|
|
東日本大震災、それに伴う津波の被害、そして原発事故の影響の実態把握のため、いわき市の広田次男弁護士の案内で、青山貞一環境総合研究所所長、池田こみち環境総合研究所副所長、坂本博之弁護士に同行し、2011年4月15日(金)〜17日(土)にかけ、いわき市を中心に現地視察を行った。 いわき市は福島県浜通りに位置し、人口約34万人で中核市に指定されている。面積は静岡市と清水市が合併するまでは日本最大の面積を誇った広大な市である。昭和30年代には常磐炭鉱、常磐炭田などの石炭産業を中心に、漁業、林業、農業などにより発展してきた。炭鉱閉山後、工業化を図る一方、美しい海岸線や歴史文化など観光資源にも恵まれた都市である。 いわき市の北側には、東京電力広野火力発電所(石炭火力)の立地する双葉郡広野町(人口約5400人)がある。さらに広野町の北には双葉郡楢葉町(人口約7700人)および双葉郡富岡町(人口約16000人)があり、東京電力福島第二原発は両町にまたがっている。その北には東京電力福島第一原発が立地する双葉郡大熊町(人口約12000人)と双葉郡双葉町(人口約6900人)がある。(地図参照) 福島第一原発からいわき市境まで約27km、いわき市中心部まで約44kmの距離である。福島第一原発から20キロは広野町と楢葉町の町境付近、30キロはいわき市の北部を含む、という位置関係である。 現地視察の中心は4月16日に行った。いわき市の中心部にある福島地方裁判所いわき支部のすぐ近くにある広田次男法律事務所を出発し、北にある福島第一原発の方向を目指した。20キロ圏の付近(広野町と楢葉町の町境付近)で道路上にバリケードが張られている地点まで行き、それ以上北上できなかったため、海岸線に沿って南下し、福島県を出て北茨城市の大津港まで6時間半かけて車2台に分乗して視察を行った。この日は長瀬弁護士兄弟の車に同乗した。 移動中は米国製の放射線感知器(ガイガーカウンター)で、常に放射線量を測っていた。幸い、この日は夕方までおおむね南南東の風(広野アメダス観測データ)であり、福島第一原発の風上となっていた。広野火力発電所付近(20km付近)で短時間3μSv/hが観測された以外は最大でも1μSv/h程度、いわき市中心部では0.1〜0.2μSv/hであった。 視察中に携帯した放射線量計測器の画面 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 視察車はいわき市中心部から陸前浜街道(国道6号線)を東に向けて進み、四倉漁港で海岸に出た。海岸に出る前は屋根にブルーシートがかけてあるのが目に付く程度だったが、海岸に出たとたんにがれきの山、つぶれた家屋、特に1階に大きなダメージを受けた家等が急増した。 四倉漁港から久ノ浜を海岸線に沿って北上した。沿道は津波により大破した家屋や建物基礎しか残っていないところ、片付けられないままに積み上げられている建物のがれきや、家財道具などがずっと続いていた。 いわき市久之浜地区の被災状況 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 陸前浜街道を外れ久之浜港に向かう道は、津波だけでなく火事で広い範囲が焼けた後があり、その被害はすさまじさを増した。久之浜港ではコンクリートの橋が落ちてしまっており、川の対岸に渡ることが出来なかった。そこで、県道157号線を経て陸前浜街道に戻り、さらに北を目指した。 いわき市久之浜地区の被災状況 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 広野町役場の前で海側に向かって右折し陸前浜街道と常磐線の間の道を北上した。周辺の農地にも津波に覆われた痕跡があった。小さな川の中では車がひっくり返っており、川の両岸には、がれきや壊れたアスファルトが並んでいた。 さらに北上し下北迫付近の路肩にバス、バン、乗用車などが海側の路肩に沢山駐車してあるところを通過した。 道路にあるプレハブの看板をみると大成建設の「東電福島原子力発電所現地対策本部」とあった。ここはすぐ東側の海岸に東京電力広野火力発電所がある。また、20キロ圏に近いため、ここに対策本部を設けたものと思われる。なお広野火力は地震の影響で操業を停止している。 陸前浜街道に合流し、坂を上ったところにあるJビレッジの手前の交差点に「危険立入制限中」「立入禁止」の看板があり、ヘルメット・マスク姿の警官が立っており、ここより先には進めなかった。このすぐ先が福島第二原発が立地する楢葉町である。 福島第一原発から20キロ地点の通行止め 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 そこでこの交差点を右折し、広野火力発電所の南側の海の方向に向かった。ガイガーカウンターが福島第一原発に対して逆風の条件ながらも最大3μSv/hを示したのはこのあたりである。海岸近くの地面は大きく変形しているように見えた。 再度、陸前浜街道に戻り、ここから海岸沿いに南下した。20キロ圏に近いこのあたりは車が殆ど走っていない。 陸前浜街道(国道6号線)を南下する。自衛隊の「災害派遣」の車両や、関連する車両が道路上に目立つ。「東京電力様」と札をつけた観光バス、「原子力復旧関係車両」と書かれた「緊急車両通行証」を掲げたバスともすれ違った。原発で作業をしている人員を運んでいるのだろうか。自衛隊の車両等は坂本博之弁護士の事務所があるつくば市からいわき市に向かう高速道路上でも目立った。 30キロ圏から出て、久之浜港あたりまで南下すると、ようやく営業中のコンビニエンスストア等が目につき始め、地域で生活している様子がうかがえた。 ふたたび四倉港に近づくにつれ、道路は海岸線に出た。陸に打ち上げられた船も多く、津波の影響が目に付いた。