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長期連載
Democratic Vista

第四章 小日本主義による
政策論争


 佐藤清文
Seibun Satow

2009年1月2日

Copy Right and Credit 佐藤清文著 石橋湛山
初出:独立系メディア E-wave Tokyo、2007年10月16日
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。
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第二節 労働問題
第一項 片山潜と石橋湛山

 戦前の日本では労働組合の活動は厳しく制限されている。湛山は、フリーの文芸批評家から始まり、東洋経済に勤務する記者へと転職し、さらに同社の経営者へと上りつめる。労働問題に関する意見も、自らの立場の変化と共に、若干変わっているが、労働者の権利の拡充には一貫として支持している。

 湛山が東洋経済新報社に入社した1911年(明治44年)1月当時、同僚に片山潜がおり、少なからず影響を受けている。片山潜は、日本の労働運動の先駆者であり、国際共産主義運動の有力な指導者の一人である。1904年、アムステルダムで開催された第2インターナショナルの大会に日本代表として出席し、日露戦争反対を世界に訴え、世界にその名を知らしめている。しかし、日本国内では当局から弾圧され、1914年、アメリカに亡命する。ロシア革命の成功以降、マルクス主義に傾倒し、アメリカやカナダ、メキシコの共産党創立に尽力し、1921年、ソ連に渡る。翌年、コミンテルン常任執行委員会幹部会員に選出され、国外にいながらも、日本共産党の結党に指導的役割を果たしている。1933年、モスクワで病死した際、遺骨はクレムリンの赤い壁に葬られているが、これはウラジーミル・イリイチ・レーニンに次ぐ待遇である。

 湛山は、『湛山回想』において、片山潜について次のように述懐している。
 不思議と日本文ははなはだ、つたなかった。私も氏の書いた物に随分手を入れたことがある。知識は広く、『東洋経済新報』および『東洋時論』には劇、音楽、美術、建築等の批評をしばしば書いた。その外には主として社会問題の論文を署名、あるいは「深浦」という筆名で、また社会欄に無署名で書いた。われわれは氏から直接社会主義についての議論を聞いたことがなかったが、その人物は温厚、その思想はすこぶる穏健着実で、少しも危険視すべき点はなかった。神田三崎町の氏の住宅はキングスレー館と称し、夫人に幼稚園を経営させていた。けだし当時の片山氏の思想はキリスト教社会主義に属していたと思われる。

 しかるに氏に対する官憲の圧迫ははなはだしく、東洋経済新報社にはいったのも、他に身の置場がないのを見かねた三浦氏の好意に出たものと聞いた。明治四十五年一月、東京市の電車ストライキを扇動したという罪をこうむり収監され、同年秋出獄後またしばらく東洋経済新報にもどっていたが、大正三年九月渡米し、そこで露国のボルシェビキと連絡ができ、その用務を帯びて南米等を巡回した後、ソ連に入国した。私は三浦氏ともしばしば語ったことであるが、片山氏を共産党に追いやったのは、またク日本の官憲であった。在米中およびソ連に入国してからも、片山氏はしばしば三浦氏及び私に手紙や葉書をくれ、われわれもまた氏との連絡を絶たなかった。(略)少なくとも当時の東洋経済新報社内においては、片山氏よりも私などの方が、かえって過激思想の持ち主であったであろう。

 片山潜は、1884年(明治17年)、渡米し、皿洗いなどをしながら苦学してグリンネルとイェールで社会学や神学などの学位を取得して、1896年(明治29年に帰国する。この間、キリスト教に改宗したり、渡英したりするなどしながら、社会問題・労働運動にも関心を向けるようになっている。

 当時のアメリカはトラストが横行して独占資本が強化され、金融資本が巨大化の足がかりをつかみ、自由放任主義への批判が高まり、労使対立が激化、婦人参政権運動やセツルメント運動など各種の改良運動が勃興し始めている。その頃の時代の雰囲気の一端は、「農民同盟」の女性指導者メアリー・エリザベス・リーズ(Mary Elizabeth Lease)、通称メアリー・エレン・リーズによる1890年の演説『ウォール街が国を所有している(Wall Street owns the country)』が伝えてくれる。

 「ウォール街がこの国を所有しております。もはや人民の、人民により、人民のための政府ではなく、ウォール街の、ウォール街による、ウォール街のための政府なのです。(略)政治家はお前たちは過剰生産のために苦しいのだと言います。このアメリカで毎年1万人の幼い子供たちが餓死し、ニューヨークでは10万人の女性店員がパンのために操を売らねばならないような時に、過剰生産とは何事でしょうか!」

 "Wall Street owns the country. It is no longer a government of the people, by the people, and for the people, but a government of Wall Street, by Wall Street, and for Wall Street. …The politicians said we suffered from overproduction. Overproduction, when 10,000 little children, so statistics tell us, starve to death every year in the United States, and over 100,000 shopgirls in New York are forced to sell their virtue for the bread their niggardly wages deny them...

