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東北シリーズ(2)
「街並み景観づくり100年運動」
山形県金山町 その3


阿部 賢一

2007年9月9日


8. シェーネスハイム金山
金山町役場から神室ダムに通じる道をしばらく行き途中で左側に入ると、「グリーンバレー神室」である。
そのなかに長期滞在型のホテルがある。それがシェーネスハイム金山である。
金山町は地域間の交流、とりわけ都市との交流人口の増大を目指して「グリーンツーリズム」を推進するために、平成9年(1997年)、地元関係団体を主体とした金山町総合交流促進協議会を設立。「グリーンバレー神室」(キャンプ場・テニスコート・スキー場)を整備し、四季を通じて都会と地元の人々の体験交流の核としてグリーン・ツーリズムを推進してきた。平成10年(1998年)7月、総合交流促進施設「シェーネスハイム金山」(長期滞在型宿泊施設や日帰り温泉)を整備した。この施設は金山町が建設、JR東日本と共同出資した第三セクター「グリーンバレー神室振興公社」が運営している。JR東日本がホテルのマネジメントを行っておりJR東日本グループのホテルとして宣伝している。JR東日本が鉄道もないこんな山間地のホテルを運営している唯一のケースである。
山形新幹線が平成11年12月新庄駅まで延長、開業した。ホテルでは新庄駅から観光客の送り迎えをやっている。新庄駅から国道13号経由、車で約40分。JRの駅からも遠い山里にJR東日本グループのホテルがあるのはここ一ヶ所だけである。
シェーネスハイム金山の宿泊者数は、平成12年度10,800人から平成14年度11,700人へ拡大したが、最近、スキー客の減少で宿泊客は減少傾向にある。


出典:山形新聞 2005/4/08
建物は、町関係者や地域住民の海外研修旅行の見聞などから、ドイツアルプスの宿泊施設風を採用した。


ホテル「シェーネスハイム」 撮影:2007/6/15
スキーシーズンと夏休みが最盛期。訪れたときは閑散としていた。緑のゲレンデを見通せるレストランの「山菜夕食コース」はなかなか美味であった。

シェーネスハイムから廊下が通じて行ける日帰り温泉施設「ホットハウスカムロ」は朝6時から営業開始。
宿泊した翌朝6時過ぎにもこの温泉に入浴したが、すでに先客あり。地元の方々が数人、すでに入浴中であった。金山町には他に温泉がないのでこのホテルに併設の「ホットハウスカムロ」は中心街から一走り、地元の人々にも愛用されているようだ。

9. 共生のむら 杉沢
(1) 栗田御夫妻に会う
翌日(6月16日)、グリーンバレー神室からくだり、「遊学の森」から右折して谷間をしばらく下ると、中田春木川を渡る。左に下れば国道13号線、右に登れば「共生のむら 杉沢」である。今回のもうひとつの目的は、この「共生のむら 杉沢」の栗田和則・キエ子ご夫妻をお訪ねすることであった。

杉沢集落は整備された田圃が美しい。川の向う側に一軒がある他はこの西側道路沿いにある。現在戸数十三戸。標高は約200m〜240m。約三十町歩の立派に耕地改良がなされた水田と約三百町歩の山林がある。
杉沢では「金山型住宅」は集落の最初に目に入る片桐家だけである。その他の家々は古く相当に年月を経ている。

杉沢集落の一番奥の築二百年の栗田宅、そして民宿用建物、その間の奥に「暮らし考房」の三棟がある。
いずれも、持ち山の杉で建てた金山の伝統的な住宅であるが、[4.]で述べたいわゆる「金山型住宅」ではない。
杉林を背にして落ち着いた里山の民家の風格がある。カメラで撮ったつもりだったが失敗。残念ながらファイルに残っていなかった。
栗田氏は御両親、長男夫婦、そしてお孫さんと四世代家族、ここで生活している。

