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スコットランド独立の背景

(5)中世の独立戦争と勝利

青山貞一 Teiichi Aoyama

September 9 ,2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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◆中世スコットランドの社会と文化  出典:Wikipedia

 マクベスをはじめスコットランドの支配者の多くがローマに巡礼したが、その後スコットランドはキリスト教世界との結びつきを強めてゆく。

 支配者層にとってローマカソリックのキリスト教の庇護はステイタスであった。教会組織が整えられ、各地に修道院がつくられた。またフランス・イングランド・フランドルなどから移民が流入し、その文化や社会制度が取り入れられてヨーロッパ的封建社会が形成されていった。

 先進的文化をもった移民の流入は、スコットランド社会の変貌も促した。ゲール語は次第に公用語としての地位を失い、支配者層は英語やフランス語を用いるようになる。

 後述するウィリアム・ウォレスの姓「ウォレス」もウェールズ系のものであった。

 先進地域の文化が導入されるなか、古来の制度も生き残った。タニストリーがその代表的な例であるが、より民衆に直結したのは動員制度だった。中世ヨーロッパの戦争は傭兵によるもので、兵士の出身国と所属国が異なることが通常であったが、スコットランドは戦争が起きた際に、支配権にもとづきスコットランド人を動員した。

 これは比較的「安価」な戦力確保を実現し、また屈強で知られるハイランド人(スコットランド北部)の動員も可能にした。当時、圧倒的な国力をもったイングランドに対抗できた一因は、この動員制度であった。

 ヨーロッパ文化と既存の文化の混在は、スコットランド内の分離も促す結果となった。ハイランドとローランドは文化の違いが顕在化しはじめ、氏族が統治するハイランドへの「野蛮」なイメージが形成されつつあったのである。


◆ウィリアム征服王が、北部のスコットランドへの侵攻を開始

 11世紀後半、グレートブリテン島南部でイングランド王国を支配するウィリアム征服王が、北部のスコットランドへの侵攻を開始する。

 以降、スコットランドとイングランドの間では両王家に婚姻関係も生まれることで、和議が図られたこともあったが、イングランドによるスコットランドへの侵攻、侵略はやまず、長期にわたり両国間の緊張が続くこととなった。

 ここで重要なことは、侵攻の大部分はイングランドによるスコットランドへのものであることだ。

 そんな歴史のなかで、13世紀(1297年)には、イングランドのスコットランド侵略に敢然と立ち向かった人物がいる。 ウィリアム・ウォレスだ。ウォレスが率いるスコットランド軍はスターリング・ブリッジの闘いでヘンリー一世率いるイングランド軍に勝利したのである。


ウィリアム・ウォレス
ウォレスは映画、Brave Heartの主人公としても世界的に有名
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


スターリング・日リッジの闘い戦力比較


スターリングの位置。南西にグラスゴー、南東にエジンバラがある。
出典:グーグルマップ

 
1297年5月、イングランド兵とのトラブルに巻き込まれたウィリアム・ウォレスは、ラナークにてイングランド人の州長官(High Sheriff)ヘッセルリグを殺害した(Action at Lanark)。

 スコットランド民衆はウォレスを支持し、イングランド支配下のスコットランドにおいて大反乱が勃発した。ウォレス率いる反乱軍は、同年9月スターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を徹底的に打ち負かし勢いづいた。

◆スターリング・ブリッジの戦い(Battle of Stirling Bridge)

 1297年9月11日にウィリアム・ウォレス、アンドリュー・マリー率いるスコットランド軍がスコットランド総督サリー伯ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍を打ち破った戦いである。 スコットランド独立戦争におけるスコットランドの初の大きな勝利であり、スコットランドの自信は回復し、ウィリアム・ウォレスの名声は高まった。スターリング橋の戦いともいう。


イングランドのヘンリー一世

背景
 ウィリアム・ウォレスは、1297年5月にイングランドに対して反乱を起こしてから何度かの小競り合いに勝利し、これに呼応して各地で反乱が広がっていたが、そのリーダーの1人が豊かな領土を有するサー・アンドリュー・マリーだった。総督ワーレンは、既に老齢でスコットランドの気候を嫌ってほとんどイングランドに滞在しており、これらの反乱の知らせを受けても、当初は軽視して対応が遅れたが、9月にイングランド軍を引き連れスコットランド中部に入った。これに対し、ウィリアム・ウォレスとアンドリュー・マリーの部隊は連合してスターリングの橋をはさんでイングランド軍と対峙した。

戦闘
 イングランド軍の騎士隊750人、歩兵18000人に対しスコットランド軍は騎士隊150人、歩兵7000人と数でもイングランドが優勢だった。しかし、ダンパーの戦いでスコットランドに大勝しているサリー伯は、兵力差以上にスコットランド軍を甘く見、橋は2人縦列で通る幅しかないにも拘わらず、別部隊を浅瀬から迂回させる提案を却下して、橋を渡っての進軍を命じた。

