックは、『市民政府二論』(1589)において、所有権の保護という自己利益の実現する目的で、自然権を政府に信託しているだけだと主張している。その上で、政府がこの契約を反故にした場合、人々はそれを覆す抵抗権を有していると付加する。さらに、ジャン=ジャック・ルソーは、『社会契約論』(1762)の中で、人民と国家の一体化を推し進める。彼は、間接民主制を投票の間だけの民主主義として否定し、アテナイの直接民主制を復権させる。統治者と被統治者の一致によって、個々人の意志や利害を超えた公共の利益を追求する「一般意志」を形成し、理想的な国家が誕生すると論じている。国家の権力の正当性は、社会契約説によれば、人々が最終的に判定するということになる。
この思想はアメリカ独立戦争およびフランス革命など近代の市民革命の理念の核心に据えられる。エドマンド・バークなどからフランス革命の急進主義対する批判が提示されるけれども、ジェレミー・ベンサムは国民全体の「功利」を政治判断の基準とすべきだとして「最大多数の最大幸福」というテーゼで国民主権を擁護する。彼はすべての個人の克服拡大こそが政治の目標であり、普通選挙や秘密投票、平等選挙区、一年議会、政治機構の近代化、近代にふさわしい専門家の人材育成などの政治改革を提言している。
当時のイギリスでは主権は国民ではなく、議会にあるという考えが支配的である。1688年の名誉革命以降、議会が最高の立法機関として機能している。しかし、代議員は身分制に基づき、その資格を財産や家柄とし、地域社会の有力者である「名望政治家」が議会に集っている。けれども、19世紀中頃から、産業革命による社会構造の変化ならびに民衆レベルでの教育水準の向上などを背景に、参政権の拡大を中心とした議会制度改革が重要な政治課題として盛り上がる。ベンサムら功利主義者はその運動推進において主要な勢力の一つである。
とは言うものの、思想としてはともかく、民主主義は19世紀に入るまで否定的な意味で用いられている。ベンサムも「急進派」であって、民主主義者とは呼ばれていない。民主主義は衆愚政治と同義であり、民衆の暴政と蔑まされている。民主主義が好ましい意味で使われるようになったのは、1829年に、合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソンが就任して以降のことである。「普通人(Common Man)」を自称した彼は、参政権を大幅に拡大し、さらに、政権を握った党が公職の任免を支配する猟官制度を導入している。こうした政策により、その政治は「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ばれている。現在のアメリカの民主党はジャクソンを領袖として結成された「民主共和党(Democratic-Republican Party)」の流れを汲んでいる。
このように、民主主義が名実共には近代的な政治の正当性を保障する制度と認められるようになったのは、19世紀半ばすぎの欧米からである。
一方、自由主義、すなわちリベラリズムはラテン語の「libertas(自由)」に由来する古代ローマにおいて、自由はあくまで身分制に基づいている。貴族の自由は政治を直接的に行い、単独的・長期的な権力に反対し、元老院を尊重させることである。他方、平民の自由は護民官の拒否権を行使して、民会の機能を高め、土地の分配を有利には株ことを意味している。自由は自分が所属する身分の政治的発言権と経済的利益の確保である。
しかし、今日の自由主義は個人主義に立脚しており、その発端は近代に入ってからである。1920年代、絶対主義を固持しようとするスペインの王党派に対抗する立憲主義者が「リベラレス(Loberales)」と呼ばれている。これが近代的な政治主義として自由主義が用いられた初めてのケースである。
自由主義は政治的自由主義と経済的自由主義に大別できるが、この立憲主義は前者の代表である。これは「法の支配」とも言い換えられる。為政者の恣意的な意志による支配ではなく、その権力者自身も拘束する一般的な法を基盤として政治を行い、被支配者の自由を保障する。
元々は、17世紀の革命期に、英国の議会派が王党派に対して主張した権力抑止論であるが、ジョン・ロックは、フーゴー・グロティウスらの自然法概念を援用して、人間一般に拡大する。彼は、自然状態において、自由で平等な各人に生命や身体、財産を内実とする自然権を持っていたと述べる。人は労働を通じて獲得した財産の私的な所有を認められる。しかし、何かあったときに公正な立場で裁定を下せる者がそこにはいない。自然権保全のために、全員が同意して政治社会を形成し、政府にそれを信託する。このようにして誕生した政府は個人の自由を守るための機関であって、それを脅かすなどあるまじき行為である。
各個人の私的所有権が不可侵の権利であるとすれば、私的領域が国家による公的領域に先行して存在しているということになる。公私が区別され、私的領域は何人によっても侵害されてはならない。国家が所有権を侵した場合、契約違反と見なし、人々はそれに抵抗する権利を有している。