金山町役場HP『自然と遊びの達人 金山28人衆と山里自然体験』*のトップに栗田御夫妻の「暮らし考房」が紹介されている。
* http://www.town.kaneyama.yamagata.jp/shizen/

栗田和則氏は二十代後半から農家の自主的なグループ活動を通じて、広く農業関係、林業関係の人々との交流を積極的に拡げて現在に至っている。
若い頃、積雪で登校できないために設けられた杉沢集落の「冬季分校」では集落の子どもたちのために代用教員を務めた。その後、教え子たちは全員集落にとどまり、「共生のむら すぎさわ」の主要メンバーに成長しているという。
現在「共生のむら すぎさわ」代表、山形グリーンツーリズム推進協議会会長、山形大学非常勤講師を務める。最近の里山ブームと「むらおこし」の実践リーダーとして、新聞・雑誌に紹介されることも多い。地元山形新聞では、たびたび特集コラムでその活動が紹介されている。
妻のキエ子さんは、山形県関係審議会の委員を務めた。NHK「ラジオ深夜便」にもレギュラー出演。「暮らし考房」主宰で「本藍染め」「草木染め」の先生である。
ご夫妻とも地元で「むらおこし」の実践、そして全国に向けての情報発信・交流を積極的に行っている。

本年5月に群馬県上野村で開催された『2007森林フォーラムin上野村』*を主宰した哲学者・内山節氏も、栗田氏と「共生のむら すぎさわ」に深く関わっている。
* http://eritokyo.jp/independent/abeken-col1048.html
筆者は5月に『2007森林フォーラムin上野村』に参加した後、次は「金山町」を訪ねようと決めていた。

(2) 手づくりの「山里哲学講座」
昭和15年(1940年)、社団法人農山漁村文化協会が設立され、昭和46年(1971年)にいたり、東北農文協が設立された。その翌年昭和47年(1972年)、農家グループ(交流会)による中期講習会が東北ではじまり現在もつづいている。この講習会は2泊3日の勉強会である。講師は当初守田志郎氏がつとめた。守田氏が亡くなった後は内山節氏などが引き継いだ。

二十代後半の栗田氏は仙台で開かれたこの講習会に参加した。守田氏は、「工業」と対比して用いられる「農業」という言葉に違和感を持ち、「農耕」であるという、ユニークな農業経済学者であった。農家に「儲かる農業(今風に言えばビジネスとしての農業)」はありえない、「農の循環」を主張し、現在の我国農村の疲弊・過疎を見通した独特の、時代の先端を行く我国の農業の行く末を問題提起した学者であった。守田氏は昭和52年(1977年)、53歳で亡くなったが、著書が多数農文協などから出版されている。

守田志郎氏は「循環の農業」を次のように述べている。
農業を守ることは土を守ることなのだと思う。農業を守るために一番大切なのは、土を守ることなのだ。
土を守るということは、部落を大事にすることなのだと思います。日本だけについて考えてみますと、小農的な農業と土とそして部落とはどれも欠かすことのできないものなのだと思うからです。
土を守るということには、さしあたり二つの意味があると思うのです。
一つは、「土の農業」をまもるということ。
もう一つは、「土を土地として奪われない」ということ。
循環の農業における環を次のように考えています。
一つの循環の環は、農家の人の生活と田畑や山での作物や家畜や蚕の成育との間の循環です。

次の大切な環は、作物相互の間の循環です。一つの作物、そして他の作物と、そうした作物の順繰りの生育が土の力を養っていく基本になるわけで、その場合、具体的には作物の根の生きている間の働き、枯れた後つまり残根としての働きが大切なわけです。しかし、この原理は、専作によって完全に打ち壊されてしまうのです。

次の環は、耕地と耕地以外の要素との間の循環です。家畜とか蚕とか、そうしてもう一つ草生です。草生というのは、ここでは、野山の草地から河川の堤防や路肩・あぜみちの草の生育をいうのです。一応部門間の循環ということにしますが、この環の分断は今日致命的と言ってもよいくらいの状態になっているわけです。それは家畜の多頭飼育に最もよく象徴されています。

