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地図に見る日本の侵略

(日中戦争)

Invasion Map of Japan

青山貞一 Teiichi Aoyama
Oct.30, 2017 拡充
独立系メディア 
E-wave Tokyo

地図は、スプートニクの「日本の侵略」と言う名称の地図をベースとして、青山貞一がWikipediaの記述内容を参考として追記し作成しました。白色がスプートニク、黄色が青山の追記です。


出典:プートニクの「日本の侵略」と言う名称の地図をベースとして、青山貞一がWikipediaの記述内容を参考として追記し作成



日本軍侵攻の広がりを示す地図
Map showing the extent of Japanese control in 1940
1928-1937



北伐後(1928年以後)の中華民国の情勢。藍色の部分は蒋介石率いる
南京国民政府の支配が強い領域。ピンクの部分は地方の軍閥の支配域。


出典:Wikimedia  Commons  



日本軍侵攻の広がりを示す地図
Map showing the extent of Japan
1940
1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)

1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)
出典:Wikimedia  Commons  


日本軍侵攻の広がりを示す地図
Map showing the extent of Japanese control
1945-1946
大陸打通作戦後の日本軍占領地域(赤部分)、
及び中国共産党ゲリラの拠点地域(ストライプ部分)






日中戦争の主な戦い(地上戦、海戦、航空戦、事件、裁判) 出典:Wikipedia

◆関東軍 1919年(大正8年)4月 - 廃止 1945年(昭和20年)
日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。大日本帝国の中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京に移転した(現在の長春市であり、司令部跡は中国共産党吉林省委員会本部となっている)。「関東軍」の名称は警備地の関東州に由来し(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味する)、張作霖爆殺事件や満州事変を独断で実行したことは、1920年代からの外交安全保障戦略を現地の佐官級参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の日中戦争(支那事変)や太平洋戦争(大東亜戦争)に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす契機となった。なお、満洲事変は、参謀本部・陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、明確な軍規違反であり、大元帥たる昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動をする事は死刑に処される程の重罪であったが、首謀者達は処罰されるどころかみな出世した。

◆張作霖爆殺事件 1928年(昭和3年、民国17年)6月4日
張作霖爆殺事件は、1928年(昭和3年、民国17年)6月4日、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、日本の関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件。別名「奉天事件」。中華民国や中華人民共和国では、事件現場の地名を採って、「皇姑屯事件」とも言う。終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件と呼ばれていた。

◆満州事変 1931年9月18日 - 1932年2月18日
満洲事変は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件に端を発し、関東軍による満洲(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)である。中国側の呼称は九一八事変。関東軍はわずか5か月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。

◆731部隊 1935年 - 1945年  詳細:731部隊関連資料集
731部隊は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験[や、生物兵器の実戦的使用[4][5]を行っていたとされている。

100部隊  1936年(昭和11年)8月
100部隊は、大日本帝国陸軍が満州の長春に設置していた、軍用動物の衛生管理・研究などを目的とした部隊のこと。組織上は関東軍に属しており、正式な名称は関東軍軍馬防疫廠。100部隊の名はコードネームである通称号「満州第100部隊」の略に由来しており、同様のコードネームは当時の日本陸軍の全部隊に割り振られていた。終戦時の部隊長であった若松有次郎の名を冠して、若松部隊と呼ばれることもある。

◆西安事件   1936年(民国25年)12月12日
西安事件は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。

◆盧溝橋事件  1937年(昭和12年)7月7日
盧溝橋事件)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。中国では一般的に七七事変と呼ばれる。この事件後に幾つかの和平交渉が行われていたが、日中戦争(支那事変)の発端となった。事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。

通州事件  1937年(昭和12年)7月29日
通州事件とは、日中戦争(支那事変・北支事変)の初期の1937年(昭和12年)7月29日に中国陥落区の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、200人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われた。通州虐殺事件とも呼ばれる。通州は北平(現:北京市)の東約30kmにあった通県(現:北京市通州区北部)の中心都市で[6]、日本(大日本帝国)が政治的目的のため北支五省で行った華北分離工作の結果、殷汝耕が南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府が置かれていた。

