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原発事故被害の実像

南相馬ダイアログセミナー

2日目


鷹取敦

掲載月日:2014年5月14日
 独立系メディア E−wave
無断転載禁


 2014年5月10日(土)、11日(日)に福島県南相馬市にある南相馬ゆめはっと多目的ホールで開催された「第8回福島原発委事故による長期影響地域の生活回復のためのダイアログセミナー」に参加しました。副題は「南相馬の現状と挑戦−被災地でともに歩む」です。

 下記に2日の発表の概要を報告します。

■セッション4:南相馬のこれから

(1)避難者と準避難者
(車座形式で討議、司会:いわき市 安東量子氏、M:南相馬在住者、H:北海道から帰還、S:仙台避難の母親)

M:200名の利用者がいる老人ホーム子供を新潟の親戚宅に避難させた。苦渋の選択だった。母子家庭だがホームの仕事は投げ出せない。子供にとって慣れ親しんだ友人と別れることと天秤。地元で学校が再開されたので子供戻って仕事を再開した。

H:北海道の避難先から戻った時、最初は線量が心配だった。まちを歩く度に線量計で高いところ、低いところを測って頭に入れた。食べ物は地元の食材は買わずに県外の野菜を買っていた。6ヶ月経った現在は線量計も持たずマスクもやめ、外で散歩やパーゴルフをしている。食べ物も気にならなくなった。人間は忘れっぽいからか。まわりでマスクをしているのは5人に一人くらい。年取った人はふつうに外を歩いている。
 避難先から戻って驚いたのは子供が少ないこと。事故前は賑やかだった。
 2年離れて北海道にいると新聞にもあまり福島のことが出なくなり分からなくなってきた。原発も汚染水の事故などがあった時しか記事にならない。南相馬から毎月、広報誌と地元紙の抜粋が送られて来たので、各地の放射線は分かったが、他はなかった。
 札幌では原発の話題がなくなり、避難してきたという話をしにくくなっていた。大学のセミナーなどで学者の話を聞くなどした。

S:仙台は実家。お母さん達の会を作った。仙台のNPOから支援されている。堀先生(精神科医)に来てもらって講演してもらったり、絵本をスクリーンに映して母子みんなで見たりした。お母さんが笑顔でないと子供が笑顔でない。身体を動かしたり現状を知ったりした。
 お母さん達の会を作った理由は、NPOママカフェで集まったりしていたが、3年経つと開かれなくなってきた。避難しているというと「大変だね」と言われ、マイナスな気持ちになるので言いにくい。それではじめた。共有できるのはありがたい。避難している者同士通じ合うものがある。
 交流会で郡山に戻ったお母さん達に会うとキラキラしていた。それで気持ちが変わった。戻るか戻らないかの二択ではなく、避難し続けるという選択肢を増やした。宙ぶらりんの気持ちを肯定することで居場所があると感じた。

H:小さい子供がいる息子が「南相馬に戻らない」と言って東京で設計事務所を開業した。椅子に座っていると腰が痛くなるので身体を動かさなければとパークゴルフ、社交ダンス、太極拳のクラブ等に行き、健康面に気をつけている。連休に4人で南相馬に遊びに来てくれたので、わんぱくキッズ広場(全天候型の遊び場)に連れて行ったところ、30〜40人の子供達が遊んでいた。子供がいるのをみて安心した。

M:南相馬は遊ぶ場所がないので、放射能関係なくわんぱくキッズ広場のように屋内で遊べる場所があるのはいい。子供の数が少なくなり野球やサッカーはチームが作れず難しい。集団登校もやめて車で送り迎えになり、いっそう運動不足。子供の肥満が増えている。

S:仙台の実家に避難した理由は、子供の食物アレルギー。一度アナフィラキシーを起こして危なかった。病院がきちんとしてないと見てもらえない。専門医が違って誤診されたこともある。放射能は気にしていないが病院が問題。南相馬市は小児科は市立病院だけだが、仙台は近くに専門医がいる。南相馬市は陸の孤島になり近隣市の病院に行けない。

H:南相馬に戻った理由は、北海道のアパートで死にたくないから。どうせなら避難先ではなく、自分たちが苦労して建てた家で余生を過ごしたい。お墓も守らなくてはいけない。高齢者は身体が不自由になって避難先では心細くなると思う。