これら三つの環は別々に存在するのではなくて、どれか一つが満足されるためには、他の二つの環がどうしても必要なわけです。つまり、農業における農業的循環というのは、この三つの環の結びつきによってはじめて成り立つわけです。
この結びつけが弱くなってくると、それだけ農薬とか化学肥料への依存度が強くなってくるし、機械への必要以上の期待が強くなり、農業の自己喪失状態がひどくなるのです。循環の三つの環の結びつきを期待するならば部落がなければどうにもならないのです。部落はこの三つの環の回転を結びつける軸のようなものであるし、三つの環の回転を包み込んでいる器のようでもある。
守田志郎著『小農はなぜ強いか』農山漁村文化協会 1975年10月刊----182-184p
三十年以上も前に、「儲かる農業、儲ける農業」「拡大営農」が喧伝され、山村の過疎化を懸念した守田氏は、我国の農業が原点に戻ることを強く主張したのである。
しかし、現在の農政は、工業中心の経済界からの圧力で、農業の経営規模を拡大して生産性を高めることを目指している。すなわち、2015年までに、原則4町歩以上の個人農家を05年比七割増の33〜37万戸にする目標を設定。農地を持ち寄って20町歩以上にして、共同で農業経営をする農家の集団を、最大四倍の2万〜4万に増やす構想である。欧米や発展途上国の大規模ビジネス農業との競争性を高めるとしている。またも繰返される中央官僚の我国の農業の実態を無視した卓上プランである。
守田氏の『小農はなぜ強いか』を熟読すれば、そんな農政は空理空論に過ぎないことがわかる。

守田氏はたびたび栗田氏の家を訪れ、その著『むらの生活誌』(農文協刊)では、栗田氏の家族をモデルに家族やむらにおける"座"を論じた。

栗田氏は守田氏と出会うことで、「儲かる農業の呪縛から解放され、豊かに暮らす農林業を目指すようになった。同時にこの小さな山里に生きる心が定まった」*と、述べている。
* 栗田和則さん 暮らし考房(山形県金山町)
http://www.sansonkigyou.net/2007/02/post_41.html

内山節氏(哲学者)の記憶では、昭和60年頃(1985年)、上ノ山温泉で開かれた農林業問題のシンポジウムのパネリストとして出席していた折、その休憩時間に栗田夫妻が面会を求めた。そして、東北農家の「中期講習」の講師を要請された。昭和63年(1988年)、守田氏を引き継いだ内山氏は仙台の「中期講習」で講師を務め、現在に至っている。

栗田氏ご夫妻は平成5年(1993年)、自分の山から杉を切り出して建てたログハウスに「豊かな暮らしを問い、創造し、伝えていく活動」の基地「暮らし考房」の看板を掲げた。

平成6年(1994年)から、いまでは公民館になっている旧冬季分校で、毎年八月に杉沢集落の人々が主宰する一泊二日のシンポジウム「山里フォーラム」が開催されている。内山氏が講演、その後は交流会である。
現在では、東北各地、関東、遠く北海道、西日本から人々が参加する。
内山氏が最初に講演を頼まれたとき、栗田氏夫妻は「とりあえず十年間続けてくれ」といったという。「むらは何でも十年が一単位なので」「十年続けてもむらには何も残らないかもしれない」といった。内山氏は「面白そうですね。やりましょう」と快諾した。
「十年間」という栗田氏のことばには、自然とともに生きる、自然のように生きる、その中でゆっくりと暮らしている「とき」の歴史に積み重ねてきた想いがにじみ出ている。

