エントランスへはここをクリック!                 

イクバール・アフマドの

テロリスト論
 

 青山 貞一

 掲載日:2004年4月11日

独立系メディア 今日のコラム

 ノーム・チョムスキー教授の友人に、イクバール・アフマド氏(Eqbal Ahmad)がいる。

 アフマドは1999年11月にイスラマバードで病気でなくなっているが、彼は9.11が起る3年前の1998年、
テロリズム---彼らの、そして、わたくしたちのと言う講演のなかで、テロリズムについてたいへん示唆に富んだ話をしている。

 最近刊行された「イクバール・アフマド発言集「帝国との対決」(太田出版
(03-3359-6262)、大橋洋一・河野真太郎・大貫隆史共訳)から長くなるが以下に核心部分を引用する。

 
まず第一の特徴的パターン。それはテロリストが入れ替わるということです。昨日のテロリストは今日の英雄であり、昨日の英雄が今日のテロリストになるというふうに。つねに流動してやまないイメージの世界において、わたしたちは何がテロリスムで何がそうではないかを見分けるため、頭のなかをすっきり整理しておかなければなりません。さらにもっと重要なこととして、わたしたちは、知っておかねばならないのです、何がテロリズムを引き起こす原因となるかについて、そしてテロリズムをいかにして止めさせるかについて。

 テロリズムに対する政府省庁の対応の第二のパターンは、その姿勢がいつもぐらついており、定義を避けてまわっていることです。わたしはテロリズムに関する、すくなくとも二十の公式文書を調べました。そのうちどれひとつとして、テロリズムの定義を提供していません。それらはすべてが、わたしたちの知性にはたらきかけるというよりは、感情を煽るために、いきりたってテロリズムを説明するだけです。

 代表例を紹介しましょう。一九八四年十月二十五日(米国の)国務長官のジヨージシュルツは・ニューヨーク市の〈パーク・アヴェニュー・シナゴーグ〉で、テロリズムに関する長い演説をしました。それは国務省官報に七ぺージにわたってびっしり印刷されているのですが、そこにテロリズムに関する明白な定義はひとつもありません。

 その代わりに見出せるのは、つぎのような声明です。その一、「テロリズムとは、わたしたちがテロリズムと呼んでいる現代の野蛮行為である」。その二はさらにもっとさえています「テロリズムとは、政治的暴力の一形態である」。

 その三、「テロリズムとは、西洋文明に対する脅威である」。その四、「テロリズムとは、西洋の道徳的諸価値に対する恫喝である」。こうした声明の効果が感情を煽ることでなくしてなんであろうか、これがまさに典型的な例なのです。

 政府省庁がテロリズムを定義しないのは、定義をすると、分析、把握、そして一貫性を保持するなんらかの規範の遵守などの努力をしなければならなくなるからです。

 以上がテロリズムヘの政府省庁の対応にみられる第二の特徴。第三の特徴は、明確な定義をしないまま、政府がグローバルな政策を履行するということです。彼らはテロリズムを定義しなくとも、それを、良き秩序への脅威、西洋文明の道徳的価値観への脅威、人類に対する脅威と呼べばいいのです。人類だの文明だの秩序だのをもちだせば、テロリズムの世界規模での撲滅を呼びかけることができます。

 要約すれば、米国なり西洋が使うあらゆる暴力はテロリズムとは言わず、米国なり西洋が被る暴力はすべてテロとなるということだ。これはチョムスキー教授の言い分と共通している。すなわち

 
「テロとは他者が『われわれ(米国)』に対して行う行為であり、『われわれ(米国)』がどんなに残虐なことを他者に行っても『防衛』や『テロ防止』と呼ばれる」

のである。ここに今日の米国の対テロ戦争や対大量破壊兵器戦争の大きな課題が集約される。

 米国が自分たちがいくら核兵器や大量破壊兵器をもち、使ってもそれは自由と民主主義を守る正義の戦いとなり、中南米、カリブ諸国にCIAや海兵隊を送り込み他国の政府を転覆したり、要人を殺傷しても、それはテロとは決して言わないのである。