M:南相馬市内に住んでいても病院は心配。高齢化率は上がり、若い働き手がいなくなって子供が減っている。子供の学校や友人のことで迷う人が多いと思う。子供が高校を卒業した段階で市に残るか考えると思う。
 当時、身体的なケアはあったが精神的なケアは無かった。転校先のいじめなどもある。住み続けることで、将来、身体的な影響が出た場合、子供に言われるのではないかと内心ビクビクはしている。
 若い人は地元に戻らない。高齢者が戻って老老世帯が多い。うちの老人ホームでも増えていて、順番は回ってこないが、一方で在宅ケアも人材不足。ハコ(建物)と利用者はいるが、働く人が少ない。切羽詰まっているから入れて欲しいという人もいるがみんな切羽詰まっているが入れない。

S:自分には病院が一番の問題。今は仙台の保育園に入れているので、節目の小学校にあがる時に南相馬市内の病院がどうなっているかで戻るかどうか考えたい。「病院がないと厳しいよね」という話になる。

H:今は元気だがあと5年経って足腰が弱くなるとどうしようと思う。今は夫婦二人なのでどちらかが具合悪くなっても介護できる。「仮設住宅の孤独死」が報道されるが、一人で生活をするのは酷だと思った。介護する人が足りないという話を聞くと心配になる。一人になったら都会にでも行くかと考えてしまう。

M:一番は震災前の南相馬がいい。気候もよく暮らしやすいが、まずそこに戻すのは不可能。どれだけ近づけるかなんだと思う。いいまちになっていくだろうと思う。自分の節目が子供の高校卒業だとすると、その時にどうなっているかで考えたい。うちの場合、外部被ばくはそれほど気にしないが、内部被ばくは気にしている。人それぞれ選択肢があると暮らしやすくなると思う。

●線量と地域医療のこれから

(2)内部被ばくの現状
(南相馬総合病院 坪倉正治氏)

参考:坪倉氏の連載 http://apital.asahi.com/keyword/author.html?author=2012111500007

 市内の高校で放射線の授業をすることがあり、アンケートを取ると、身体への被害、魚への影響に加え、興味ない、いまさら、どうせガンになる、子供が産めないんじゃないかなどと書いてくる人が結構いる。放射線災害は単に線量だけの問題ではなく、自我、プライド、尊厳の問題であり、身体、社会、金銭的な分断の問題が起きている。

 WBC(内部被ばくの検査)をして線量が高い低い、NDという話、危険、安全のどちらの話をしても人には届かないと感じている。医療として何が出来るのかと考え続けた3年間。

 そうはいっても線量は大切。それとともに分断や、自我、プライドの問題をどう解決するかという話が、戻るか戻らないかとか、地域社会の発展の問題より重要だと感じる。

 自分がおこなってきたWBCによる内部被ばくの検査の話。4台のWBC、Fast scan2台で、人口カバー率40%くらいまで実施した。検出される人の割合が下がって、ほとんどND、つまり現在慢性的な放射性物質の摂取がほとんど無くなっている状態。その中でたまに下がらない人がいる。調べると野生のきのこ、山菜類を食べていると分かる。3〜4万人の検査からこういうことが分かってきた。

 初期被ばくの問題はあるが、南相馬の95%は1960年代の大気中核実験の平均的な被ばくより低いという状況。

 食品の産地を選ぶ人が今でも多いにも関わらず、WBCを受けに来る人の数は減っている。どうやってこのギャップを減らせるのか。学校検診化によってWBCを受ける人は増えている。これを続けるべきかといえば、線量だけでは届かないと感じている。

 老人ホーム入居者の生存曲線(入居してから無くなるまでの年数)は落ちている。もともとケアがよかったのが、悪化している。避難による関連死が増えている。だからといって避難すべきでなかった、という話ではない。ストレスも増えていて、震災前は脳梗塞が月に14.7人だったのが35.3人になっている。

 医学の話としては、ストレスとか外で遊ばないから、ということになるが、その解消が解決策になるかは、みんなで考えないといけない。

 一方、被災地で孤独死が増えているといっても、実は東京、千葉の孤独死よりは少ないと思う。地方で元々、地域社会が守っていた部分が落ちてきているのだと思う。(都市ではこれがないので孤独死が多い)

 他の方から指摘があった、医療のパワーが劇的に落ちているとは感じない(元々地方の医療体制はよくなかったという意味)。30代の医療の職員の人数は減っているが、震災で一旦減った後、ある程度回復している。看護婦さんが不足しているという問題はある。