「山里フォーラム」一日目の第一部は杉山氏の哲学講座、第二部は参加者からの地域の現場報告、第三部は車座になっての酒と議論の場。二日目は「悠遊体験すぎさわ」で、初期には藁や蔓細工等の体験、それが森づくり活動に発展した。それが四年後には「体験と民泊の共生のむら」につながった。
この「山里フォーラム」も十一回目から「内山節の山里哲学精舎」の公開講座と看板を一新し、続けられている。

(3) 山間地の生き方
栗田氏の活動には積極的な現地調査と多方面にわたる人々との交流がある。
昭和45年(1970年)、杉沢集落にダム問題が持ち上がり、中田春木川の流量と雨量の調査が始まった。父親が区長をしていた関係で、自宅前に設置された観測装置の資料を県庁に送るのが栗田氏の仕事だった。減反政策が始まった年であり、ムラは大揺れになった。栗田氏はダム問題をかかえている現地を訪れて問題点を調べたりもした。ダム建設は立ち消えになった。それから三十五年、十八戸だった杉沢集落は十三戸になった。
スギの植林適地が少なくなると、無理な拡大造林をやめて、森の活かし方を模索する。

「特産品タラの芽」
スギの適地は植え尽くし、人口林率も70%に達したので、栗田氏は拡大造林をしないことに決めた。そして、広葉樹や、いまある森をそのまま生かす方策を探した。
その手始めに、広葉樹の伐採後に植えるタラノキの利用を考えた。スギとタラノキの混合林を育てた。
翌年、ビニールハウスの中で芽を育だてた。試作と情報収集、人々の手助けも借りた。たらの芽が山間地の冬の仕事に向いていると確信した。昭和61年(1986年)、仲間と十人で研究会をつくった。品質の良い苗根を集めるのに、農家の秘密主義に壁に苦労した。新規作物導入県補助金も獲得した。植付け苗一本につき一円の販売対策費の拠出を提案し仲間に受け入れられた。

「金山は新参者」ということで、三つの対策、その一、一ランク上の差別化。その二、ゴールドシールのイメージ作り、パックの左上に金のシールを貼る。その三、出荷量に応じた販売対策基金を設け、市場対応に当たる。研究会拠出金とは別に出荷1パックに付き五十銭のこの基金は、販売は農協任せにしないで生産者自身が売る努力をするというのが目的である。市場訪問や市場職員の産地指導に活用する。

栗田氏は当時全国林業研究グループ連絡協議会副会長をしており、会議のために毎月上京の折、築地や神田の市場を訪れて関係者との信頼関係を築いた。

出荷を始めて3~4年で「たらの芽を最も早くから遅くまで出荷する産地」との評価を得た。「質の金山」といわれるようになり、築地や太田市場では最も高値の産地になった。

出荷を始めて二年目、昭和63年(1988年)、「たらの芽は女性が主役」と、女性の名前で出荷し、助成の口座をつくってたらの芽の販売代金をその口座へ入金することを薦めた。
翌年には「たらの芽植えて海外へ行こう」と出荷1パック5円の「たらの芽基金」をはじめた。これは大分県大山町の町長が「梅栗植えてハワイへ行こう」のキャッチフレーズを借用した。

約束の平成5年(1993年)年1月、自らの積立金に加えて、県、町、JA金山、その他からの寄附金も集まり、女性たちの第一回海外研修旅行(ヨーロッパ)として実現した。
海外研修はそれから四年後、平成10年(1998年)、第二回「おやじたちの中国」、平成14年(2002年)第三回「女たちのアメリカ西海岸」と続いた。

「たらの芽」を商品化した金山山菜研究会は、当初から「誰にでも見せます、誰にでも苗木を提供します」と公開してきた。
それは「指導してくれた先輩への恩返しでもあるし、農業には独占はない、また、外部に秘密にすることは内部も秘密主義に陥る、それは技術の向上を妨げる。」という考え方である。

