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長期連載
Democratic Vista

第一章 百年戦争

 佐藤清文
Seibun Satow

2007年11月1日

Copy Right and Credit 佐藤清文著 石橋湛山
初出:独立系メディア E-wave Tokyo、2007年10月16日
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第一章 百年戦争

第一節 『百年戦争の予想』の背景

 石橋湛山は、194175日・12日・19日号の東洋経済新報において、『百年戦争の予想』と題された論説を連載する。従来、石橋湛山を論じる際に、『大日本主義の幻想』や『更正日本の針路』がよくとりあげられ、この作品をめぐる読解は限定的である。けれども、『百年戦争の予想』は、その質量共に、それらに引けをとらない。湛山のテキストは、通常、具体的な出来事や事件、政策についての批評であるが、これは、そういった記述も見られるものの、むしろ、近代を論じた原理的な作品である。

 言うまでもなく、この作品にしても、特定の時代的・社会的背景の下で、生まれたことは確かであり、それを振り返る必要がある、特に、当時の国内外の情勢は、1941128日の出来事からも明らかなように、極めて緊迫している。

 19407月、ナチスやファシストを模倣した国民組織を結成しようとする新体制運動を背景として、その中心人物である近衛文麿を首相に就任する。第二次近衛内閣は「基本国策綱要」を決定し、その運動を促進していく。国内では、政党を解散して、大政翼賛会を組織、労働組合・労働団体も解体し、大日本産業報国会を結成させる。さらに、総合計画経済機構を確立し、配給制・切符制などを実施して、価格・賃金・生産・労働を統制する。泥沼化した日中戦争を遂行するために、国家総動員体制を強化している。国外では、日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結し、ユーラシア大陸を横断する日独伊ソの連携によってABCD包囲網に対抗する構想を志向する。

 しかし、近衛内閣の構想はあっさりと根本から覆されてしまう。18407月から始まり、翌年5月まで断続的に続けられた英独戦争、すなわちバトル・オブ・ブリテンはドイツの敗北に終わる。19416月には、突然、ドイツがソ連に奇襲攻撃を仕掛ける。しかも、イギリスに経済支援を行う中立国アメリカが、すでに事実上そうしているとしても、連合国側に立って参戦すると噂されている。

 その上、仏領インドシナへの進駐をめぐり、日米関係が決定的に悪化する。19417月、第三次近衛内閣が成立する。しかし、これまでが示している通り、近衛内閣にはリアルな国際情勢の分析・対応能力に乏しく、自分の願望に基づいて事態を判断する傾向が顕著であり、状況は悪化の一途をたどる。10月、日米交渉に失敗した近衛は政権を放り出し、代わって、対米戦争を辞さない考えの東条英機陸相が首相に就任する。

 この近衛文麿は、元々、国家主義的傾向が強い人物で、そのイデオロギーに沿って政治的主張を発している。1919年、パリ講和会議に全権西園寺公望に随行した際、その成り行きによって前年に発表した『英米本位の平和主義を排す』を正当化する。

 19376月、近衛文麿は挙国一致を目指して組閣する。近衛の人気は民衆レベルでも圧倒的だったが、政権を担当するには未熟かつひ弱であることがすぐに明らかとなる。7月、日中戦争が勃発し、不拡大方針をとっていたものの、事態は逆に進む。しかし、近衛は和平交渉に失敗、381月、「国民政府を対手とせず」で知られる声明を発表して、国民党政府との和平の道を閉ざしてしまう。3811月、近衛首相は泥沼化した日中戦争の目的を「東亜新秩序」とする声明を発表する。この第二次近衛声明は、後に「大東亜共栄圏」構想へと発展する。12月、近衛内閣は中国和平の基本方針を善隣友好・共同防共・経済提携の三原則と示す。

 近衛の東亜新秩序建設・新体制運動は、彼のブレーンである後藤隆之助を中心とする学者・官僚による昭和研究会の提唱するイデオロギーである。それは、1942年に出現する「大東亜共栄圏」および「近代の超克」へと発展している。東亜新秩序は「民族自決(Self-determination)」に代わる原理として提示されたものの、対抗できるほどのものではない。