 スコットランド軍はイングランド軍の先鋒が橋を渡るのを待った上で、槍で武装したスコットランド歩兵が横手から橋のたもとに突撃して、敵の先鋒と後続の連絡を遮断した。孤立したイングランド軍先鋒は、ばらばらに崩され指揮官のクレッシンガムを始め、多数が戦死した。 橋を渡っていないサリー伯の本隊は無傷であり、まだ多数の兵を擁していたが、サリー伯はこれ以上の戦いをあきらめ、橋を破壊してベリックに撤退した。


スターリング・ブリッジの戦い


スターリングブリッジにおける両軍の戦い 

影響
 この勝利によりウィリアム・ウォレスの名声は高まり、まもなくナイトに叙任され、「スコットランド王国の守護者及び王国軍指揮官」に任じられる。アンドリュー・マリーは、この戦いの負傷により数週間後に死亡している。イングランドに対するスコットランドの初の大きな勝利であり、スコットランドの自信の回復に寄与した。

 この戦い以降、イングランドに味方していたスコットランド貴族の多くが反乱側につき、イングランドは支配地の多くを失った。エドワード1世はフランスとのフランドルの戦いを中止して対応しなければならなくなり、フォールカークの戦いにつながっていく。

出典:Wikipedia

 しかし翌1298年、フォールカークの戦いでイングランド軍に大敗し、スコットランド人によるこの大反乱は失敗に終わる。ウォレスはその後も7年間にわたってゲリラ戦を行い、根強くイングランドに抵抗し続けたが、1305年に捕らえられ、ロンドンで市中引き回しの上、反逆者として八つ裂きの刑に処せられた(ウォレスは今なおスコットランドでは愛国者・英雄として称えられている)。
 
 
1305年に捕らえられ、ロンドンで市中引き回しの上、


反逆者として八つ裂きの刑に処せられた

●映画「ブレイブ/ハート」にもなったウイリアム・ウォレス 

 歴史をひもとけばただちに分かるように、スコットランドはおよそ700年以上にわたり、古くはローマ帝国、続いてバイキング、そして隣国イングランド(England)からの攻撃、侵略を受け続けてきた。 その悲しみと怒りは半端なものではないはずだ。

 おそらく多くの読者は、一度はBrave Heart(ブレイブハート)という映画(あるいはDVD)を見たことだろう。多くのアカデミー賞の部門賞をとったあの映画である。 


出典:映画ブレイブハートより

 そう、メル・ギブソンが主演したあの映画だ。

 13世紀から14世紀にかけ、ウィリアム・ウォレス(William Walace)とロバート・ザ・ブルース(Robert the Bruce)の二人のスコットランドの英雄が民衆と共に一斉蜂起、イングランド正規軍を二度にわたり打ち破り、歴史上初めてのスコットランド独立を勝ち取った。


この写真は映画(Brave Heart)の一幕
Source:Movie, Brave Heart


 下はスターリングブリッジとウイリアム・ウォレスを記念したウォレスタワーである。私達は現地調査ではスターリング大学のゲストハウスに一泊した。ゲストハウスの窓からウォレスタワーがよく見えた。

 ウィリアム・ウォレスは、今なおスコットランド人の心の故郷となっていることがよく分かる!


スターリングブリッジとウォレスタワー  出典:Wikipedia

 下はスターリング大学から見たウォレスタワー。


ターリング大学から見たウォレスタワー
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8

 下はスターリング城の王位戴冠式が行われる椅子に座った池田こみち。


スターリング城の王位戴冠式が行われる椅子に座った池田こみち
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


◆バノックバーンの闘いでロバート・ブルースが勝利しスコットランドが独立

 ウィリアム・ウォレス以外にもイングランドに抵抗する者は続々と現れた。

 彼らには独自の利害があり、権力闘争に明け暮れ、連携を欠いていた。その中の一人が、マーガレット女王死後の13人の王位請求者の一人の孫、祖父と同名のロバート・ドゥ・ブルース(ロバート1世)である。

 スコットランドのロバート・ブルース一世はスコットランドの大部分を統治していた。しかし、14世紀前半(1314年)、イングランドは国王自ら大軍を率いスコットランドのスターリングへ向かい、同年6月、バノックバーンの戦いで、ロバート・ブルース一世軍に大敗することになる。


ウォレスの意志を継いで独立を果たしたロバート・ザ・ブルース
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8


ウォレスの意志を継いで独立を果たしたロバート・ザ・ブルース
出典:Wikipedia

バノックバーンの闘い

バノックバーンの闘い戦力比較

◆バノックバーンの戦い(Battle of Bannockburn )

 1314年6月24日にスコットランド王国とイングランド王国の間で行われた会戦。スコットランドに侵攻したエドワード2世率いるイングランド軍が、スターリング近郊でロバート1世が率いるスコットランド軍と戦い、大敗した。


