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東北シリーズ(2)
「街並み景観づくり100年運動」
山形県金山町 その5 補遺


阿部 賢一

2007年9月9日


ロマンチックな雰囲気の場所:金山
今から百年前、イギリス人女性イザベラ・バードは「健康回復の手段として効き目のあった外国旅行を勧められたので、私は日本を訪れてみようと思った」と、1878年(明治11年)4月、日本を訪れた。
彼女は「それは、日本の気候がすばらしく良いという評判に魅かれたからではなく、日本には新奇な興味をいつまでも感じさせるものが多くて、健康になりたいと願う孤独な旅人の心を慰め、身体を癒すのに役立つものがきっとあるだろうと考えたからである」と「日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan)」*の「はしがき」に書いている。

* イザベラ・バード著『日本奥地紀行』平凡社刊2000年2月刊

英国における『日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan)』初版は1880年(明治13年)。評判がよく翌年までに四版を重ね、1885年に普及版、1905年には廉価版が出され版を重ねた。彼女の描いた東北の農村、北海道のアイヌの人々の生活を知る好著である。

バードは本書執筆後、1894年から1896年までに五回ほど日本を訪れ、東京、京都、大阪、熊本、長崎などのほかに奥地の山村を旅行し、最初の旅行から二十年を経た日本の進歩を見た。

彼女は『日本奥地紀行』で、横浜から東京経由、日光から新潟を経て小国経由で米沢に入る。そして上ノ山、新庄を経て、金山に到着、次のように書いている。
今朝新庄を出てから、険しい尾根を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った。ピラミッド型の丘陵が半円を描いており、その山頂までピラミッド型の杉の林でおおわれ、北方へ向かう通行をすべて阻止しているように見えるので、ますます奇異の感を与えた。その麓に金山の町がある。ロマンチックな雰囲気の場所である。私は正午にはもう着いたのであるが、一日か二日ここに滞在しようと思う。駅亭にある私の部屋は楽しく心地よいし、駅逓係はとても親切であるし、しかも非常に旅行困難な地域が前途に横たわっているからである。*
* 『日本奥地紀行』第十九信「金山にて」(7月16日) 228p
5月下旬、彼女は案内の伊藤とともに横浜を出発、旅では、蚤、蚊、蝿などに悩まされ続けてきたので、この金山で数日間休養した。

ピラミッド型丘陵というのは金山三峰のことであり、三つの三角形の山が連なっている。その最高峰の薬師山(標高436m)からは金山町が一望できる。


出典:http://www.shibatake.com/shibatake/

そして7月21日、金山を出発した。
金山の戸長が、頼まれもしないのに、村中に触れを出して群衆が集まらないようにしてくれていた。そこで私は、駄馬一頭と車夫一名とともに平穏に出発できた。」*と。そして、険しい二つの峠(主寝と雄勝)を越えて院内(秋田県)へと旅を続けていった。
*同上書第二十信「神宮寺にて」(7月21日)234p
旅の途中では、いつも物見高い村人の視線に曝されてきた彼女に金山の戸長は気配りをした一節である。
バードは、それ以後も、東北各地、北海道で物見高い里人たちの目に曝されつづけたことを考えると、当時の金山の人々、そして、それを取り仕切った戸長の対応がすばらしい。

金山町役場の奥に位置する金山小学校校門を入ると、イザベラ・バード記念碑が、同女史来訪百年を記念して建てられた。
この記念碑の前で写真を撮ったつもりだったが、残念ながら失敗したので、『バード探しの旅紀行』*のサイトを紹介するとともに、そのサイトに掲載されているバード記念碑をコピーした。
* http://www13.plala.or.jp/r-shirakami/index.html


出典:
http://www13.plala.or.jp/r-shirakami/0800.html

金山郷は、室町時代の大永(1521-1528)より天文年間(1532-1555) は鮭延領として、秋田仙北小野寺氏の一門佐々木氏に属していた。天正9年(1581)、最上出羽守少将義光は佐々木氏を破り、金山の地に丹与惣左エ門政直をして金山城を築城させ仙北の備えとした。
元和8年(1622)、最上氏はお家騒動で改易、戸沢政盛*が新庄藩主に封ぜられた。以来、明治4年の廃藩置県に至るまで250年間、戸沢氏の領するところとなった。

戸沢藩政時代は現在の金山及び及位を併せて金山郷といい、金山に代官所を置き、その下に組頭の制度を設けた。明治4年廃藩置県が行われ、金山に戸長,副戸長を置いた。

*戸沢政盛は秋田角館城主であったが、関ヶ原の戦いの折、徳川家康に味方し、大いに戦功を挙げたとの理由によって、慶長7年(1602)、茨城県高萩市(4万石)を賜り、その後二万石を加増されて新庄に移り六万石の城主となった。
戸沢政盛は金山郷の谷口銀山を開発。その最盛期は、藩政初期の寛永から慶安年間にかけて(1624-1652)とみられる。

谷口銀山跡は、金山28人衆にも加わっている「谷口銀山史跡保存会」が坑道探検の案内をしている。
付近の集落には廃校になった小学校を利用して、これも金山28人衆「四季の学校 谷口がっこそば」がある。
お母さんたちがそば打ちを教えてくれる。漬物や煮物も絶品だと宣伝している。

明治22年の市町村制実施により金山村となり、大正14年1月1日、町制を施行して以来、合併することなく現在の金山町の姿になっている。

金山町では、最近教育界で話題となっている中学校と高等学校を統合して中・高一貫教育に取り組んできた。
金山町には山形県立金山高校がある。
昭和55年,56年には、金山町は山形県の指定を受けて、すでに「小・中・高」の一貫教育に着手し、「適時適育教育」が推進されてきた。現在、それは金山町で実践している「新適時適育教育」に引き継がれている。
平成10年10月、山形県教育委員会より中高一貫教育実践研究協力校に指定された。
その後二年間、中高一貫教育推進校に指定され、中学校、高校、町役場が三者一体の組織をつくり、さまざまな企画が立案され試行錯誤されながら実践されてきた。この間、中・高六年間の指導計画が作成された。
平成12年度には「金山町インターンシップ協力会」が設立された。
平成13年度には金山町地域連携学習協力(高校では「金山タイム」)が設立された。
また、同年度には文部科学省が「研究開発学校」に指定し、「綜合的な学習の時間」を軸とした研究が深められた。
平成16年度から三年間、研究開発学校の指定を引き継ぐ形で、中高一貫教育改善充実研究事業が始まり、平成18年度で中高一貫の研究指定は終了した。
しかしながら、生徒減少、新庄市への通学が便利になるなどの影響で廃校の危機にさらされているが、最近の地元テレビの報道では、平成19年度もかろうじて存続することになったようだが、先行きは不透明。
山形県内では過疎の進行とともに、小・中・高校の整理統合、すなわち休校・廃校化が加速している。
金山町のこれまでの教育に対する取り組みを見ても、山村過疎化の苦悩の実態がにじみ出ている。

金山町におけるこれまでの地域教育の取り組みについては下記のサイトに詳しい。
http://www.kaneyama-h.ed.jp/presentation/presen01.html