 現在南相馬で起きている孤独死の問題は、今後は千葉、埼玉の方の方がもっと大きくなると思う。ここの方がまだ地域の支えがある。みなさんの実感とは違うかもしれませんが。

(3)心のケア
(雲雀が丘病院 堀 有伸氏、市内でNPOもやっている精神科の医師)

 心のケアは医療者が外からみて必要と思うことと、本人が求めることが違う場合がある。今日の話を不快に思う人がいるかもしれないけど、外から客観的に見たものとして話したい。

 ストレス、トラウマ、ダメージからの影響、回復する力、レジリエンスは人によって違う。短期的な問題設定をすると疲れてしまう。長期的な視点も必要。

 ふつうの自然災害では地域の一体感が高まるとされている。しかし原子力災害は、分断、立場の違い等複雑になり一体感を高めるのは難しい。気持ちを抑えすぎてもいけない。

 賠償に関わる心の問題。賠償額の差がプライドを傷つけ、また依存性、他罰性が高まる。こういうことがいいとか悪いとか言えないまま、抱えていかなければならない問題。

 地域の分断と生活再建の遅れがレジリエンスを下げている。

 高齢化世代、勤労世代、母親と子供の世代など世代毎に葛藤のテーマが異なる。

 震災前からあった、日本中にある課題(高齢化、過疎化など)が、震災や事故によって余力が無くなったことで顕在化している。

 原発事故の特徴は、故郷のあいまいな喪失。原発に近い地域は、はっきりと戻れないことが分かっているが、そうでない地域は、そこにあるのに戻れない、もどれるかどうか分からない、いつもどれるか分からないという状態。

 日本では、故郷の喪失というものが歴史的に無いので、他の地域の人には想像力が及ばないのではないか。他国の文化や民族では自分や身近に故郷の喪失を持つことが多い。

 簡単な処方箋は描けない。他者との新しい結びつき、ネットワークの再構築を通じてしかトラウマから回復できない。ささやかだが、朝集まってラジオ体操をするようなこともできる。対立する人と結びついて地域で生きていける。

(4)自然エネルギーの体験学習により子供達の成長を育む
(半谷栄寿氏)

 自分はお詫びをしなければならない立場。2010年まで東電の役員。Jビレッジを担当し地域の振興のためと思ってやっていた。電力事業以外のあらゆる事業にチャレンジしていた立場。全電源喪失という言葉も概念も持っていなかった。そういう意味で責任があると思っている。一方、自分は南相馬生まれでもある。小高区に住んでいた母は東京に避難している。

 震災後、2011年3〜5月頃、地域の役に立ちたいとトラックを運転して物資を運びながら発想したのが、南相馬ソーラー・アグリパーク。物の支援から仕組みの支援が必要になると考えた。

 自分が東電に入社するきっかけとなった体験は、小学5年生の時に、福島第一原発の建設現場を見学したことだと思う。体験が大切だが、どんな体験がいいか。誰もが賛同する太陽光発電がいいと考えた。

 南相馬ソーラー・アグリパークは2013年に竣工。植物工場(毎日800株)と太陽光発電(500kW)。太陽光で発電した電力のうち100kW分は15円/kWhで植物工場に供給、残りの400kWは40円/kWhで国の固定買取制度で売電している。これはビジネスに見えるけど、本当の目的は子供達の体験学習。

 岩手、宮城、福島の被災地の子供には成長のポテンシャルがある。支援への感謝の気持ち、社会のために働きたいという気持ちがある。それをどうやって成長に結びつけるか。総合学習の時間を利用した体験学習を受け入れてきた。さまざまな体験学習の場を作っている。

 人材育成には5年、10年と時間がかかる。数年後、高校生や大学生と社会的起業を興したいと思っている。ビジネスを経験し、復興の担い手になって欲しい。

(5)農地と太陽光発電の共存による農業再生と地域活性化
(えこえね南相馬研究機構 高橋荘平氏)

 南相馬除染研究所と別にやっている活動について。除染は今必要なことで、将来のためにソーラーと農業をやっている。

 農地と太陽光の共存。上でソーラー(売電)、下で農作物を作っている。農業を継続しながら売電収入もあって生計を立てる上でリスクを減らす。さらに農業で身体を動かして健康維持、地域活性化も。自分たちの自信を取り戻す。

