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<連載>
世界二大運河通航記
 スエズ運河編(2)



阿部 賢一

2006年2月6日


阿部賢一(あべけんいち)氏プロフィール
1937年、東京生まれ。68歳。シビル・エンジニアとして主として海外プロジェクト従事。海外調査・交渉・現地駐在は南米、アジア、中東諸国に二十五年以上に及ぶ。海外関係講義、我が国公共入札改革への提言、環境活動にも参加。2005年完全引退後も東京、山形(酒田)を拠点にして海外情報収集分析に励む。

5. スエズ運河建設の歴史と中東戦争

スエズ運河は、紀元前より様々な構想が出されたが、具体的なプロジェクトは、フランスの外交官出身フェルディナン・レセップス指揮により1859425日着工。10年の歳月をかけて1869年年1117日に開通した。建設には約150万人のエジプト人が動員され、うち125,000人が主にコレラによって亡くなるなど多大の犠牲が払われた。

スエズ運河を利用してアジアから欧州へ航海すると、アフリカ南端の喜望峰経由に比べて約7,400キロも航海距離が短縮できる。本船の場合、平均時速17ノット、一日の航行距離が約755キロとなるので、7日分の航海に相当する。

開通後はフランスとエジプトの共同所有とされたが、対外債務を抱えたエジプトはその持ち分を英国に売り渡すことを余儀なくされ、英国政府は、1882年には運河を保護することを理由にイギリス軍の運河の両岸に駐留を進める。このときの英国首相はティズレーリ、運河購入資金を融通したのはロスチャイルド銀行であった。以後、実質的にイギリスがスエズ運河を支配することになる。

1956726日、エジプトのナセル大統領は、スエズ運河の国有化を宣言する。アメリカから援助を打ち切られたアスワン・ハイ・ダム建設の資金を得ることを目的としたものである。諸外国はエジプトに対して海外資産凍結や食糧援助取消などの報復措置を取った。

19561029日にはまずイスラエルが国境を越えてエジプト領内に侵攻、第二次中東戦争(スエズ戦争、スエズ動乱とも呼ぶ)が勃発した。次いで1030日夕刻、英仏政府が期限12時間の停戦への最後通牒をエジプト、イスラエル両国に送付し、イスラエル軍がこの声明を入れて運河の東方16キロの地点で停止した後、英仏連合軍が翌31日にポートサイドへと上陸しスエズ運河一帯を占領する。これは、英国、フランス両国が運河の無料使用を求めて攻撃を開始したものである。

英仏両軍は事後承諾を期待していたアメリカまでもが反対を表明した事で英国国内でもこの軍事行動に反対する世論が強まり、英仏両国は地上部隊が上陸を開始した116日、4日前に国連で採択された停戦決議案の受諾を宣言し、スエズ運河での侵攻作戦を中止した。シナイ半島のほぼ全域を支配下においたイスラエル軍もまた、118日、国連決議を受け入れエジプトとの停戦に合意する。国連が派遣した緊急軍(UNEF)と入れ替わりに、英仏両国は1212日までに撤兵を完了し、イスラエル軍も翌年38日には全占領地から兵力を撤収させた。そして第二次中東戦争は終結に至る。

196765日早朝、イスラエル側が「6日間戦争」と呼び、アラブ側が「6月戦争」と呼称する第三次中東戦争が勃発した。

196765日早朝、イスラエル空軍の大編隊がエジプト、ヨルダン、シリア、イラク各国領内の空軍基地へと殺到した。この奇襲攻撃により、アラブ諸国は航空機300以上、空港、レーダーサイトなどを破壊され、アラブ諸国の航空戦力は壊滅した。

 シナイ半島に展開していた約10万のエジプト軍は、総崩れとなってスエズ運河方面への敗走を重ね、それを追うイスラエル軍は67日にはスエズ運河の東岸に到達した。広大なシナイ半島は再びイスラエル軍の手に落ちた。

一方、エジプトへの侵攻と同時に、ヨルダンとシリアに対する攻撃も開始され、66日朝、ユダヤ教徒にとって最も神聖な場所である第二神殿時代の「西の壁」、通称「嘆きの壁」はイスラエル側の手に落ち、勢いづいたイスラエル軍はその後も進撃を続け間も無くヨルダン川西岸の全地域をその支配下においた。

