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  3.11以降の日本C
  
  津波被害の半分は人災
  
  高台移転が絶対条件!
             青山貞一
             政策学校一新塾代表理事
            掲載月日:2012年3月21日
                  独立系メディア E−wave Tokyo

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 以下は、2012年3月20日、東京都港区にある政策学校一新塾で代表理事、青山貞一が行った基調講演の一部である。今後、何回かに分けて基調講演の内容をお伝えしてゆきたい!




ミニ講義をする青山貞一、東京港区に政策学校一新塾にて
2012.3.20

●高台移転は復興の絶対条件である!

 歴史的教訓から言えることは、岩手県などの三陸海岸の場合でも、住民、家族は高台に移転して住み、漁業者が容易に浜辺に降りられるタイプのまちづくりが重要なものとなる。

 3.11で津波で流された多くのひとびとは、海岸近くに住んでいたひとびとである。同じ大槌町や宮古市田老地区でも明治三陸津波、昭和三陸津波の教訓から高台に移転していた人々は人命、財産ともに助かっている。

 一方、釜石市唐丹町小白浜のように、明治三陸津波で大被害を出した後、多くの漁民らが一旦高台に移転したものの、その後、巨大な防波堤が出来たこともあり、海辺に再移転した漁民らは、今回の3.11津波の犠牲となっている。

◆小白浜(釜石市唐丹町)

明治三陸津波(1896)

波高:14.6m*   *16.60m(C1934)
死者:2136人(唐丹村)
流失倒壊戸数:224戸(同上)
再生形態:集団移動

 明治29年三陸津浪に依る小白濱部落に於ける人命の被害500〜600人、家屋の被害戸數120〜130戸にして、家屋の流失、倒壞面積24800坪に及び全滅に歸せり。之が復興に當り部落民は災害義捐金を以て畑地を買收し、自力[村としては干渉せず]を以て海岸より約200m後退せる高地に移轉せしも、海岸との連絡道路其他の施設を完備するに至らざりし爲め、一且高地に移轉したる部落民中漁業を生業とする人々は日常の業務に多大の不便を感じ、漸次舊位置に下る傾向を生じたり、過々大正12年9月1日山火事に逢ひ、高地にある住宅は灰燼に歸し、高地住宅の大半は舊低地に再び移り住みたる。

 上の記述を見ると、明治三陸津波で小白浜地区は大きな被害を受け一旦、海岸より約200m背後の高地に移住したものの、不便さ、生業との関係で次第に住宅などを写し、最終的に海側の低地に移り住んだとある。

 昭和三陸津波で、高台移転の効果もあり、犠牲者は激減したが、その後、国肝いりで造成された巨大堤防ができたこともあり、高台移転した住民、とくに漁業関係者は、堤防の背後の低地に再移転した。

 しかし、東日本大震災、津波では、以下に見るように巨大堤防が中央で破壊し、背後地に移ってきた住民の多くが犠牲となった。

 下の写真は破壊された堤防部分である。なぜかこの鉄筋コンクリートの堤防は、全体が一体構造となっておらず、三角形のコンクリートブロックをつなげて構成されていたようだ。
 
 そのコンクリートブロックが曲線部の真ん中で4〜5防波ブロックが津波により陸側に押し倒されていた。下の写真はそれを横上から撮影したものである。グーグルアースの航空写真でGIS機能を使い概括的に計ると雲があり正確ではないが、合計で400m近くあるようだ。


釜石市唐丹町小白浜漁港の防波堤 撮影:青山貞一 2011.8.24


釜石市唐丹町小白浜漁港 撮影:青山貞一 2011.8.24

 さらに、下の写真はGoogle Mapの最新映像で上空から見たものである。はっきりと防波堤のコンクリートブロックが背転していることが分かる。推定でブロックの高さは10mはあり、基部の幅も10mはあると思える。また堤防の延長はかなりある。


釜石市唐丹町小白浜漁港 出典:グーグルマップ

 以下は倒れた堤防の背面から撮影した写真である。堤防がブロック化されており、ブロック化された堤防の4−5個が倒れていた。高さは推定で10m程度あり、再掲した下の写真から分かるように、横断面から見るとほぼ高さと同じだけの奥行きがあることが分かる。さらに、一つのブロックの幅(海に面する長さ)も、10m程度、すなわち1ブロックは10m×10m×10mあるようだ。


釜石市唐丹町小白浜漁港の倒れたコンクリ防波堤ブロック 
撮影:青山貞一 2011.8.24


 過去の歴史的教訓から見ると、たとえどんな理由があろうと、また漁業関係者であっても、最低限住宅部は高台に移転させなければならないと断言することができる。

 本来、国、自治体が立法措置のもと、臨海部への住宅立地を規制すべきである。規制せず、開発許可、建築許可になどを出しておきながら、津波被害が起きると1000年に一度の自然災害であるから国家賠償責任は負わないでは、国民は浮かばれない。

 
高台移転が必要ではなく、必須である!

 以下は、復興に向けての提案(イメージ)である。当然、あくまでもイメージであり、実際の地形、まちの規模などとの関係、条件を考慮するものとする。


アマルフィタイプのイメージ


ソレント(ドブロブニク)タイプのイメージ

 なお、クロアチアのドブロブニク(世界遺産)は、やはり9世紀頃にできた都市国家でまちのまわりを城壁を取り囲でいる(下の写真参照)。この20−30mの城壁はオスマントルコなどの外敵を考慮してのことだが、まさに津波を外敵と見立てれば、高い城壁はよく理解されよう。


クロアチアのドブロブニクの20−30m高の城壁(=堤防)
撮影:青山貞一

●イタリアのソレント半島、アマルフィ海岸を見習おう!