 こうした社会の中で思想を育んで帰国すると、片山潜は牧師か伝道師になろうとしたが、うまくいかなかったため、「セツルメント運動」の活動を始める。これはアメリカでも活発だったが、その源流はイギリスである。1870年代に同国の歴史学者アーノルド・トインビーは、労働者をとりまく環境を改良するとして、教育とその普及を通じて労働者の意識の向上させ、それを行う施設「隣保館(Settlement)」の設置・運営を呼びかける。それがセツルメント運動である。片山潜は宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンの支援を受け、1897年(明治30年)、友人の高野房太郎と共に神田区三崎町の自宅を隣保館として「キングスレー館」を設立する。

 同じ年、片山潜は、高野房太郎の職工義友会を改組して、彼らと「労働組合期成会」を結成し、機関誌『労働世界』の編集長を務めている。しかし、1900年、治安警察法が施行され、当局による弾圧が厳しくなり、1901年、このクラフト・ユニオンは消滅する。『労働世界』も、04年に休刊となる。

 また、片山潜は、1897年、社会問題研究会を結成するも、解散すると、翌年には社会主義研究会を創立し、1901年、日本最初の社会主義政党「社会民主党」の結党に参加する。発足メンバーは片山の他、安倍磯雄、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎、河上清の6名である。資本の公有化や軍備全廃、治安警察法廃止、人類平等、普選実施、貴族院廃止などを掲げるが、二日後、官憲によって禁止されている。

 片山潜が東洋経済新報社に入るのは、ちょうどこの頃である。普通選挙制度を実施した上で、議会制の社会主義を目指すというのが当時の彼の主張であって、労働組合もあくまでその枠内にとどまる。労働者階級による暴力革命を志向するマルクス主義、議会制を否定して、労働組合を中核としたゼネストやボイコットなどの直接行動を通じて社会革命を実現しようとするアナルコ・サンディカリズムとは一線を画している。彼の思想がボルシェビキ化したのは、官憲による弾圧が激化し、出国してからのことである。

 キリスト教や社会主義を別にすれば、当時の片山潜の主張はその後の湛山の意見と共通点が多い。湛山はこの基本線から転換することなく、労働問題を論じていく。



第二項 女工哀史

 当初の湛山の労働問題への関心は、いわゆる「防貧」である。現代流に言えば、それは「反貧困」ということになろう。湛山は、工場法の制定などの法的規制・社会政策の実施を通じて貧困問題を解決すべきだと訴える。

 殖産興業を促進させながらも、明治政府は、維新以来、慢性的な貿易赤字に苦しみ続けている。外貨を獲得したいが、国際競争力のある輸出産品は乏しい。国際競争力は、この場合、営業利益率と売上高シェアの乗法で計算するものとする。繊維業は数少ない輸出産業である。

 明治政府は1872年(明治5年)、群馬県に富岡製糸場を開業したのを皮切りに、各地に官営模範工場を開設し、その生糸の輸出により外貨を獲得する。その新たな産業の従業員として、貧しい農家の娘など10代半ばの少女たちがかき集められる。彼女たちは「工女」と呼ばれ、後に「女工」に変わる。営業利益を上げるために、その労働環境や生活状態は過酷を極める。14、5時間に及ぶ長時間労働を強いられ、脱走されないようにと親族に金を前渡しするのみならず、寄宿舎に拘禁されて、出される食事は粗末という言葉では物足りないほどである。漬物二切れという記録さえある。この状況の中、結核に倒れるものも続出するが、待遇の改善は遅々として進まない。国際競争力の維持のためにはコストを上げるわけにはいかないというわけだ。彼女たちは、ジョージ・オーウェルの『動物農場』の動物の如く、まさに使い捨てにされている。1880年代から官営事業の払い下げが始まったが、工女たちの状況は好転しない。

 彼女たちを生贄にして獲得した貴重な外貨であるにもかかわらず、政府は、インフラ整備や教育など生活水準の向上につながるものを後回しにして、軍備の拡張に使う有様である。「男軍人 女は工女 糸をひくのも国のため」という『工女節』がその愚かさを表わしている。さすがに、1890年の第一回帝国議会は、山県有朋内閣の軍備偏重予算案をめぐり大紛糾している。

 近代日本初のストライキを起こしたのがそういう女性たちだったというのは、当然の成り行きだろう。1886年、甲府の雨宮製紙の女工たちが待遇改善を訴えて立ち上がり、労働時間の短縮などを勝ち取っている。明治憲法の発布のころから、ストライキが全国でしばしば起きている。1894年1月、大阪天満紡績工場でも女工が賃上げと未払いの賞与の支払いを求めてストライキを決行し、成功する。近代的な労働運動は、日本では、女性が先行している。男女が共にストライキを起こすのは、1896年、三重紡績においてである。この頃は組織的な労働組合はまだなく、自主的な連帯に基づいた運動である。

 ジャーナリストの横山源之助は、1899年、ルポルタージュ『日本之下層社会』を刊行する。1896年から98年にかけて日本各地を取材し、東京の貧民状態、職人社会、手工業の現状、機械工場の労働者の待遇、小作人の生活事情などを取材し、産業革命の進行する中での歪みや矛盾といった諸問題を指摘している。