一方、対シリア戦線の要であるゴラン高原では、69日の未明にイスラエル軍の総攻撃が開始され、シリア軍の戦線を難なく突破したイスラエル軍は高原一帯を占領し、シリア政府は翌10日午後6時を以って停戦の受諾を宣言し、6日間で第三次中東戦争は終わった*5

この第三次中東戦争で沈没した軍艦が障害となり、以後、スエズ運河は長い間閉鎖され、再開されたのは19756月である。それ以後、運河の通航が正常化し、現在に至っている。

6. スエズ運河概要

 開通当時の水路幅は44m、水深は10m。その後数次にわたる拡張工事が行われた。1961(昭和36)、エジプトの国家プロジェクトとして始まった運河の拡幅増深工事に、我が国から「水野組(現・五洋建設)」が参加した。第三次中東戦争勃発直前の1975年から80年までのスエズ運河第一次拡張計画が最大規模であった。これには、日本政府は有償資金協力を行い、五洋建設が参加した。このプロジェクトの状況については、2003121日、NHK総合テレビ『プロジェクトX 挑戦者たち/爆発の嵐 スエズ運河を掘れ』が放映された。

 大拡張工事の結果、航路幅は89mから160mへ、水深は14.5mから19.5mへ拡張され、従来の5万トン級タンカーに替わって、15トン級が通航可能となった。その後も拡張・改修工事が続けられ、現在の水路幅は200210m、水深は22.5m、喫水22m25万トン級タンカーが通航可能となっている。

再開された1975年半年のスエズ運河通航船舶数は5,570隻、翌年1976年の通航船舶数は16,606隻、最高は1982年の22,545隻、その後は暫減傾向が続き、2002年には13,447隻、重量では、約44,500万ネットトン、毎日平均約37隻、重量で約122万ネットトンの通航量となっている*6

スエズ運河を通航する船舶数は、世界の海運の約7%に当たる。通航船舶の22%が石油タンカー、44%がコンテナ船となっている。以前は石油タンカーの通航が多かったが、最近喜望峰経由の超大型タンカーが就航したり、スエズ・地中海パイプライン(SUMED)の容量が増大したりして、石油タンカーの通行量が減少傾向にある。一方、アジア・欧州間の貿易の拡大に伴って、コンテナ船の通行量が増加傾向にある。

 スエズ運河庁の2004年の通行量収入は過去最高の約30億ドルと推定されている。

スエズ・地中海パイプラインは、スエズのタウフィク湾の超大型タンカー接岸地点で積荷の原油をポンプアップし、シナイ半島のパイプラインを通じて輸送し、再度地中海を航行するタンカーに積み込む施設である。

スエズ運河はスエズ湾入り口のスエズ市ポートタウフィクから地中海のポートサイド市ポートイブラヒムまでの間、アフリカ大陸とシナイ半島の間を結ぶ船舶の重要な通路であり、全長192kmである。スエズ市からエジプトの首都カイロまでは134kmである。

スエズ市はスエズ運河の南端、エジプトの北東に位置しており、七世紀以来の歴史の古い商業都市である。中世期には香辛料の貿易とメッカへ出発する巡礼者達でにぎわった。十五世紀には海軍基地となり、1869年の運河通航に伴い近代化が進んだ。現在の人口は461,000人である。スエズ市の経済は、漁業、化学関係工業、食品加工、たばこ産業などである。また、綿、米などのエジプト産品の輸出港としても重要であるばかりでなく、スエズ運河を通航する船舶への給油ステーションとしても重要な位置を占めている。

そしてまた、自由貿易港であり、エジプト人にとっての夏期リゾート地でもある。

スエズ運河関係指標

運河全長:192km

ポートダウフィク(スエズ市)からイスマイリア:84km
イスマイリアからポートサイドまで:78km
複線航路区間:84km
水面幅:300m
ブイ(航路)の幅:180m
船舶の最大許容喫水:58フィート=約17.4m
運河の水深:19.520.0m

スエズ運河衛星写真

http://www.johos.com/omoshiro/bucknum/20000609A.html

スエズ運河ルート全体図

http://www.mrdowling.com/607-suez.html

7. スエズ運河のオペレーション

スエズ運河庁規則によれば、スエズ運河への進入、通行、退出に際して水先案内人(Pilot)の乗船が義務づけられている。最低通航速度で通行できない船舶は船団の最後部にまわされ、タグボートで曳航される場合もある。軍艦は国籍の如何を問わず国際条約で特別扱いされ最優先航行ができる。