 19181月、第一次世界大戦終決にあたって、ウッドロー・ウィルソン合衆国大統領は「14か条の平和原則(14 Points)」を提唱する。民族自決は、秘密外交の廃止や海洋の自由、関税障壁の撤廃、軍備縮小、国際平和機構の設立、植民地問題の公正解決などと並んでそれに含まれている。これらはパリ講和会議におけるアメリカの主張に反映している。

 昭和研究会のイデオロギーは大正デモクラシーの批判にすぎない。しかも、大正デモクラシーは自由民権運動につながる近代日本発の本格的政治思想であるが、それを攻撃して自己規定しているだけで、理論としては非常に脆弱である。

 『百年戦争の予想』はこうした国内外の危険な情勢の下で発表されている。目の前の状況に惑わされることがないように、あえて本質的な議論を挑んだと考えるべきだろう。

 事実、湛山も、『百年戦争の予想』の中で、今に囚われすぎていては真に問題を解決することはできないと次のように述べている。

 私は、今日の経済問題、政治問題などを考え、近頃痛切に感じますのは、単に目の前の戦争中の事だけを考えたのでは駄目だ、ということであります。戦争中の事ばかりを考えて、物価がどうとか、物資の配給がどうとか、あるいはまた新体制とか、いろいろの議論をしているのでありますけれども、それでもこれは解決しない。も一つ先に進んで、一体時局はいかなる形を以って収まって、そして時局後の世界ないし日本はどうなるのだ、という時局後の問題を検討して見て、それから逆に現在の政策をみなければならない。それでなくては現在の問題は処理出来ない。こういう感じを昨年頃から強く持ち始めたのであります。

 「そこで、その手がかりとして、いろいろと過去のことを考えて見た」。今日のことを考えて、明日への見通しを立てるのではなく、逆に、過去を研究した上で、それを未来の問題として検討し、現在を捉えるという発想の転換が必要だと湛山は訴える。大正デモクラシーを代表するジャーナリストによる近代の超克の一環としての東亜新秩序・新体制運動への批判とも読める。湛山は政策を正当化するためのイデオロギーによる世界理解を斥ける。彼は独ソ戦を「世界の経済的覇権を争う衝突の一部」と考え、これにより、「独米戦」が不可避であろうと予測している。さらに、近い将来どうなるかだけではなく、戦後体制を予想する。この射程の長さは近代に関する深い洞察が可能にしているのであり、それは、湛山思想を考察すら際、十分に吟味されなければならない。

第二節 「百年戦争」とは何か

 湛山は自らが提起する「百年戦争」という概念がいささか奇妙だということを承知している。後に加筆するときに、変更しようとも考えたが、自分の述べるところを「最も端的に現わすもの」としてそのままにしている。

 この「百年戦争」という概念は、湛山によると、1338年から1453年までの間続いた英仏百年戦争に由来する。これは、一般的には、ジャンヌ・ダルクで知られる戦争である。1338年、英国軍が仏領に上陸し、翌年に開戦する。中断が非常に多く、時折、決戦が行われるというのが実情で、大砲などを投入した英軍が優勢を終始保ち続けたものの、ペストの流行や農民反乱、農奴解放の進展が戦況に影響し、仏軍が巻き返して休戦となる。両国共に、領主や騎士が凋落する一方、国王による集権化が進み、同時に、農民の自由化や市民階級の成長が促進する。さらにイギリスでは、この結末に不満を覚えた貴族たちがランカスター=ヨーク両家による王位争いに加わり、1455年から30年間に及ぶばら戦争へと発展する。けれども、貴族階級はただ疲弊しただけで、戦後、チューダー朝による中央集権化が一層強化されてしまう。