視察者は全国から訪れた。それらの人々とさまざまな情報を交換する機会でもあった。
たらの芽の出荷を始めて三年目、栗田氏はダメになった産地を現地視察した。そこで得た結論は、タラノキは短命で連作を嫌うこと、そして産地は移動することを確信した。タラノキのつぎを探し続け「雪ウルイ」に到達。その「雪ウルイ」も5年目を迎え、市場評価も高まり、生産も伸び、金山を含む最上地方の特産物に育ってきた。
たらの芽の生産はもう二十年、日本一の高値の産地との評価を得ている。
*この項出典:栗田和則他著『十三戸のムラ輝く』全国林業改良普及協会 2006年12月刊 20-30p, 75-78p,

(4) 『十三戸のムラ輝く』
栗田御夫妻をお訪ねする前、インターネットで検索して情報を入手し、お会いしたときは、キエ子夫人がふるまってくれたメープルサップ「ふうろ(楓露)」を頂きながらそれらを確認する会話でもあった。
もう一つ昨年末に全国林業改良普及会から出版された『十三戸のムラ輝く』を一冊購入し、お土産にメープルビール(ふうすい)を4本購入した。

内山節氏が十数年前「メープルシュガーでコーヒーが飲めたらいいね」と語ったのがきっかけで栗田氏はいろいろ国内状況を調べた。平成10年(1998年)、林野庁主催のアメリカ・カナダ林業視察研修団長として派遣され、コネチカットのカエデの森とシロップ加工場を訪。シロップでは到底太刀打ちできないと、樹液のまま利用する方法を模索した。平成11年(1999年)、日本初の自然飲料メープルサップ『如月・楓露』を誕生させた。その2007年ものを栗田ご夫妻が振舞ってくれたのである。楓の樹液を採取する暮らしをサポートする「メープルトラスト」が生まれた。メープルサップが縁で、隣県の酒造会社で地ビールの『メープルビール楓酔』が誕生、今年は1,600本製造、在庫も少なくなって完売も近い。帰宅後飲んだメープルビールは、地ビール特有のくせがなくノド越しが爽やかだった。
森と関わる暮らしがまた一つ増えた。
集落の人々、そして外部の人々とのネットワークを広げていく栗田氏の手法がまた一つの「特産品」を生み出した。

三宅岳氏(写真家)が平成16年(2004年)5月から一年間、季節の折々に数回にわたって杉沢集落を訪れ、集落の人々の暮らしと自然を撮った写真をベースにして、栗田御夫妻、三宅氏(写真家)、内山節氏(哲学者)が杉沢集落の暮らしについて書いたのが、昨年末に出版された栗田和則他著『十三戸のムラ輝く』である。
栗田氏が、「こんな本が出るようになって」と感慨深そうにつぶやいていたが、スローライフへの回帰が世の中の関心事になったということだ。

内山節氏の原稿が遅れに遅れ、本来ならばもっと早く出版されたのだがというのが三宅氏のぼやきもある*。
* http://homepage3.nifty.com/GAITEN/page067.html

『十三戸のムラ輝く 山形県金山町杉沢集落』全国林業改良普及協会 2006年12月刊
http://www.ringyou.or.jp/mail-maga/ISBN4-88138-164-4.html
**** 書中には三宅氏の四季折々の杉沢集落の自然と人々と暮らしの写真が多数挿入されている。******

栗田御夫妻と歓談中に、グループの訪問者が道路際で、栗田氏御母堂から山野草の説明を受けていた。
[8. シェーネスハイム金山]の項で紹介した、同ホテルの宿泊客や金山町訪問者を対象に金山町では山里自然体験コースが設けられている。
案内人の金山二十八人衆には、杉沢集落の栗田氏ご夫妻の「暮らし考房」、栗田貞治御一家の「やまと工房」、片桐久志氏親子の「片桐農園」、栗田梅吉御夫妻の「生活資料館」が加わっている。
しかも、すべて予約制である。これは、そこに暮らす人々の生活が中心であり、喧騒な観光に振り廻されて、日常の山郷の暮らしのペースを乱さない姿勢を堅持しているからでもある。
(つづく)