 山が海に落ちるリアス式海岸のまちづくりに参考になるのは、イタリアのソレント半島、アマルフィ海岸ではないだろうか?

 というのも、アマルフィ海岸の中心都市、かつての海洋都市国家、アマルフィは9世紀から今日までつづく、まさに持続可能な地域社会の見本、象徴であるからである。
 
 下の地形図は、グーグルアースで展開したイタリアのソレント半島及びアマルフィ海岸である。丁度、岩手県や宮城県北部のリアス式の三陸海岸に似たような地形である。

 実際には、山がすごい角度でティラニア海に落ちており、アマルフィ海岸には平地はほとんどないと言ってよい。

 下の地形図を見れば分かるが、よくもまぁ、こんな断崖絶壁におおくのまちができたものだと感心する!


アマルフィ、ミノーリの上空からソレント半島の先端(カントーネ)を見た立体図
ソレント半島の左側がアマルフィ海岸。半島の右側にソレントがある。
急峻な断崖絶壁の地形にカントーネ、ポジターノ、アマルフィなどのまちがへばりついている

 アマルフィ海岸でもっとも有名な断崖絶壁に多くの家が張り付く都市は、ポジターノ(Positano)である。下の写真は、2011年3月に歩下ー都を背景に撮影したものである。写真を見て分かるように、家、家は急な崖の途中に、へばりつくように幾重にも立っている。


断崖絶壁に立つまち、ポジターノを背景に
撮影:青山貞一 2011.3

 なにしろ、アマルフィ海岸にある道は、それこそ9世紀ころからつづく絶壁を曲がりくねって進む狭い幅の道路だけ、そこを路線バスや乗用車が走る。三陸海岸のように、世界中でこれほど道路が整備されている地域とは180度異なるのである。そんなアマルフィ海岸だが、行く人は決して立派な幅が広い、トンネルだらけの道路が欲しいなどとは考えないだろう。

 山が急角度で海に落ちる。断崖にへばりつく家々、その断崖絶壁をくねくね曲がりくねりながら走るバス。行く先々にある歴史と文化をもった漁村。そんな風景、景観こそがこの地域の財産であり、生活のもととなってきたからである。


断崖絶壁に立つポジターノを背景に
撮影:青山貞一 2011.3

 下はそのポジターノの町の中心部を撮影したものである。すべての家々は、海に向かって階段状に立っており、家と家の間は曲がりくねった5mほどの道路で上から下、下から上に繋がっている。何と言っても、イタリアのこの世界遺産の海岸のまちは、1000年近く持続していることに大きな意味と価値がある。


急峻な崖にカラフルな住宅がへばりつくポジターノの絶景 バスの中から撮影した懇親の一枚
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S10

 ひとびとは、急峻な崖とほんの少しの海岸線沿いのV字型の底にある平地のなかで、石でまちをつくり1000年以上、漁業と農業(レモン、オレンジ、オリーブ)、それに観光で生きてきたのである。今やその断崖せっぺきが海に落ちるという、特異の地形とすばらしい歴史文化と自然がおりなすまちは、世界遺産として欧州のみならず、世界各国のひとびとの観光の垂涎の的となっている。

 下はアマルフィ海岸の中心地、アマルフィのまち並である。やはり山が海に落ちるその崖にひとびとが生活している。


アマルフィのまちなみ
Source:Wikipedia Italia

 さらに、現地で撮影した以下のアマルフィの動画をみていただくと提案している内容がよく分かると思う。ひとびとは高台に住み、漁業関係者と観光関係者が海沿いに必要なときに降りてきているのである。

アマルフィ海岸 動画撮影:青山貞一

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

 一方、アマルフィ海岸がある半島はソレント半島と呼ばれており、ソレント半島の尖端近くの北側(ナポリ側、ローマ側)にソレントのまちがある。このソレントのまちの歴史も非常に長い。「帰れソレントへ」のイタリア民謡で有名なこのまちも、漁業と寄せ木細工、カメオなどの伝統工芸、観光などでなりたっている。

 ひとびとは、切り立った崖の上に住み、エレベータや階段で下におり漁業などをしている。これも何100年とつづいてきた。


サンタニェーロ側から見たソレント
この角度でもやはり切り立った断崖絶壁の海岸線が続く

撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10

 下の写真は上の写真の反対側から見たソレントの海と陸との関係だが、漁師らは崖の上から海に降りて仕事をする。


切り立った海岸線の眺望・景観が人々を間違いなく魅了する海岸線
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10



ソレント近くのテラスにて 写真の右側はナポリ湾 2011.3
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S10

 もし、三陸の人々が本気で新たなまちづくりを三陸の地で行うなら、ぜひ、いちどアマルフィ海岸を見て欲しいものである。まちがいなく三陸の新たなまちづくりに大きなヒントを与えてくれることは間違いない。

 実際、世界中の世界遺産に数多くでかけた私たちだが、イタリアのこのアマルフィ海岸や下に示すソレント半島は、歴史、文化、地形、自然、生活の最高芸術作品であると感じている。

 ぜひ、半世紀先を目指してでも、山が迫ってくる漁師町にイタリアの経験を生かして欲しいと思う。


漁港より最低限20mほど高台に家がある。セターラにて。2011.3
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


背後には1000級の山々が。セターラにて。2011.3
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


アマルフィ海岸のセターラにて 2011.3
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S10

つづく