 ソーラーシェアリングでは、下にトラクターなどが入れる高さにパネルを設置して下で農業。ハウスdeソーラー、農地の縁辺、法面などでも太陽光発電。パネルの設置は営農への影響を出来るだけ小さくする。植物によっては太陽光が多すぎても光合成が増えないのでバランスを考える。

 原発から約20kmの太田地区でやっている。

 菜種油は油への放射性セシウムの移行はほぼ無いと分かっている。菜種油の6次産業化。農地を続けるからこそ、将来、別の農作物を作れる可能性がある。

 セシウムは木の幹の内側にはほとんど移行しないことが分かっているので、芯材は薪に使える。昔ながらがよいというわけではないが活用できれば。籾殻を使った除染も。在来種のコットンの試験栽培もしている。在来種なのできなりの色のついたものが出来る。南相馬の馬文化との関係で、敷地の内側には牧場も。まちが元気になれば子供達も笑顔に。

(6)南相馬で燃料作物を育てる
(西一信氏)

 専業農家として花を作っていた作っていたが、3.11以降は買ってもらえない。水稲も当時種まきの準備をしていたがだめになった。農家は生産の手段を奪われた一番の被害者。

 ひまわりの種をまいてみた。除染の効果は期待できそうもないが、将来につながる。ひまわり、菜種油はバイオ燃料になる。専業農家20人くらいのグループで取り組んだが、天候に勝てずなかなかうまくいかなかった。

 ひまわりや菜種は畑地に育つので、田んぼだったところで育てるには水分のコントロールが大切。支援してもらった溝堀り機で作業した。今年も20町歩にひまわりを植えた。地元で搾油できればいいが、現在は宮城県で搾油してもらっている。

 転作率は震災前は20数%だったのが今は38%、来年は40%になると言われる。水稲以外のものを作らなければならないが何を作ったらいいか。福島産は値段も厳しい。(※転作奨励金は食用でないともらえない)福島産を避ける傾向があって作っても安くしか売れない。市場でも他県産から競り落とされ、福島産は足りない時だけ。花も同様で大変な状況。南相馬のJAの米の出庫率は1桁%代、会津、中通りは70%。

(7)南相馬における産業創出について
(南相馬ITコンソーシアム 田中章弘氏、但野謙介氏)

但野氏:

 震災後、子供が減っている。避難者している若者で「戻りたい」と回答しているのは36%のみ。戻らない理由は、放射能のリスク、仕事、教育環境など。これはハコモノを作っても解決しない。

 2035年の推計(人口研究所推計)と同じくらいの高齢化率になっている。日本の将来の課題を20年先取りしている。農業た大切だが、生産額の産業別割合をみると、農業だけでは地域の人は暮らしていけないことが分かる。

 2011年にアメリカの小学校に入学した子供達の65%は、現在存在していない職業につくだろうと言われている。日本の過去のデータをみると、こういう劇的な変化は今急に起こっているのではなくて、既に起きていることと分かる。自分たちがなんとかしないと、地域自体が無くなってしまう。20年ぐらいで半分の仕事はコンピュータがやるだろうと言われている。農業従事者が減っても変分の人数で今の終了は維持できるだろう。

 工事などの復旧産業から、将来の復興産業へ。何ができるか。商品として出した時に他の地域で受け取ってもらえるもの。外から帰ってきた人、新しく入ってきた人、リスクが取れる人間が必要。

 2011年の8月にゲーム開発をはじめた時には批判もあった。2012年にはITコンソーシアム事業を始めた。ゲーム開発を高校生が経験できる。高校生が参加できる機会を無償で提供。お金や数字で分かりやすく提供。iPhoneアプリを作ってみる経験。ベンチャーを設立した。岐阜では無償で教育を受けさせてもらった。3年目にはゲーム開発者のイベントに参加。小学生のプログラミング教室等、次世代の育成へ。エンジニア、デザイナーも育てはじめている。

 ITはあくまでもツールで地域の魅力を伝えることが大切。高齢者が増えた時の介護の人材の供給も。相馬伝統事業のアプリの受託開発も。

田中氏:

 放射線被災下でもできるビジネスを考えた。

 20〜30年後の課題を一気に抱えてしまった。既存の課題と新しい取り組み、同時にやっていかなければ。

 少ない人口でも小さな規模でも幸せに暮らしていければいいと思う。

 他地域に避難した人は、無理に戻ろうとしなくても各地で南相馬市のアンテナになって欲しい。中国の華僑のように。

■セッション5:いわきと神奈川での経験

(8)末続の取り組み
(いわき市末続 遠藤真也氏)