 横山源之助は、その後、農商務省の委託として、全国工場労働者の実態を調査するプロジェクトに参加する。それは『職工事情』と題した報告書にまとめられ、1903年に刊行される。繊維や鉄工、ガラス、セメント、印刷といった産業における労働実態と生活に関する膨大かつ詳細な資料である。この内容は、各方面に衝撃を与える。石橋湛山もその一人である。特に問題となったのは、巻末につけられた工女の誘拐・虐待・レイプといった被害の聞き書きである。

 一例として、虐待・暴行された挙げ句、失明してしまった機織工女カノの証言を引用しよう。

 縄を股の下に入れて、股から肩へ襷に縛って、それをまた腰の処で縛って、そうして高い敷居へ宙吊りに吊って打たれたんです。それは一時間ばかりで堪忍してもらったけど、またその翌日、腰だの何かが痛んで受取ができなかったもんだから、今度はまたブリキの銅壺(石油缶なり)をやっぱり股に挟んで、それで(残酷卑猥につき中略)といって来たんけど、そん時は友達が託ってよしたんです。

 この「日本における労働者階級の状態」は社会主義者やジャーナリストによる暴露ではなく、列記とした官製の文書である。読んだものがどれだけ衝撃を受けたかは想像に難くない。正直言って、その凄惨さたるや小林多喜二の『蟹工船』(1929)の比ではない。いわゆる「女工問題」は最大の労働問題として以降も繰り返し表面化する。この報告書は工場法制定のきっかけとなっている。

 1911年(明治44年)、桂太郎内閣による社会政策の一環として工場法が成立する。16歳未満の年少者及び女子の1日12時間を限度とする就業時間の制限と深夜労働の禁止、12歳未満の児童の雇用禁止などを主な内容としている。しかし、労働法の御多分に漏れず、15人未満の工場には適用されず、製糸業などに14時間労働、紡績業には期限付きで深夜労働を認めるなど不備な点が多く、おまけに、経営者側の反対によって実施が延期され、1916年(大正5年)になってようやく施行されている。

 1915年頃から、湛山は政府の社会政策による労働問題の解決に幻滅し、産業組織の改変と労働者の団結権の必要性を強く主張するようになっている。政府は経営者を擁護するばかりで、労働者の非人間的な境遇を放置し、ひいては日本全体の利益をまったく考慮していない。

 湛山は、15年の年頭、『新報』の社説において、内務省の石原修による調査資料に基づいて、いわゆる「職工問題」の深刻さを訴える。三月に、東洋経済会の会合で、石原から女工の置かれた悲惨な現状を直接聞き、ショックを受けている。安全対策もろくにされていない危険な設備に囲まれ、劣悪な衛生環境により彼女たちの間で結核が蔓延している。すかさず、湛山は、社説において、工場法はまったくの骨抜きであると糾弾する。こんなものでは凄惨な労働実態の改善には到底物足りず、政府の救済政策など実業家連中の抵抗によって実行力に乏しい。残された道はただ一つ、労働組合の公認である。「労働者に、労働組合を組織せしめ、以って雇主側の勢力に対抗せしむ」べきである。

 政府の社会政策がいかに効力がなかったかは、細井和喜蔵が1925年(大正14年)に刊行したルポルタージュ『女工哀史』が物語っている。このベストセラーで描かれているのは、大正後期の女性労働者の置かれた生活状態・労働環境である。細井は、15年に及ぶ紡績工体験と妻の女工体験を元に、経営側の見せかけの福利施設などで隠蔽していた工場組織や経営内容の実態を暴露する。大型の織機を導入した紡績工場で働く女工の労働条件は、低賃金、深夜労働の強制、ありとあらゆるハラスメント、個人の自由を認めない寄宿制などが依然として続いている。

 暑さ百度以上も昇る工場で立ちどおしに十二時間も働いて、夜かえってから氷水一ぱい飲みに出る自由もないとしたら、余りにそれは誇張的とさえ聞えるが、しかし、私の言うことは一つも誇張ではない。いささかの疑問もあらば、亀戸工場を見るべしだ。死の幕のような気味悪いナマコ板をめぐらせた工場の塀外へ、バンド紐に結えた風呂敷にお銭包んでおろす女工を見せよう。彼女はそうして場外の店から買物をするのであるが、時々巡視に発見されて小ひどいこと叱られ、おまけに買った品物は没収されてしまう。しかし、これにも飽き足らないのか、会社は遂に一間の塀へ持って行って、どうしても登れぬようグリスつけた鉄条網を張りまわすのである。工場監督とは何という冷血児の寄りあいだろう。女工はうたう。

 「籠の鳥より 監獄よりも
 寄宿ずまいは なお辛い……。」
 「寄宿流れて 工場が焼けて
 門番コレラで 死ねばよい……。」

 寄宿が流れて工場が焼けて、門番がコレラで死なねば自由が得られないと思う彼女たちの心根の哀(かな)しくもいじらしさよ。だが、何という力強い歌だ。カーペンターやトローベルやホイットマンの民衆詩より、それが幾層倍の感動を私に与えるか知れない。
(細井和喜蔵『女工哀史』)