◆第二次上海事変  1937年8月13日 - 10月26日
第二次上海事変は、1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の「日本租界」への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。上海戦とも。中国側の呼称は淞滬會戰(淞?会?)。盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは停戦協定が結ばれたものの、7月25日の廊坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の通州事件では民間人を含む230名が虐殺されたことにより、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。この事件以後華中(中支)において交戦が拡大することになった。
◆チャハル作戦 1937年(昭和12)8月9日 -10月17日
チャハル作戦(とは、1937年(昭和12)8月9日から10月17日にかけて行われた察哈爾省・綏遠省(現在の内モンゴル自治区)とその周辺における日本軍の作戦である。7月7日の盧溝橋事件から始まった日中戦争(支那事変)で、日本軍は7月末には北平・天津地方を制圧し、華北分離工作を完成させるため、8月には北支那方面軍を編成して河北省保定(パオティン)以北の制圧を実行に移そうとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され、代わりに行われた作戦である。「察哈爾作戦」とも表記される。

◆南京戦  1937年12月4日 - 12月13日
南京戦(Battle of Nanking)は、日中戦争における戦闘の1つで、1937年(昭和12年)8月以降の上海戦の戦線が拡大し、12月に中華民国の首都南京で展開した。日本軍は中国軍を追撃し、南京を陥落させた。日本軍からは南京攻略戦。中国側からみて上海戦と南京戦を併せて上海南京保衛戰とする研究もある。この戦闘の最中に南京事件(南京大虐殺)が発生したとされ、戦後南京軍事法廷や東京裁判で訴追された。ただし、事件の内実については論争がある(南京事件論争)。

◆日ソ国境紛争  1930年代後半
日ソ国境紛争は、1930年代後半を中心に満州で起きた、大日本帝国とソビエト連邦間の国境紛争である。形式的には満州国とソ連、あるいはその衛星国のモンゴル人民共和国の国境が係争地のため、満ソ国境紛争や満蒙国境紛争とも呼ばれる。なお、日本及びソ連では一般に紛争にとどまるものととらえているが、モンゴルではノモンハン事件については戦争と評価している。

◆ノモンハン事件 1939年5月11日 - 9月16日
ノモンハン事件は、1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。1930年代に日本(大日本帝国)とソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍とモンゴル人民共和国軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。

◆ドーリットル空襲 1942年(昭和17年)4月18日
ドーリットル空襲(Doolittle Raid)は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載したアメリカ陸軍航空軍の爆撃機によって行った日本本土に対する初めての空襲である。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来する。

◆海軍生体解剖事件
海軍生体解剖事件は、1944年1月末から7月末にかけて、旧日本海軍の拠点が置かれていた西太平洋の トラック島(当時は日本の委任統治下)で、海軍所属の病院・警備隊の軍医らが、捕虜(俘虜)となったアメリカ軍関係者を「生体解剖」するなどした後に殺害した事件。トラック島事件とも呼ばれる。1947年にBC級戦争犯罪裁判(アメリカ軍グアム裁判17号)で裁かれた。

◆東安駅爆破事件 1945年8月10日
東安駅爆破事件は、1945年8月10日に満州国東満省東安市(現在の中華人民共和国黒竜江省密山市)の南満州鉄道東安駅で、野積みされていた日本陸軍の弾薬が爆発した事件である。駅構内にはソ連対日参戦による避難民多数が乗った列車が停車中で、100人以上の死者が出た。日本軍が備蓄弾薬の鹵獲を防ぐために処分した際に起きた事故と見られるが、詳細は不明である。現在の地名から、密山駅爆破事件とも呼ばれる。

◆南京軍事法廷 1946年
南京軍事法廷は、1946年に蒋介石率いる中国国民党政府によって開かれた戦犯裁判。中国で戦争犯罪を犯したと目された日本軍関係者が日中戦争中の行為をもとにこの法廷で裁かれた。

◆極東国際軍事裁判 1946年5月3日-1948年11月12日
極東国際軍事裁判( The International Military Tribunal for the Far East)とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことである。東京裁判(とも称される。

◆ハバロフスク裁判 1949年12月25日 - 12月30日
ハバロフスク裁判とは、第二次世界大戦後の1949年12月25日から12月30日にかけてソ連のハバロフスクの士官会館で6日間行われた旧日本軍に対する軍事裁判の通称。主にソ連への進攻計画としての関特演、日本の対ソ攻撃、731部隊などが裁かれた。また近年の研究では1949年12月3日付で出された判決に外務人民委員のヴャチェスラフ・モロトフが署名した資料が発見されている。

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