 運河通航に際して船舶はサーチライトの装備をしなければならない。サーチライトは現地で借りることもできる。LPG/LNGタンカーはスエズ運河庁規則で定められたサーチライトを装備しなければならない。   

スエズ運河内の航行については次のように定められている。

運河は24時間通航可能である。
運河は単線水路で、通過確認ポイントが4カ所ある。

船舶が運河内を通航する際、船団を編成して航行するが、一日三つの船団が編成される。地中海側のポートサイドでは毎日二つの船団が編成されて、それぞれ午前1時(前日午後7時までに港に到着した船舶群)と午前7時(当日午前3時までの到着した船舶群)に紅海のスエズ港に向けて出発する。

 紅海側のスエズからは、午前5時(当日午前1時までの到着した大型コンテナー船、VLCC'S*ULCC'S**、スーパータンカー、大型バラ積船舶, L.P.G. & L.N.G. そして、喫水38フィート(11.4m)以上の船舶、貨物船その他の船舶については午前3時までに到着した船舶群)に一つの船団が編成されて、ポートサイドに向けて出発する。300トン以上の船舶にはパイロットの乗船が義務付けられている。

*very large crude carrier20万トン以上の油を積める超大型タンカー

**ultra large crude carrier

それぞれの船舶には道路パイロット2名と運河パイロット2名が、乗り込み、それぞれの港の運河入口の第1号ブイから運河出口の港の最後のブイまで連続して操船指示業務を行う。実際には中間地点で交代するようである。

運河内には航行速度制限があり、船舶の種類や重量によって異なるが、おおむね時速6 9ノット(1116km)と定められている。紅海側では潮流の速度や方向等次第で時速69ノット(1116km) となる。スエズ運河内の平均航行時間は約14時間である*7

スエズ運河を通航しようとする船舶の船長は、スエズ運河庁の運行代理店であるアトラス・マリーン・サービス社に対して、スエズ運河通航に関してスエズ運河庁から要求される必要事項を通知しなければならない。そして、入港する予定の港への到着の5日前、48時間前、24時間前、12時間前に、それぞれ到着予定時間を通知しなければならない。

到着時間が遅れそうな船舶はその旨を随時通知する必要がある。

 スエズ運河庁は通航する船舶の調整をはかるため、各船舶の通航順位を5日前に各船舶に通知する。各船舶は予定通航時間の変更や遅延が生ずることがわかったときは、その旨を24時間前までに通知しなければならない。それを怠ると罰金が科せられる。

 幅約50mで最大喫水18.9m〜最大幅77.5mで喫水12.2m、船の水面上高さ68m以下、最大載貨重量トン数が15万トンまでの船舶が通航できる。

 地中海とスエズ湾の海水面がほぼ同じ水位であるため、運河には閘門がない。

 運河は三つの湖、すなわち、地中海側からスエズ湾に向かって、マンジーラ湖、ティスマ湖、そして、大ビター湖と小ビター湖(この二つの湖は事実上はつながっている)の水面を活用したものであり、スエズ地峡を最短距離で結んでいるわけではない。水路のほとんどは単線水路であるが、何カ所かの入り江がある。複線水路は小・大ビター湖内とアルカンタラ〜イスマイリア間に設けられている。スエズ運河の西岸には運河全線に沿って鉄道が敷設されている*7

スエズ運河拡張計画に対する日本の対エジプト有償資金協力供与実績は1974年度から2003年度までで合計41件、総額3,8578,900百万円にのぼるが、そのうち、スエズ運河関係は8513,800万円、約22%を占める。

ODA経済協力 対エジプト有償資金協力供与実績

年度

プロジェクト名

実績額(億円)

1975

第一期スエズ運河拡張計画

380.00

1977

第一期スエズ運河拡張

230.00

1979

スエズ運河地帯電話網計画

スエズ運河浚渫能力増強計画

 51.38

120.00

1981

スエズ運河待機泊地拡張計画

 70.00

 

合計金額

851.38

出典:在エジプト大使館資料*2

このスエズ運河改修計画に参加した水野組(現在の五洋建設)のスエズ運河改修プロジェクトの詳細については、同社のホームページ*8に詳しい。

 スエズ運河が第三次中東戦争以後、19756月から再開され、年中無休で運用されてきたが、200411月、タンカーが座礁して3日間閉鎖されたのが、ここ30年間で最長であったという。

 つづく