四倉港にある「道の家よつくら港」だったと思われる施設は柱と屋根は残っているものも壁は大破し見る影もない。倒れた歩道のフェンスが連なっている。このあたり真っ黒な雲に覆われ、土砂降りとなった。 四倉港付近に打ち上げられた船 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 コンビニのサンドイッチなどで簡単な昼食を取った後、13時30分ごろから午後の視察に出かけた。 いわき中心部から南下し、県道241号線に入った。沿道に咲く桜が大災害の爪痕と対照的である。沿道の田んぼでは耕耘機で耕している様子が見られた。 再び海岸線に出て県道382号線を南下した。海岸と道路の間には密度の高い防潮林があり、これがこのあたりの被害を大幅に軽減したそうである。 県道382号線沿いの防潮林 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 平(たいら)沼ノ内の海岸の道路は、津波によって打ち上げられた砂が路面を覆っていた。このあたりから海岸に面した家屋の被害がすさまじい。路面のアスファルトもそこここで陥没していた。全壊したと思われる家屋の跡地にはがれきや家具などが山積みとなっている。 平(たいら)薄磯(うすいそ)に到着した。海水浴場のあった海岸線に沿って、津波による壊滅的な被害を受けた地域である。「進入禁止」となっており奥までは入れないが、被災後の衛星写真でみると現地で見るよりも広い範囲で甚大な被害を受けていることが分かる。薄磯については池田こみち環境総合研究所副所長が被災者の方に聞いた話を含めて詳しくまとめているのでこちらをごらんいただきたい。 平薄磯地域の被災状況 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 ここで一旦、海岸線から離れ県道15号線を南下した。道路には大きな陥没がそこここに見られる。 平(たいら)豊間(とよま)あたりでは県道が海岸線に近寄っている。ガソリンスタンドの機械が破損しており、橋の欄干も壊れ、沿道の畑地には車が転がっている。さらに南下すると海岸から近いためか、津波により破壊されたとみられる家屋やその痕が目立つ。 県道15号線が西に曲がるところで道路から外れて江名に出た。江名は堤防があり背後は高い崖となっている。堤防と崖の間に2、30軒の民家ほとんど全部が壊滅し建物の基礎しか残っていない、2人が亡くなったという。堤防の内側にテトラポットが2つ、津波に運ばれており、津波のエネルギーの大きさがうかがえる。ここでもこの集落の被災者の方にお話をうかがった。 江名の被災状況 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 この集落の南西側にある江名海岸を、近くの高台から見た。さらに下の道路に降りてみると、海に面した建物はほとんど1階が大きなダメージを受けていた。港の中にはひっくり返った漁船が浮いているのが見える。 海岸線を先に進み、中之作港についた。ここでも港の建物は壊れ、船が2艘赤い船底を上に向け浮いている。 いわき市中之作港の被災状況 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 さらに海岸線を進むと海に面した墓地があり、墓石が倒れているのがみえた。 県道15号線を南下した海岸沿いの被害はやはり大きい。 小名浜の小高い丘を抜け、小名浜港に降りた。小名浜港も建物、船の被害が大きい。つぶれた建物の屋根の横で桜が咲いていた。漁港では沢山の船が港に乗り上げたり、半分海に沈んでいたりしている。小名浜港は重要港湾、漁港として知られている。臨海工業地帯の物流拠点であるとともに、東北南部の物流の拠点でもある。 小名浜港の被災状況 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 工業地帯に膨大に積み上げている石炭が風に舞い、砂漠のように視界を遮っていた。 さらに先に進み、小名浜海水浴場のあたりを通る県道239号線を南西へ走った。沿道の建物の地震による被害が目立つ。 岩間町に入ると、家屋が全壊した地域が広がっている。堤防が破壊されるだけでなく、破壊された堤防が陸側に相当流されている。 岩間の流された堤防 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 岩間に隣接して、常磐共同火力の勿来(なこそ)発電所がある。この周辺では広い範囲にわたり街が全壊しており見る影もない。海岸線に平行に走る県道239号線を西に進むが同じような甚大な被害が広がっていた。 鮫川を渡る。鮫川は両岸で被害を受けたそうである。 県道259号線を南下した。ここまでがいわき市である。午後5時過ぎまだ明るいので、茨城県北茨城市に入った。 平潟のあたりから海側の道路に出て、六角堂のあった五浦(いづら)海岸に向かった。岡倉天心の建てた六角堂は津波で流されてしまい、赤い土台だけが残っていた。 日没前、最後に大津港に行った。茨城県であるこの地も大きな被害を受け、船は陸に乗り上げ、地面は陥没し、周辺の建物は大きな被害を受けている。 大津港の被災状況 撮影:鷹取敦 2011年4月16日 今回視察できたのは、福島第二原発20キロ圏の南側から北茨城市にかけた、直線距離でも50kmの範囲である。今回の震災の規模からみれば一部にすぎないが、それにしても被害の苛烈さには言葉を失い茫然自失となるような実態であった。 地震から1ヶ月以上経っていること、福島第一原発の問題がまだ終息の気配すらみられないことを考えると、この地域の復興の厳しさには戦慄せざるを得なかった。特に、ただでさえ甚大な自然災害に、重くのしかかっている原発の問題はまさに人災である。 |