エントランスへはここをクリック
長期連載
Democratic Vista
第二章 小日本主義
佐藤清文
Seibun Satow
2008年1月7日
Copy Right and Credit 佐藤清文著 石橋湛山
初出:独立系メディア E-wave Tokyo、2007年10月16日
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。
リンク以外の無断転載、無断転用などをすべて禁止します。
第二章 小日本主義第一節 『大日本主義の幻想』の背景
石橋湛山の全作品の中で『大日本主義の幻想』は、おそらく、最も知られていると同時に、最も考察されてきたテキストであろう。石橋湛山の思想がしばしばこの小日本主義にのみ還元されるのも、そのためであろう。帝国主義戦争反対や植民地放棄、軍備不要など広く知られる湛山の主張はこのテキストに由来する。
『大日本主義の幻想』は、1921年、すなわち大正10年7月30日・8月6日・13日号の2号に亘って東洋経済の社説として発表されている。これは、いわゆるワシントン体制が成立する前夜である。
第一次世界大戦の終結後、民族自決や平和主義、公開外交などそれ以前には空想と斥けられてきた理念が希求され、それに基づく国際秩序が構成されるようになる。これはヨーロッパでは「ベルサイユ体制」、アジアにおいては「ワシントン体制」と呼ばれている。
1921年11月、アメリカがワシントン会議を提唱した際、日本は関係改善のチャンスとして応ずることにする。日露戦争、さらに第一次世界大戦と日米関係が悪化するばかりである。
原敬首相が一にも二にもなく日米協調路線を選択したのは、国際情勢から見て、至極当然である。大戦後、アメリカは世界最大の債権国であるだけでなく、唯一の大国として君臨している。帝政ロシアは崩壊して国土が内戦に突入し、大英帝国はいまだ戦争の傷跡が生々しい状態である。この会議において、アメリカは門戸開放の原則と海軍軍縮を提案する。日本は権益放棄せざるをえない場面が続いたものの、満蒙問題においての要求はそこそこ容認される。満蒙を勢力圏と主張する日本と門戸開放の原則を貫徹しようとするアメリカとの間で、結果として、現実的な利益配分をめぐり妥協が生まれる。
ソ連も中国も国内の混乱が続き、弱体化していたため、その地域において日本が権益を確保することになる。また、米英日の主力艦のトン数を5対5対3とするアメリカ提案に対し、日本は対米7割を主張する。しかし、経済力・造船力の面でアメリカに太刀打ちできない日本は、国家的見地を優先し、その案を受け入れる。また、この年には大連会議が開催され、シベリア出兵によって引き伸ばしになっていた日ソ交渉がどうにかこうにか進められる。1918年から始まったシベリア出兵は、他国が撤兵した後でも日本だけ続け、最終的に撤退するのは1924年である。その翌年、北京で日ソ基本条約が締結されている。
『大日本主義の幻想』が発表されたのは国際協調へ向かう前夜であり、国際緊張が高い時期にあたる。第一次世界大戦後、日本政府は二つの理由から軍縮へと政策を推進する。一つは、言うまでもなく、財政の健全化、もう一つは国内外の世論である。国外では、国際連盟を中心にして国際平和が模索され、不戦条約の締結や軍縮会議の開催が進められる。
一方、国内からは大正デモクラシーが軍拡反対を訴えている。原敬内閣から始まる政党内閣は軍縮路線をたどっている。しかも、1919年には、朝鮮の三・一運動と中国の五・四運動の大規模な抵抗運動が起き、植民地経営の方針も再考を促されている。ところが、大陸の権益に固執する姿勢はなかなか改まらない。そういった現状に対し、シベリア出兵や満蒙権益への厳しい批判が示している通り、国際協調を訴えたのがこの作品である。
つづく