 これを踏まえて、湛山は、『百年戦争の予想』において、「百年戦争」の意味を次のように説明している。

 しかし私か、百年戦争の予想などという妙な題を掲げましたのは、必ずしも戦争そのものが百年続くと申すのではありません。昔の英仏戦争も、一三三八年から一四五三年まで、毎日毎日戦争をしていたわけではありません。ただこの間両国は敵対関係を続けておりました。そしてしばしば戦争を繰り返したのであります。いわんや現今の戦争の如く、武器が進歩し、惨禍が広く銃後の民衆にまで及ぶ戦争が百年もの間、毎日間断なく続け得るものではありません。その間には講和の行われることもありましょうし、いろいろ変化があることでありましょう。しかし私は、今日の世界の政治的不安動揺は容易に収まらない、現在の戦争そのものは、近く片付くと致しましても、それで戦争が終ると見られない、かように考えるのであります。百年は無論形容でありますが、その形容に該当するほど、世界の動揺は長く継続する。只今の戦争は畢竟この前の世界大戦の引続きでありますから、既に一九一四年から三十年近く過ぎております。これからなお七十年余り過ぎれば百年で、その位の間、今日の世界のこの混雑が続いたとて、そう長い事ではないかも知れません。

 こういうわけで、今度の戦後には、世界に大変化が現れるだろうとは、多くの人の感ずる所でありますが、それがどんな変化であるかということは、未だ誰にもわかっていないように思われます。それならこれは、いつになったらはっきりいたすか。またいつになったらその変化が成し遂げられるか。百年戦争と申すのは、前にも述べた通り、必ずしも戦争が百年続くというのではありませんで、実はこの戦後の変化が、百年もかからないと完成しないだろうという意味であります。即ちこの前の世界戦争以来始まった政治的経済的の変化は、非常に大きな動きでありまして、一朝一夕には安定しない。今度の戦争を経ても、おそらくまだ駄目である。かように考えるのであります。従ってこれが安定するまでには、また戦争も起るかも知れない。しかし戦争が起る起らぬにかかわらず、とにかく、世界の政治経済は動揺を続けると見なければならない。これが私の申す百年戦争であります。

 「百年戦争」は百年の間ずっと戦争をしている状態を指すのではなく、ある問題系を土台にして「世界の政治経済は動揺を続ける」ということである。激しい戦争がある一定期間続いた後、その戦争がもたらす問題系が持続したまま、時折、世界は小康状態に転ずるものの、百年かからないとその動揺は安定しない。戦争が起きていようがいまいが、それは大きな百年戦争の中に組みこまれている。英仏百年戦争の歴史的意味は貴族階級の衰退と国王による集権化、市民階級の発達という政治的・経済的変化を招いたという点であって、ジャンヌ・ダルクが登場したなどの個々の戦闘それ自体は本質的な問題ではない。「百年戦争」は問題系による歴史のパースペクティヴ認識である。

 第二次世界大戦後に世界が冷戦という大きな見えない戦争の下に置かれていたことを経験したものから見れば、これは決して奇異な発想ではない。実際、文芸批評家のジョージ・スタイナーが後に同様の理論を主張している。ジョージ・スタイナーは19世紀を1815年から1914年までと区分し、その前にフランス革命以降のシュトルム・ウント・ドランクと呼ばれる激動の30年間があり、それ以後の100年間は相対的に安定しているという循環的歴史観を提示している。

 百年という区切りは世紀に相当する。19世紀は1801年に始まり、1900年に終わるというのは西暦の暦上の見方である。しかし、その世紀の持つ本質から時代区分するのなら、それに囚われる必要はない。百年戦争論に従うなら、20世紀は1914年の第一次世界大戦棒に幕を開けたということになろう。

 湛山によれば、1941年の今は新しい事態を迎えていると言うよりも、第一次世界大戦に端を発する「百年戦争」の真っ只中にいる。歴史の変化に戸惑うのでも、自分たちの願望思考に基づいて判断するのでもなく、そうしたパースペクティヴから考えて、その意味を読みとるべきであるというのが湛山の「百年戦争」の認識である。

つづく