昨日(2007年7月4日)、オーフス・ネット主催の勉強会「道路事業での市民参加の課題は何か?」に参加した。
一旦決まった外環(東京外郭環状道路)の世田谷−練馬間の道路事業を市民参加でゼロから考える、という触れ込みで、パブリックインボルブメント(PI)が持たれたおそらく日本で最初の事例に、
住民として参加された渡邊俊明さん(外環道路反対連盟 事務局長)と江崎美枝子さん(喜多見ポンポコ会議 代表)からお話を聞こうという趣旨である。
最初に、外環道路反対連盟の渡邊さんより事業および反対運動、PIの経緯を課題等を含めたお話があった。
渡邊さんの話によると、そもそも外環の計画が地域の住民に明らかになったのは昭和41年(1966年)3月の新聞報道であった。各沿線の住民が反対運動を始め、5月には7地区の運動が統合して外環道路反対連盟が結成された。
東京都都市計画審議会では都市計画決定が54対50の僅差で可決され、建設大臣により都市計画決定が告示されたものの、地元の強い反対により、当時の根本建設大臣が参議院建設委員会で「地元と話し得る条件の整うまではこれを強行すべきでない。暫く凍結せざるを得ない。」と計画の凍結を表明。これが歴代建設大臣によりひきつがれてきたそうである。
昭和59年(1984年)に建設省と東京都が練馬区に1.5kmの変更案を示し(和光−大泉間)、一方、昭和62年(1987年)には「通すな外環1千人集会」が開催された。当時は自民党から共産党まで超党派の議員が集会に参加したそうである。 この間に長い年月が経っているため、外環道路反対連盟が欠席も世代交代している。ここまでは地元の強い反対の意思表示により、計画が凍結されてきたことが分かるが、ここから状況が一変する。それがPIへの流れである。
平成11年(1999年)になって、外環反対連盟の幹部3名が朝日新聞社よりパリ視察に招かれる。パリ近郊の外環と同程度の規模の道路について住民参加の事例があるので、それを視察し帰国後に開催されるシンポジウムに出席して欲しいという趣旨であった。
朝日新聞の事前の説明では、行政にも声をかけているが行かないだろう、大学の先生と他の住民運動の人が参加するということだったが、成田空港に行ってみたところ、屋井鉄雄 東京工業大学教授の他、国から2人、東京都から1人、朝日新聞関係者が4人と外環反対連盟3名や練馬の運動の方などが同行者であることが分かったという。当初は運動の相手方である行政とは飛行機の中でも全く話をしなかったものの、2泊4日と短いながらも視察やオプションの観光に同行した中で、その後の「官民の信頼関係」を形作ったそうである。
ちなみに外環道、圏央道などについては、事業者が朝日新聞を含め全国紙に全面広告を何度も掲載しているので、ご覧になっている方も多いのではないだろうか。
フランスの事例では、住民は反対ではなく道路建設を前提として、どうしたら「よりよい」(よりましな?)道路になるかを国が費用を負担する中で話し合ってきた、ということを学んだということだった。
この「官民の信頼関係」と「反対しない住民の関わり」がその後のPI実現への流れを作ることになったそうだ。
PI方式で話し合うに当たって準備会が持たれその結果、住民と行政の間で覚え書き、確認書が作成された。ここでは基本認識として現在の都市計画を棚上げにし、計画ありきではなくそもそもの計画の必要性から議論すること、社会全体として外環計画の意義がないと判断されれば事実上計画を休止することもあり得ること、等が示された。外環反対連盟は、これを前提として「反対のための反対はしない」というスタンスを取ってきたそうである。
その後、PI協議会(2002年6月〜)、PI会議(2005年1月〜)が
持たれることになる。
外環計画の具体的な問題点については別の機会に譲ることにするが、渡邊さん、江崎さんの話を通じて分かったことは、鳴り物入りで開催されていたはずのPIであるが、実態としてはおよそPIの体をなしていないことであった。
当初は東京都の課長が司会をし、途中から国交省の職員が司会をしていたそうだが、そもそも道路を作る側である行政がPIの事務局をしている。事務局として出してくる資料は、道路の必要性を強調するものばかりであり、これを住民が検証するために要求するデータ等は出さない。住民が度重なる情報開示請求や、各所に足を運んでヒアリングや勉強、資料収集を行い検証して分かったことは、行政が出してくる資料がでたらめであることだった。詳細は「公共事業と市民参加」江崎美枝子+喜多見ポンポコ会議著、学芸出版社に詳しく紹介されているのでこちらを参照していただきたい。
