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いつか見た光景
人質家族は歓呼の声で自衛隊派遣を支持すべきだったのか?
星川 淳(作家・翻訳家)

掲載日:2004.5.2

 人質となって解放された安田さん・渡辺さんの落ち着いたメディア対応に続いて、今井さんと郡山さんも記者会見で正々堂々と体験を語り、とりあえず安心しました。高遠さんもきっと元気を回復してくれるものと期待します。

「自己責任」や「費用弁償」を騙(かた)ったバッシングは、海外メディアの総スカンを食らったことも手伝って失速気味ですが、マスコミ論調では小泉首相は今回も点数を稼いだそうです。どんな愚説・愚行でも、先にメディアと世論を抱き込んだほうが勝ちなのでしょうか。

 ここでは、まだあまり取り上げられていない重大な点に注目したいと思います。解放の安堵が広がり、20億円などという法外な費用弁償論が尻すぼみになった頃、とくに最初の3人について「本人たちは善意で行動したが、自衛隊撤退を求めた家族が国民を敵にまわした」というまことしやかな説が、評論家やマスコミ関係者から聞こえはじめました。それは多分に、ご家族の思想的背景に対する憶測的予断が関係していたようです。さらに言えば、その予断はまず、共産党や市民派嫌いで有名な小泉首相の周辺から糸が引かれていました。3人の拘束が明らかになったとき政府中枢が最初にやったことは、人質の安全確認や解放交渉への着手ではなく、「怪しいから身元を洗え」という命令だったことは衆知の事実です。

 B級報道的な詳細に立ち入るつもりはありません。思想信条や門地にかかわらず国民が平等に扱われるべきことなど民主社会の初歩であって、政府の方針に反対したら「反日分子」といった暴言は、発言者の政治家としての稚拙さを示すものでしかないからです。柏村議員のような人間は、自分が日本を代表したがればしたがるほど、子どもから大人まで気の確かな人は、恥ずかしくて日本人をやめたくなるという逆説に気づくことはないのでしょう。それは、今回の人質と家族バッシング全体について当てはまります。

 問題にしたいのは、「家族の自衛隊撤退要求が反感を招いた」という見方です。イタリアの例を引くまでもなく、肉親は救出につながることなら何でも求める権利がありますし、そうするのが普通であり当然です。そこにイデオロギーを読み込んだり、ましてや自作自演を疑ったりするのは、あらゆる意味で非道です。しかし、なぜこの国では、政府・与党からマスコミ・世論まで、国際的には異様としか映らない「家族は自衛隊撤退を要求するな」がまかり通るのでしょう。

 戦時中、出征する夫や父や息子たちを、家族は「万歳!」と歓呼の声で送り出すことがお国のためとされ、それが軍国の妻・母・娘の務めでした。人間らしい涙や恐怖、不条理への怒り、反感などを表わすのはタブーでした。しかし多くの男女は、人間らしい感情を押し殺して戦争に駆り出されたのです。戦後、その反省に立って、「もう二度とあんな我慢はすまい、してはならない」と決心した男女が、どれだけ多かったでしょう。日本国憲法は、その決意を集約したものだとも言えます。

 高遠さんたち3人のご家族が、“お国のため”だと声を封じられ、顔面蒼白になって口を結んでうつむく姿は、文字どおり60年前のフラッシュバックでした。その封殺に働いた政府と国民感情の圧力は、まったく出征兵士を取り巻く「万歳!」と同質のものでした。戦後は終わり、新しい戦中がはじまったのです。

 韓国の東亜日報は、4月20日付の記事「罪人のように――釈放日本人たち、肩を落として帰国」で次のように報じています。

「韓国を始め、フランス、中国、ロシアなど多くの国の人々が拉致されているが、人質に取られた本人が謝罪する国は日本だけしかないだろう。生還の喜びすら人質から奪ってしまった日本社会には、やはり侵略戦争を国を挙げて支持した昔ながらの集団主義から脱却していない不気味さを感じた」

 足を踏まれた側は敏感です。

 この60年間、私たちはいったい何を学び、何を忘れたのでしょうか。