 いわき市久之浜の末続(すえつぎ)地区は130世帯、現在250人くらいの村。自分は10年前にお婿さんとして兼業農家の家に入った。

 末続地区はいわき市の中で唯一、原発から30km圏内で屋内待避となった(※市が用意したバスで避難)。事故後は埼玉に避難した。1ヶ月後に屋内待避が解除されたが、放射線の数値もないまま「戻っていい」と言われても誰も帰らない、帰っていいか分からない。1k四方だか5km四方の粗いマップしかなかった。

 自分たちで汚染マップを作った。住めるか住めないか自分の目で確認したかった。470枚の田んぼ全て土壌サンプリングをして空間線量率も測定して可視化した。スペクトルデータを全て取ってある。

 分析費用は500〜600万円くらいかかったはず。東電に請求したが断られたので、最後は自腹を切ってでも払うからと地区のお金を借りた。1年掛けて交渉し、2年後にお金は取り戻した。

 次に自分の身体の被ばくを気にする人が多かった。知り合いを通じて福島のエートスを紹介してもらい、専門家を紹介してもらって勉強会、内部被ばくについて平田中央病院と地区で提携してWBCの検査を受けた。希望者110〜120名ぐらい、ほぼ全世帯から1名ずつ受診した。地区で提携したためWBCの結果を共有できた。結果について宮崎先生(1日目の発表者 福島県立医大の宮崎真氏)に話をしてもらった。食生活はそれぞれで自家菜園のものを食べている人もいれば、福島県産を避けている人もいたが、結果に差は出なかった。行政では個人情報のしばりがあるので、データの共有はできなかっただろう。

 いわき市の清掃センターの飛灰は8000Bq/kgを超え、敷地内で保管しきれなくなり、このままではごみの収集が止まるという状況。1年前に末続地区の市の所有地を仮置き場とする打診があった時には断った。いわき市は避難者等も含め人口が増加しており、飛灰の仮置き場ができないと復興が進まないと言われ苦渋の決断。透明性、クロスチェックなどの条件をつけた。汚染された少数の地域へ負担がしわ寄せされる問題。

(9)白河の米検査の見学会
(適切な情報提供プロジェクト 神奈川県・入澤朗氏)

 福島の人間ではなく、神奈川県茅ヶ崎市から白河市に通っている。

 医薬品メーカーで情報を扱っている。情報の評価は難しく、情報品質の歴史は浅い。情報は受け手側が評価する。自分の経験から米の全量全袋検査のデータの信頼性に関心を持った。白河の農家さんから「手をさしのべるだけでなく悪いところがあったら言ってくれ」と言われた。自腹で検査をされており、今年度の全量検査にかけると真摯な姿勢に心を打たれた。

 都内でアンケートを取ったところ検査結果を40%が信頼できないと回答、米の検査のビデオを診てもらった後アンケートを取ったところ、信頼できないという人は減らなかった。苦労しても検査をしても報われない。行き詰まって見学会を考えた。

 農業関係者からは断れたが、行政(白河市)で協力できる人がいた。子育て支援の活動をしている人も理解してくれた。教育ということで子供を対象とした見学会も考えたが、子供をダシにせず大人を対象とした。見学の場を提供するだけで、評価は参加した自身がするようにした。1回目の見学会を実施したあとのアンケートでは、はじめて前向きな感想があり、過半数が信頼が上がったという結果だった。

 自分ばやりたいことは、安心・安全といいたいわけでも白河の復興でもなく、情報を共有して社会に役立てること。アンケートの結果をみると政府の規制値への信頼は低い。測定値そのものへの信頼は比較的高い。測定値に対する信頼は、都内より現地の方が高かった。白河のお母さんのは規制値、実測値への信頼は別れるが、ほとんどの方はお米が気になるということだったが、見学会の後は信頼が増えた。2回目は見学会の後に対話(ワールドカフェ)をやり、これが好評だった。対話をどのようにしてやったらいいか考えようと思った。

 3回目の見学会では対話のやり方を工夫。相手の話を否定しない。ここで聞いた話を他で話さない。小学校の時の呼び名で呼び合うなど。そうはいっても相手の考えを正そうとする傾向はあった一方で、貴重な話を聞けたという意見があった。

