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もしイエズスが今、イスラエル・パレスチナ
の最前線にいたら、何をするだろうか?

If Jesus was on the Israeli-Palestinian
frontline now, what would he do?

Revd Frank Gelli Op-Ed RT
 2021年5月15日

翻訳:池田こみち Komichi Ikeda(環境総合研究所顧問)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年5月19
日 公開 


ファイル写真:2014年4月10日にパレスチナでベツレヘムのイスラエル西岸の障壁にイエス・キリストを描いた政治的および社会的な壁画と落書き
©Getty Images /FrédéricSoltan/ Corbis


<著者紹介>
フランク・ゲリ師は、英国国教会の司祭であり、活動家、文化評論家である。ロンドン大学とオックスフォード大学で哲学と神学を学び、ロンドンの小教区で奉仕した後、トルコのアンカラにある英国大使館の聖ニコラス教会でチャプレン(教会・寺院に属さずに施設や組織で働く聖職者)を務めた。また、イギリス、アメリカ、スイス、カタール、イラン、イタリアなどで開催された数多くの学会で、宗教・異宗教間の対話について講演を行っている。

<本文>

 イスラエル国防軍がガザにロケット弾を撃ち込み、パレスチナ人の苦しみを悪化させている中、もしイエズスが包囲された街に現れたらどうだろうか?

 救世主は何をするだろうか?誰の味方になるのか?エルサレムでは、パレスチナ人の苦しみは疑う余地もない。家は没収され、人々は銃撃され、民族浄化される。イスラエルの兵士が加害者であることは明らかだ。イエズスはイスラエルに対して正義の怒りを爆発させるだろうか?厄介なことに、救世主イエズスはアラブ人ではなく、ユダヤ人であったことを忘れてはならない。彼の歴史的アイデンティティーの基本はそこにある。そして、イスラエル人はユダヤ人なのだ。では、イエズスはどうするのか?彼はそれを解決できるだろうか?

モロッコの首都ラバトでみた 
  エルベズ・モスクのミナレットにあった3宗教の球の串刺し


 下は王族専用のモスク。エルベズ・モスクという。ミナレットの上にある●は、下からイスラム、キリスト、ユダヤのそれぞれの宗教を示す。また竿が指している三角形の方向はアラビアのメッカである。

 これはモロッコ中のあちこちのミナレットで見ることになった。


ラバトの王宮の隣にあるモスク
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Coolpix S8

 エルベズ・モスク, ミナレットの頂上部分の拡大。


エルベズ・モスク, ミナレットの頂上部分
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Coolpix S8


出典:青山貞一・池田こみち:幻想の国北アフリカ モロッコへの旅

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくる大審問官の話からヒントを得て、私はイエズスが再び地球を歩く姿を見ている。ロシアの作家が思い浮かべた異端審問のセビリアではなく、今日のエルサレムをである。しかし、これは聖書が預言した再臨ではない。イエズスは、炎の剣を持った天使に護衛されて栄光のうちに現れるわけではない。イエズスは一日だけパレスチナを訪れる。そして、誰もが彼の動きに気付く。「神の子よ! 私たちを助けてください!」、とキリスト教徒は叫ぶび、「預言者イエズス、マリアの子よ!我々を虐げている者たちを打ちのめしてくれ!」と イスラム教徒が叫ぶ。膨大な数の群衆が彼の周りに集まってくる。イスラエル軍が心配するほどの人数である。イスラエル軍の将校が「あの狂人を逮捕しろ!」と命令する。そして、救世主は捕らえられ、軍の牢獄に閉じ込められてしまった。

 イスラエル人は仲間のユダヤ人(イエズス)に「君は我々の仲間だ、見知らぬ人。我々と同じヘブライ人だ」と自衛隊の屈強な尋問官が囚人(イエズス)に向かって言う。「なぜ問題を起こしているんだ?厄介なアラブ人に何の関心があるんだ?」大審問官の話のように、イエズスは黙っている。彼と心の閉ざされた警官との間で言葉を交わして何になるというのだろう。しかし、イエズスの聖なる心は、パレスチナ人と自国民の両方に対する愛で燃えている。それがあるべき姿なのだ。教会が何世紀にもわたって、イエズスのユダヤ人としての性質を無視してきたことは残念なことだ。あるいは、そのことを無視してきたことも事実だ。これは大きな間違いだ。なぜなら、イエズスは本質的にユダヤ教の救世主であり、キリストだからである。多くのユダヤ人はイエズスをそのように認識していた。拒絶する者もいたが、それは神聖な計画の一部だったのだ。

 では、イエズスは何をするのか?天国から天使の軍団を召喚してイスラエルの自衛隊を懲らしめる?昔、ゲッセマネの園でそのような行動を取ることができたのに、彼はそうはしなかったのだ。超自然的にイスラエル人を改宗させるかもしれない?キリスト教徒になるのか?実際に「イエズスのためのユダヤ人」が周りにいて、それは可能だが、強制的な行為となるだろう。好むと好まざるとにかかわらず、ユダヤ人は十字架を受け入れることを好まない。異端審問では、スペインのユダヤ人(ムーア人も)を教会に強制的に入れようとしたが、ほとんどの人は抵抗した。あるいは、公の場では偽のキリスト教を実践し、プライベートでは先祖代々の宗教に固執した。ユダヤ人の意識の中には、洗礼を敬遠するものがいる。聖餐式は彼らにとって異質なものなのだ。それを受けようとしない。理由は複雑だが、それは事実である。

 救世主はジレンマに陥っているのだろうか。彼はパレスチナ人への暴力を止め、彼らを認め公平に扱いたいと思っているが、同時にユダヤ人として自国民を傷つけることはできない。ユダヤ人がどれだけ苦しんできたかを知っているからだ。迫害、ポグロム、拷問、ホロコースト、イエズスはそれらすべてを知っている。ユダヤ人が他の民族に対して不公平な態度をとったことを彼は悲しんでいるが、この悲惨な状況を解決するために彼に何ができるだろうか?

