エントランスへはここをクリック!                 

「自己責任」及び「テロに屈するな」について(メモ)

岡本 厚(岩波書店「世界」編集長)


掲載日:2004.4.18

「自己責任」について

 この間、3人は危ないという警告を知りながらイラクに入った、「善意かもしれないが、独善的」(袴田茂樹、産経「正論」欄)、自己責任ではないか、政府に解決を求められても迷惑だ、という議論がメディアの中で起き、それが世論に一定の影響を持ち始めている。

1、 大前提として、現在人質の安否も確認されていない中で、「自己責任」論を語るのは非常識である、

2、 また、このような事態を引き起こしたそもそもの要因は、過った侵略を行なった米英政府とそれに支持協力し、自衛隊を送った日本政府にある、

3、 そしてイラク国内において、主権が存在しない現在、治安の責任は暫定占領当局(CPA)にある、

 という3つが前提であり、それぞれについて展開できるが、これだけでは説得力は弱いかもしれない。一番に主張したいのは以下のことである。

1、 もちろん3人には、イラクの危険な状況を知っていたはずだし、それを知りながら入国した以上、「自己責任」は存在する。当然、「覚悟」もしていたであろう(そう考えなければ当事者に失礼となる)

2、 しかし、その「責任」の範囲はどこまでか。事故、盗み、怪我、誘拐など様々な事態が想定できるが、当事者にとって最大に取れる責任の範囲は、「自らの死」までである。

3、 それ以上のこと、たとえば誘拐をされた場合、犯人が脅迫して要求する内容(身代金であるとか政策を変えることであるとか)にまで、当事者が「自己責任」を負わされるいわれはない。

4、 それ以上のことについては、当事者でなく、脅迫を受けた側ーー家族や社会の責任である。身代金を支払うかどうか、犯人と交渉するかどうか、また政策を変更するかどうか、は偏えに答える側の責任である。身代金を支払って身柄の解放を得ることもあれば、拒否して見殺しにすることもあるだろう。しかし、それは人質の責任ではない。

5、 今回の場合、自衛隊を撤退させるか否かの判断は、政府の責任において行なわれるべきであり、人質の「自己責任」論は「見殺しでも仕方ない」という判断を偽装するだけのものである。

6、 (補)人質の家族が犯人の要求を呑んでほしい、と願ったり主張しても少しもおかしいことではなく、むしろ自然なことだ。それに政府が答えるかどうか、はそれこそ「政府の責任」である


 「テロに屈するな」について

 もう一つの論点「テロに屈するな」については、展開が難しい。自衛隊撤退問題と人質問題を「分ける」しかないでしょう。つまり、人質とは関係なく、「もともと行くべきでなかったし、速やかに引くべきだ」という論。ちょっと説得力に欠けるか?

 以下論の試み

 1、「テロに屈して何が悪い」−−ホントに一度屈すると頻発するのか?検証が必要では?(よど号、ダッカ事件など)→たとえば、もし人質が殺されたら、日本は将来にわたってイラクへの経済協力などはしない、といった声明のほうが「屈するな」よりも効果的ではないか?

 2、「テロ」という言葉は、平時における破壊、脅迫をイメージさせるが、いまのイラクはすでに戦時であり、「テロ」ではなく一種の「戦闘行為」なのではないか?

 3、自衛隊は「人道支援」に行っているはず。人道のために働いていて、人命が脅かされるのは矛盾。人道援助ができる環境になかったか、もともと人道援助というのが嘘だったか、どちらかではないか。いずれにせよ、引き揚げるべき。

 4、 自衛隊はいま、給水くらいしかやってない。引き揚げれば何千人もの人命が脅かされるというのなら話は別だが、それほど困るとは思えない。しかも治安が乱れれば閉じこもるしかないのだから、引き揚げてもいいのでは?

 という4通り、考えてみました。いずれも「引き揚げてもいいんじゃん、別に。たいしたことやってないしー、無理していることないんだしー」という考えでしょうか。

5、 しかし、本当は、そろそろ情勢「マジヤバイから逃げたほうがいいっスよ」であろう。ファルージャの虐殺以降、戦争は完全に「イラク国民」vs「占領軍」になっている。「非戦闘地域」がどうの、などと寝言を言ってる場合じゃない。イラクの人々の怒りは渦巻いており、大きな渦が起きようとしている。(だからタイ、ニュージーランド、フィリピンなどは撤退を準備し始めた。ブルガリアも帰還したい兵は帰すという) 

 なぜ無理してまで、小泉はイラクに固執するのか?もしアメリカが引き揚げても、頑張るつもりだろうか?まさか!そんなことのために自衛隊に大きな被害が出てもいいのだろうか?