イングランドのエドワード二世

 1272年に王座についたエドワード1世はイングランドの最も偉大な戦士王の一人であり、ウェールズの征服者、また「スコットランドへの鉄槌」であることを周囲に示した。エドワード1世はウェールズ戦争での経験から弓兵の価値を確信し、王国全土から多数の弓兵を募った。


バノックバーンの闘い


バノックバーンの闘い(1日目)


バノックバーンの闘い(2日目)

 イングランド軍による1296年のスコットランド侵攻では、エドワード1世がフランスとの戦いで不在のときにウィリアム・ウォレスの地形を利用した戦術に敗れた(1297年、スターリング・ブリッジの戦い)が、1298年のファルカークの戦いでは重装騎兵と弓兵の連携によってスコットランド軍を撃破した。

 当時のスコットランド軍はシルトロン隊形を保つ大勢の槍兵と、剣と円盾を持つ兵で構成されていたが、装備は貧弱でイングランド軍と正面から激突するには限界があったからである。ファルカークの戦いによって大惨敗を喫したスコットランド軍は、ロバート1世も服従の申し出をしなければならない状況になり、エドワード1世は戦略的に重要な拠点であるスターリング城を占拠した。

 その後、ロバート・ブルースはイングランドへの服従と反乱を繰り返し、一時はラスリン島に逃げるまで追い詰められたが、1307年にエドワード1世が死去すると、急速に勢力を盛り返してスコットランド全土で権威を確立した。

 エドワード1世の後を継いだエドワード2世は父の軍才を受け継いでおらず、決戦を避けてゲリラ戦術を駆使し、孤立した城を占領するロバート1世の戦略の前に後手に回った。1314年にスコットランド軍がスターリングを包囲する状況に陥ると、エドワード2世は大軍を編成してスターリングの救援に向かった。バノックバーンはスターリング城の南西に位置し、名称が意味する「小川」や池がいくつもある湿地帯であり、南側(イングランド側)からスターリング城へ向かうには、ここを通過する必要があった。

出典:Wikipedia


バノックバーンの闘い   出典:Wikipedia

 この敗北によりイングランドはスコットランドにおける統治権を完全に失い、1318年にはスコットランドから全てのイングランド兵が駆逐された。 

 そして、先に紹介した1320年、アーブロース寺院(Arbroath Abbey)でスコットランドはイングランドからの独立を宣言した。さらにローマ教皇ヨハネス22世も、ロバート・ブルース一世をスコットランドの王として承認した。

 こうして、スコットランドは、ブリテン島北部に独立国家をつくりあげたのである!

 以下にアーブロース宣言部分を再掲する。

◆アーブロース宣言

 ノルマン・コンクエストに始まる外との接触は、スコットランド史に新たな展開をもたらした。ひとつにはイングランドとの勢力争いが顕在化したこと、もうひとつは多様な民族の流入と社会・文化の変化である。

 ウィリアム1世らイングランド諸王はノルマン・コンクエストの延長としてスコットランドにたびたび侵攻し、ときにはスコットランドを屈服させることもあった。このころからイングランドとの抗争が日常化し、双方の境界線はハドリアヌス長城を上下した。エドワード1世のスコットランド侵攻とウィリアム・ウォレスの抵抗も、その文脈の中で起こった事件だった。
 

 スコットランドは対イングランド戦略の必要性からフランスと「古い同盟」を結んで対抗した。

 その後しばらくフランスとは友好関係を維持するが「古い同盟」はフランスの属国化を意味する体制でもあった。エドワード1世の征服により1296年イングランドに屈服して、王座のシンボルであったスクーンの石を奪われた。しかし、10年後、ウィリアム・ウォレスらが反乱をおこして独立戦争がおこった。この戦争は曲折をへて1318年には実質的独立を達成し、1328年になってイングランドとの和約も成立した。

 このとき有力諸侯によって採択され、ロバート1世が承認したアーブロース宣言(1320年)は、マグナ・カルタのごとく、その後のスコットランドの統治の根幹をなす宣言となった。いわく、イングランドに従属する王は人々の手によって斥けられるとする。この宣言はのちのちまでスコットランドの政治を左右し、国王への権力集中を防ぐ効果をもたらした。

◆アーブロース宣言( Declaration of Arbroath)

 ローマ教皇ヨハネス22世への書簡文であり、同時にイングランド王国の支配から解放されたスコットランド王国の独立宣言である。スコットランド独立戦争に勝利したスコットランドは、アーブロース寺院で1320年、これを採択して独立し、1328年にはイングランドとの間に和約を成立させた。

 宣言はスコットランドが独立国であること、その王はロバート1世であること、そして独立と自由が脅かされたときは団結してこの脅威を除くことを明記している。宣言では王は臣民の支持が必要であり、イングランドに従属的態度をとる王はアーブロース宣言によって排されるとした。これによって国王の統治権が正統性を持つようになった一方、王に権力が集中することもなくなった。


出典:Wikipedia


つづく