 受け手がどう考えるか。実際にお母さん達が何を聞きたいか、Q&Aをつくる。お互いに支え合って対面での販売が大切。

■セッション6:南相馬の状況に関する共通のビジョンを構築するためのダイアログ(ステップ2)−どのように前進するか

 セッション6では、セッション3と同様に、発表者を中心としたパネリストが円形に並べた席につき、それぞれ2回ずつ意見を述べました。セッション3と同様、印象的だった問題の指摘を以下に関連する内容毎に並び替えて紹介します。

対話:

・2006年の合併でエネルギーを要し、津波と原発事故で縦横に市域が分断された。分断の元には放射能の健康影響への不安がある。対話は有効だが頻繁、身近、小規模が重要。誰が担えるか。行政の「説明会」で理解を得るのは難しい。対話を担える主体が出てきたと感じた。
・除染の仮置き場設置の理解が得られないため、細かい除染が難しい(もって行き場がない)。放射性リスクへの理解が必要。そのためには対話が重要と感じた。
・飯舘で対話の会をやっている。前回のダイアログで何か解決したということはない。村民を対象としたオープンダイアログをやって小さいことだがわかり合うことが出来たと思う。家族であっても理解、共有することは難しく問題は深く、大きい。対話の会を続けていきたい。
・講演会のように100人の人に理解してもらうことは出来ない。1対1でも南相馬を知らない人には分からない。
・そもそも心配しているお母さんなどは対話に来てもらうのが難しい。どう対話を勧めるかも難しい。口に出すことが難しければまず思ったことを書いてもらう方法など考えている。
・対話は硬い感じになりがちなので、方言で「かすだっぺ」と言ってみた。たいへん時だからこそいろいろ考える時。対話で大勢あつまった時には、キッズスペースを作り、子供を遊ばせられるようにした。続けていくことの強さ。
・見たくないものを見るというチャレンジに直面している。日本での伝統的なコミュニケーションは、話さない、身の程を超えない、古い物をまもる。これをどう乗り越えるか。
・自分は対話というより聞いてるだけで、おしゃべりのつもり。来てくれないという点は入澤さんと同じく一番の悩みと思っていた。今は自分が話をできる人と会って話せばいいと思っている。自分が話を聞きたいと思うことが大切。話を聞いておもしろがってくれる人のところで話をしてくれる。
・米の検査結果の数値がかなり低いので、「安全キャンペーン」と取られないか心配。このまま見学会を続けていいか考えている。
・内部被ばくの検査。「きのこを食べたい」というおじいちゃんがいる時、なんと答えたらいいか。1対1なら答えられるが、1対20〜30の時になんと答えればいいか分からない。放射線の問題はどこまでいっても1対1なら話せるけど、講演会のように1対100になると何を話していいか分からない。1対1をやるには医療の側のマンパワーが足りない。住民一人一人が話せるようにするしかない。
・報道はひとりひとりに違う対応が必要なことには向いていない。話をする時のベースとなる情報を伝えるのが報道の役割。

地域の復興:

・不安解消だけでは十分ではない。新しい産業を生み出すこと。多くの方が支援に来てくださっている。このまちの発信力を活かしてよりよくしていきたい。
・津波の翌朝遺体を軽トラで引き揚げるところかははじめた。発達障害の人の引き取りをした。水道水のストロンチウムの測定などを早野先生に協力してもらった。20、30年後をみると景色が違ってくる。除染、賠償、防潮堤もそれぞれ大切だが、30年後の日々の暮らしを豊かにするものは今気がついてないことにあるのでは。
・「帰還」の意味が変わっているのでは。避難した先の生活水準、教育水準と比較した結果の「再移住」としての選択ではないか。あらためて住むに値する地域を作らなければ。
・南相馬市としては、市民生活の最高の基礎を築く年がテーマ。新しい取り組みが沢山出てきていることを知った。だからこそ放射線への不安への対応が行政として求められている。新しい取り組みを行政としてどう育てていくか。
・楽しくやれるのは農業だと思ってはじめた。この風評はいつまで続くのかと思う。汚染のレベルに関わらず福島県内どこでも同じ。知人は知らずに汚染された藁を売って大きな新聞沙汰となってしまった。国・県を挙げて農業を支えて欲しい。

放射線への不安:

・市長室を訪問しドームシティ構想をお願いした。外で遊べる。さらなる事故があった時に逃げ込める。
・給食のセシウムの調査を最初は自腹で行った。実態より心配している人が多くデータと不安の間にギャップがある。地元の食材を給食に使うことに抵抗がある人がいるのは仕方がない。赤ちゃんの内部被ばくを測るBabyScanを開発した市立総合病院に設置する。
・放射線について不安を抱えている人がいるのは現実。きちんとした測定、きちんとしたデータとすることが我々専門家に出来ること。メディアにもきちんと伝えていただきたい。
・仙台避難で発表された方ご自身はお子さんのアレルギーが戻らない理由だが、話を聞くと周囲の避難者は放射線への不安がやはり大きい。どれくらいなら許容できるかと聞けば当然「事故前のレベル」と言う。除染を待っている人も多い。
・穢れ思想の人が多い。あるかもしれないから出ると怖いからWBCの検査をしない、という人がいて、検査はしないけどきのこは食べる。どうしたらいいか分からない。

情報共有:

・今回、地元に知らない団体、活動が沢山あることを知った。情報共有できるといい。事故当時に情報が隠されていたことの影響は大きい。
・情報の共有難しい。それぞれの活動、課題を知る。このまちをいい方に持って行くという点では共有できるだろう。
・経験を共有できていない以上、私にとって話を聞くことは重要。

市民の協働:

・住んでいる人が考えて行ければ。たくさんの人がいるので繋がっていければものごとがややこしくならずに済む。行政も一市民として対応してもらえれば。
・飯舘には南相馬からの避難者もいる。互いに理解して協働したい。
・健康な高齢者もいるので、若い人が減っていく中、高齢者も頑張っている若い人の助けになるのではないか。相談すれば力になってくれると思う。
・いわきでボランティアとして末続でやっていることは、話をきくこと、つなぎ役をすること。暮らしている人が自身でやれることがベースで外の人間として出来ることは繋ぐこと。地元の人が孤立すると精神的にきつくなる。
・阪神淡路大震災を経験した坪倉先生が医師として来て内部被ばくを測ってくれている。iT事業を助けてくれたポケットマネーを出して高校生を支援してくれた人も阪神淡路大震災の経験者。

教育:

・若い人の教育重要。福島高校の生徒をジュネーブに連れて行き、高校生が英語でプレゼンをして自信をつけた。各地の生徒と一緒にやれれば。
・ゼミの学生を連れて福島で合宿をした。放射線問題の社会的な難しさんについて理解して巣立ってくれたのではと思う。
・福島では子供達に公共心が芽生えていることが大きな財産。県内の高校生をみるとしっかりしている。すぐに人のためになることをしたいと言ってくる。彼らが働き盛りになると福島はもっといいところになるだろう。
・震災の後の成人式で、当たり前に食べられたものを安心して食べられないと言った人が食品に関わる仕事に、情報のように形のないものが人を傷つけ命すら奪うことがあると言っていた人が情報に関わる仕事につきたいと言っていた。
・関西で出来ることは少ないが授業で学生に話している。1年目は聞きたがる学生が多く、2年目は関心が薄くなっていた。ところが3年目はもっと聞きたいという学生が増えている。マスメディアで聞く話と違う話をするので関心を持ってくれる。

語り継ぐこと:

・津波の時は満潮かどうか調べろと父に言われてきて、それで高台に逃げた。幼いころから家庭で言い伝えられてきた。原発事故の話になると津波の話は忘れられがち、語り継いでいかなければ。

分断:

・紛争解決、合意形成、平和構築の研究が専門。葛藤や分断が起きた時どうやって立ち直るか。起きているその中にこそ解決のヒントがある。対立や分断の両側で見えているものを合わせることができる。こういう時は力がない人、弱い人に苦労・苦難があつまるが、そういった体験が知恵や宝にもなる。
・マイナスとなった「原因」に目を閉じて、未来のプラスだけを見てもだめ。
・頑張っている人に勇気づけられた一方で分断により起きている問題で前を向けない人も沢山いるだろう。特に南相馬は難しい。ライフライン、病院、仕事、賠償、放射線の問題を払拭しないとみんなで共有した将来を見るのは難しい。その中で将来を見て取り組んでいる人に頑張ってもらうしかない。
・分断は札幌に避難している時にもあった。場所によって賠償金が違うことで、避難者の間での分断が生じた。補償をもらっていない人は20〜30kmで線量が同じか低い場所で補償をもらっている人達をねたむ。これまでの分は仕方ないとして、今後は線量に応じて補償した方がいいのでは。
・水俣と似ている部分がある。補償金で地域が分断されている。経験したマイナスを戦略的に使うことに水俣は失敗した。分断などもあり恥ずかしいという思いがあった。