ロックも、個人への国家による干渉を防止するために、三権分立論を唱えていたが、それをより精緻にしたのがモンテスキューの理論である。彼は権力は権力によってのみ抑制できると考えている。行政・立法・司法を分立させ、お互いに牽制することで市民の自由の保全を図る。政治的自由は「各人が自己の安全についてもつ確信から生じる精神の静穏である」(『法の精神』)。圧政には恐怖がある。善政はそれを取り除かなければ実現しない。彼は、そのため、財産権の保障と共に、公正な裁判の必要性を訴える。犯罪に見合っただけの刑罰や拷問の禁止は市民による自由な統治には欠かせない。
国家権力による干渉の制限にとどまらず、それ自体の撤廃を唱える経済的自由主義が出現する。18世紀、「スコットランド啓蒙」と呼ばれる思想家たちは、資本主義の発達を背景に、主に経済的な社会分析を通じて、繁栄のためには、自由な経済活動が不可欠であると主張する。従来、富国には国家による(植民地の囲い込みや外国製品に対する高関税など)保護が欠かせないと考えられていたが、アダム・スミスは、『諸国民の富』(1776)において、それに異論を発する。こうした政策は特定商人や貴族の既得権益を守っているだけで、富の増進と公正な配分を阻害している。経済活動は分業による効率化によって発展しているのであり、各人の自由な利益追求が社会全体を潤すのだから、政府はそれに干渉すべきではない。政府によらずとも、市場は「神の見えざる手」に導かれるが如く、価格を需給のバランスによって適正に自動調節し、財を公正に人々へ配分するこれは国際関係でも同様である。保護主義ではなく、自由貿易が人々の利益追求の欲望を刺激し、結果として国家を富ませる。自由放任にしておけば、市民は自主的に秩序を形成する。政府の役割は安全保障や司法、インフラ整備など民間企業では提供しにくい事業を行うことだけである。
自由な経済活動には市民の公正な情報入手・交換が不可欠である以上、言論の自由や結社の自由、移動の自由など自由が保障されていなければならない。経済的自由主義は経済敵領域だけでなく、政治・社会領域にも拡大せざるをえない。
自由主義は個人を脅かす恐怖からの制約を取り除いて発展している。マグナ・カルタの頃であれば、その対象は国王であり、啓蒙時代には国家である。この過程において自由主義は民主主義思想とも関連してきたが、それを一つの体系に統合する思想家が登場する。
その知の巨人がジョン・スチュアート・ミルである。この驚異のオール・ラウンダーは古典的自由主義・民主主義思想のチャンピオンと言って過言ではない。政治的自由主義と経済的自由主義を融合させ、さらに民主主義を結びつけ、近代的な代議政治の思想を構築する。この形成の際に、アレクシス・ド・トクヴィルの意見を受け、彼は自由の脅威として国家権力だけでなく、潜在的には社会自体もそうなりうると指摘する。トクヴィルは、19世紀初頭、アメリカの民主主義の進展を眼にし、人々の平等化は歴史の流れであると認識するが、その一方で、民主化が「多数者の専制」という危険性がつきまとっていることを警告している。ミルも、自由で平等な社会実現の道筋で、多数派による少数派の圧迫や世論による個性的意見の抑圧といった「凡庸性」の強制という望ましくない事態が訪れるのではないかと危惧する。
自由主義が民主主義と最も重なり合うのは、これまでの議論から明らかなように、権力の分有である。逆に、自由主義が民主主義と衝突するのは多数派による横暴である。実際、後にカール・シュミットやマルティン・ハイデガーのような国家社会主義を支持した思想家は、ナチズムには自由主義はないが、民主主義があると主張している。
ミルは、自由で平等な社会実現には、民主主義に対して自由主義を優先させるように説く。市民の広範囲な政治参加は自由の発展が促されるのは確かであるとしても、世論の横暴それを台無しにしかねない恐れがある。参政権による全面的な市民の政治参加は、十分に教化された後に、実施すべきである。数にものを言わせて居丈高に居直り、少数意見を尊重しないという事態は何としても避けねばならない。そのやめ、彼は知的エリート層に一般民衆よりも多くの投票権を認める複数投票制を提案する。
ミルは、各人が自己統治に努めることで幸福が実現され、それが世界全体の幸福の達成につながると考える。自己開発の要件を保障するため、すべての人には不可侵の私的領域が認められていなければならない。幸福追求の際、行為を判断するのは最終的に各人であるから、他人に危害が及ばない限り、それは保障される。これは「危害原理」と呼ばれる。言うまでもなく、何をもって「危害」とするかなど曖昧な点もあり、反論をさしはさむこともできよう。けれども、表現の自由や思想信条の自由が広がれば、議論の幅や厚みもでき、コミュニケーションが発達する。また、危害原理は所有権だけでなく、プライバシー権といった後に人格権と呼ばれる権利が基本的人権に含められる道を開いている。
このような歴史を考慮すると、護憲運動に参加していたものの、湛山はその主張を踏み越えていたことは明らかだろう。護憲運動が素朴な立憲主義を要求していたのに対し、1914年の湛山はベンサムやスコットランド啓蒙の民主主義・自由主義に立脚する政策を提言している。しかし、湛山はそこで立ちどまらない。その翌年の1915年7月25日号「持論」として発表した『代議政治の論理』において、彼は、J・S・ミルの思想を議論の出発点として、代議政治に関する根本的な考察を展開する。民主主義と自由主義の相克や直接民主制と間接民主制の検討をした上で、大胆にも、国民主権にまで突き進んでいく。
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