江崎さんは外環反対連盟とは全く別に2000年4月に発足し、喜多見の良いところを探したり、野川の生き物調査(ガサガサ)をしたり、ポンポコ新聞をつくったりして外環について考えてきたそうである。
平日は仕事をしながら、現地を歩き、専門家等を探し出しては話を聞き、勉強会に参加するなどして勉強を重ね、膨大なデータを収集、分析して、行政の出すデータおよびその解釈(交通需要、迂回による通過交通削減効果、経済活性化、大気汚染改善効果等)の誤りを、将来予測と過去の事例、実績の検証を持って指摘されており、その努力は並々ならぬものであることが分かった。
江崎さんは以前にPIに関して筆者が所属する環境総合研究所に相談されたことがある。その後、音沙汰がなかったので、どうされていたのかと思っていたが、これほどまでのデータ収集、解析評価、事例の検証を丹念に行われていたとは思いも及ばなかった。
ちなみに環境総合研究所では、外環の市川−松戸間について「外環環境観測計画」の業務を、建設省・首都国道工事事務所による国際コンペによる企画公募を経て委託を請けて実施した。これは特に建設省の事業を中心として談合問題が指摘される中、画期的な取り組みであり海外の事例等にも詳しい当時の藤森所長の肝いりで行われた公募事業であったと聞いている。PIも本来はそのような先進的な事例として位置づけられたものだったのではないだろうか。
江崎さんが問題意識を持たれたように、そして筆者がPIの枠組みを知った当初から感じていたように、事務局をどのような立場の人間、組織が担うのか、という点は非常に重要である。外環PIのように、事業を進めたい行政が事務局を担ったのでは、いくら計画ありきでなく白紙から検討し、計画を休止することもありうるという前提で始めても、事務局は事業の必要性について説得するための資料しか出さないことは、やる前から分かり切っているようなものである。
実際に行われたPIは懸念されたとおりであった。住民へ都合のいいデータ、解釈(たとえそれが誤っていても)を一方的に説明し(会議の大半は行政の資料説明に費やされたという)、都合の悪いデータは出さない、誤りを指摘する住民の発言の機会は出来るだけ少なくする(江崎さんの発言の機会は閉会5分前だったという)のが実態だったようである。
近年、行政は政令、省令などを改正する際に、パブリックコメントと称した意見聴取の手続きを行っている。また、環境アセスメント(環境影響評価)でも、住民の意見を聴取する手続きがある。他にも形式的には意見聴取の手続きは少なからず存在するが、PIも含めて共通しているのは、ほとんどの場合、住民、市民、有権者、納税者の意見は「聞き置かれる」だけであるのが実態で形骸化している。形式的にこれらの手続きを経ることのよって、みなさんの意見をきちんと聞きましたよ、という体裁を整えて、実質的にはほとんど見直されることなく、事業等が先に進められるのである。
外環PIの後、他の事業でもPIなるものが持たれることが多くなった。外環のPIは他の事例とくらべて格段に長い時間をかけて行われているものの、そこで行われてきたことを聞くにつけ、その実態はお寒いものであることが分かった。
そもそものこのPIは、朝日新聞が行政(国、都)と住民団体の幹部を呉越同舟の視察に誘い出して行政の担当者と「信頼関係」を結ばせ、反対を前提としていない取り組みを見せて反対派の意識を変えさせるところから始まっている。そして結果として、ゼロからの住民参加の見直しに望みをかけた住民(反対連盟)の期待とは裏腹に、長年凍結解除できなかった外環計画を動かす役割を果たしてしまったことになる。
江崎さんが講演資料にまとめられ最後におっしゃっていた「私達がしたかったのは、こんな粗探しのようなことではなく、本当は、客観的で公正な事実が示されて、色々な立場の人が集まって『これからの東京の交通をどうしていったらいいのか』を話すことだったのではないか、その場を提供することこそ、行政がすべきことではなかったのか、と思います。」は、まさにこのPIの問題の本質をついている。
もちろん「粗探し」は単なる粗探しではなく、行政の欺瞞を明らかにするために必要かつ重要であったが、そこに注力するしかなかった江崎さんの無念を強く感じた。
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