仕事:

・避難先で見つけた仕事を南相馬に戻って続けられないという問題があることが分かった。
・食べ物を作らないと転作書奨励金がもらえないが、食べ物は買ってもらえない。職業選択の自由、居住の自由がないがしろにされている。
・非食用の農作物にも転作奨励金を出して欲しい。国には現場に来て欲しい。

補償:

・原子力災害における長期にわたる影響に対する公的な補償について考えられていない。ICRPの勧告にもこの問題を含めてもらいたい。
・高校を卒業して働きなさいというと、親が補償金で暮らしているのにどうして働く必要があるかと言われる。補償はもういらないだろうと見捨てられるのがこわい。
・ADRに持ち込まれ和解となっているケースがあるが、ほとんどの人はこういうことを知らずに権利放棄している。
・阪神淡路大震災では、復興住宅に住んでいる人が買い取れと言われているが、高齢単身世帯では買い取れるわけはない。我々の20年後ではないだろうか不安。

風化:

・1960年から日本人の寿命が延びているのは医療のためではなく経済が豊かになったから。医療は最後の3ヶ月くらいにつぎ込まれている。パイが拡大する社会が終わり小さくなるパイを取り分ける社会。医者として関西の医者と話をしても福島の話は出ない。関西では震災といえば、いまでも阪神淡路大震災。
・情報発信が難しい。何が正しい情報か。正しいかどうかに関わらず情報発信を維持することが風化させないために重要なのかもしれない。

医療・介護・高齢化:

・若い働き手がいなくて介護できない、看護士が足りなくて入院を受け入れられない、ため高齢化問題に対処できない。震災前から深刻になっていた。一方で連携がは深くなっている、唯一の解決への道では。
・20〜30年後の日本社会の課題を前倒しで引き受けた地域。20〜30年後の問題をこの地で考えようというのは、進んだ視点だと思った。

その他:

・原発事故は思い出でもあり、死ぬまで戦うことでもある。起きてしまった現実、東電に壊されたという現実と向き合って暮らしていかなければ。事故直後に自分の恐怖を息子にぶつけてしまったのはよくなかった。息子のために戦ってここまで来た。
・疲れている。前向きな人達の勢いに押されて、自分は何ができるだろうと考えてしまう。母子家庭で日曜日も子供を預けられない。女性はこういう場所には来にくい。くたびれ館をなんとかして欲しいと思う。



 今回のダイアローグは、福島第一原発事故の影響により複雑に分断され、原発事故の影響の複雑さ、難しさを象徴する場所であり、陸の孤島となった場所から櫻井市長がYoutubeを使って世界に応援を求めたことでも知らせる南相馬市で開催されました。発表者は、南相馬居住者、避難者、避難から戻った方、健康リスクへの不安が大きい方、地域の復興にチャレンジしている方など、さまざまな立場、考えをもった方々で、発表や意見交換の中から、このような場に出てこられない人達がいるという言及がありました。このような点からこのダイアローグはこの原発事故の影響を象徴していると思います。

 発表と議論を聞いて、原発事故は単に放射線の健康リスクが増すという単純なものではなく、そのため放射線リスクさえ低下すれば解決するのではないということを痛感しました。原発事故に起因した放射性物質の存在が大元の原因としてありますが、それにより分断が起こり、コミュニケーションが難しくなり、潜在的に存在した問題が顕在化したり早まったりすること、その影響は健康にとどまらず、家族、地域の人間関係、行政やデータへの信頼、被災者への差別の問題、個人の仕事、地域の文化や産業、など多くの分野にわたっていることが分かります。

 このような複雑で困難な問題を単純化して理解するのではなく、個人と地域の尊厳を尊重し、広い意味でいえば被災した日本社会全体が、そしてひとりひとりが向き合っていくことが必要であり、廃炉の問題、エネルギー問題と合わせて、どのような社会を作っていくか考える重要な契機であると思います。

 この会合の発起人はICRP(国際放射線防護委員会)ですが、ICRPの勧告(Publication 111)では、原発事故後のような状況では、意志決定の透明性、住民等の関係者の意志決定への関与、その経過の正確な記録等を求めています。また被ばくの大きい人から優先して対処するような仕組みも提示されています。現状の福島第一原発事故後の状況において、日本政府がこの勧告の意味を理解せず、現実の政策、制度に取り入れていないことが、問題の複雑さ、深刻さを深めていると思います。

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