 私はこのことを考えているが、行き詰まりを感じている。まるで、あの有名な鍵のかかった密室に閉じ込められたときのように......エウレカ(発見した)!禅的な直感が、隠された出口の扉を開けてくれる。先日、私はタンザニアのアル・クッズ・デー(ラマダン期間中の最終金曜日)に関するオンライン・ディベートに参加した。もう一人の参加者はネトゥレイ・カルタ(Neturei Karta)のラビだった。それだ!ネトゥレイ・カルタの見識のある・悟りを開いたユダヤ教徒がやってくれる!


注)Neturei Karta(ナートーレー=カルター、ネトゥレイ・カルタ、ナトレイ・カルタ(נָטוֹרֵי־קַרְתָּא nāt‘ôrēy-qartā’, アラム語:Neturei Karta,都市の護衛もしくは聖都の守護者)はいかなる形式のシオニズム及びイスラエル国家にも反対しているハレーディームの組織で、1938年に設立された。他の反シオニズムも含む正統派ユダヤ教徒からは反イスラエル活動家と非難されている。

『ガーディアン』紙に拠れば「超正統派の中の超正統派のグループであり、ネトゥレイ・カルタは過激派と看做されている。」 人口は5000人以下で、エルサレムに集中している。他にも関係はあるがメンバーでない小さな集団がイスラエル、ロンドン、ニューヨーク市、およびニューヨーク州内などに住んでいる。


説明すると、「Neturei Karta」はヘブライ語の表現で「都市の守護者」という意味である。厳格な正統派ユダヤ教の中の運動だ。外見は同じハレーディ派のユダヤ人のように見える。カフタンや黒いスーツ、白いシャツ、フェドラハット、三つ編みの髪、長いヒゲ。激しい反シオニストであるネトゥレイ・カルタのユダヤ人は、パレスチナ人と一緒にデモを行い、平和的にではあるが、イスラエル国家の終焉を求めているのが見られる。律法やラビの教えに基づき、シオニスト国家は力ずくで樹立されたものであり、神への反逆であると考えている。ユダヤ人が聖地に行くのは、国や原住民が自由に求めてきたときだ。もちろん、彼らは救世主の到来を待っている。メシアニック・ジューとでもいうのだろうか。

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注)メシアニック・ジュダイズム(Messianic Judaism)
異邦人キリスト教会がもたないユダヤ人の民族としての特徴を保持したまま、ギリシャ語でイエス・キリストと呼ばれるヘブライ語のイエシュアを、救い主(メシア Mashiach)として認めるキリスト教信仰。ユダヤ人としてのアイデンティティーを保ちながら、イエシュア(イエス)をメシア(キリスト)として信じる人々のことをメシアニック・ジュー(Messianic Jew)と呼ぶ。
ユダヤ教の一派を自認するが、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の成就であるとして新約聖書を受け入れることから、大方のユダヤ教の立場からは異端視されている。イスラエル最高裁判所(英語版)は1989年に、メシアニック・ジューは帰還法の適用対象としてのユダヤ人に当たらないとの判決を下している。信徒数は全世界で35万人程度、そのうちアメリカ合衆国において17万5千人から25万人程度、イスラエルでは1-2万人程度と見積もられる。
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ドストエフスキーは物語の最後で、大審問官に、教会への脅威としてイエズスを焼くことを控えさせている。代わりに彼はイエズスを街の路地に解放する。救世主は無言で消えていく。司祭はもっと楽観的だ。私はユダヤ人であるイエズスに、イスラエルの兵士たちにユダヤ人であり続けながらも、より優れた、崇高で解放的なユダヤ教を受け入れるよう、ダイナミックに指示させている。ネトゥレイ・カルタのそれだ。武器は彼らの手から落ち、彼らはパレスチナ人の権利を認め、支配者としてではなく客人として聖地に留まることを受け入れる。それはあなたの心をつかまないか?

キリスト教シオニストと呼ばれる、あの非常に愚かな一団は、この結論を嫌うだろう。多くのイスラム教徒もこれを軽蔑するだろう。単なる無駄な空想に過ぎないと反発するだろう。進むべき道は、武力によるジハードで勝利に導くことだ、それ以外に何がある?と。

世界の既存の力関係を考えると、とても素晴らしいことだ。実際、私のビジョンはより刺激的で、より真実味があると感じている。ユダヤの救世主である私のイエズスの知恵は、賢者の知恵や暴力に勝るものだ。神の思し召しで、イエズスはそれを解決してくれるだろう。