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連載 佐藤清文コラム 第一回


松岡洋右と小泉純一郎

佐藤清文
 
掲載日2005.12月12日


 小泉純一郎内閣が誕生して以来、外交において、孤立化が進んでいます。アジア諸国との関係改善は彼が政権を去るまで絶望的と見られていますし、国連では、二〇〇六年から〇七年の通常予算案の成立に対するアメリカによる阻止の呼びかけに応じたのは日本だけという有様です。

 第五代大統領以来、孤立主義を外交の柱の一つに掲げてきた合衆国はともかく、国連中心主義を唱えてきた日本のこうした姿勢は転向と受けとられても仕方がないでしょう。それでいて、小泉首相は東アジア共同体の創設に意欲的です。しかし、世論調査を見ると、小泉首相の孤立外交に必ずしも否定的ではないのです。

 日本は、戦前、孤立主義に傾きながら、それを世論が後押ししたという歴史があります。そこには、松岡洋右というアジテーターの存在があるのです。

 松岡洋右は、一八八〇年三月四日、山口県に生まれ、 親戚を頼って、一八九八年に渡米し、一九〇〇年、オレゴン大学法学部を卒業し、〇二年、帰国しています。米国滞在を通じて、「道を歩いていてアメリカ人に衝突しそうになったら、絶対に道を譲ってはいけない。殴られたら殴り返さなければいけない。アメリカでは一度でも頭を下げたら、二度と頭を上げることはできない」という信念をこの極端に負けず嫌いの青年は抱くことになり、こうしたコンプレックスが後の外交交渉に影を落とし続けます。

 〇四年、外交官試験に合格し外務省に入省します。ただ、この就職に関しては、三輪公忠の『松岡洋右――その人間と外交』
(中公新書)によると、日露戦争にための徴兵忌避が真の目的だったのではないかという説もあります。後の合衆国大統領がベトナム戦争時にカナダへ渡ったり、テキサスの州兵に志願したりするのと同じかもしれないというわけです。

 東京帝国大学の出身者でもなく、オックス・ブリッジやIVYリーグへの留学経験もない若者でしたから、省内で出世は厳しかったのですけれども、彼には英語が堪能で、特にスピーチの能力が高く、それにより広く注目され始めていきます。一九二一年、四一歳のときに外務省を退官して、満鉄に入り、この野心家は満州における権益拡大を推進します。

 一九三〇年、満鉄を退職し、二月の第一七回衆議院議員総選挙に山口二区から立候補して当選しています。政友会のこの新人議員は幣原喜重郎外務大臣の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく非難し、その威勢のよさからメディアや言論人、大衆から支持を受けていくのです。

 一九三一年、満州事変が起きます。翌年、国際連盟はヴィクター・アレキサンダー・ジョージ・ロバート・リットン卿を団長とする調査団を派遣し、九月、彼は報告書を連盟に提出します。この動きに日本国内の世論は反発し、政府もまた報告書正式提出の直前に満州国を正式承認してしまいます。小泉首相の靖国神社参拝に向けられた国際世論に対する反応と同様、日本が国益を守ろうとしているだけなのに、外国がとやかく言うとは何事かというわけです。

 一〇月、英語によるスピーチが巧みであるという理由で、松岡洋右がジュネーブの国際連盟特別総会に首席全権として派遣されます。彼は、一二月八日、一時間二〇分に及ぶ演説を準備原稿なしで総会で行うのです。それは、小泉首相が自らの政策を「三位一体改革」と命名したように、日本を十字架のイエス・キリストに譬えたはなはだ不遜なものです。

 欧米諸国は二〇世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているけれども、イエスが後世になって理解されたように、日本の正当性は必ず認められるだろうという内容です。キリスト教に関する知識もろくにない日本国内では、この演説に喝采しましたが、言うまでもなく、諸外国、特にキリスト教国からは猛反発を受けたのです。

 鳥飼久美子は、『歴史をかえた誤訳』において、概して、英語に通じていると過信がある政治家に外交上の失態が多いと指摘しています。中曽根康弘や宮澤喜一、石原慎太郎など挙げればきりがありません。他方、故エドウィン・ライシャワー駐日米国大使は、あれほど日本語が堪能であっても、公式の場では通訳を介しました。あくまで日本語がネイティヴな言語ではないからです。

 日本政府は、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定していました。翌年の二月二四日の総会で、同報告書は予想通り圧倒的多数で可決されました。松岡は前もって用意していた宣言書を朗読した後、閉会前に会場を退場します。その後、日本は正式に国際連盟から脱退することになります。

 ところが、帰国した松岡は「言うべきことをはっきり言った」、「国民の溜飲を下げさせた」、「欧米にこびへつらわず、毅然としていた」初めての外交官として、国民に熱狂的に歓迎されるだけでなく、言論界でも、石橋湛山や清沢洌など一部の識者を除けば、彼のパフォーマンスをほとんどが支持していたのです。「聯盟よさらば」と大見出しをうち、松岡を英雄のように扱った新聞もありました。国際社会から完全に孤立してしまったのに、日本国内では、それにメシア的行為として酔いしれてしまったのです。

 松岡は、「聖域なき構造改革」あるいは「痛みを伴う改革」よろしく、「国民精神作興」や「昭和維新」などを唱え、一九三三年一二月、政友会を離党し、「政党解消連盟」を結成して議員を辞職します。その後の一年間、全国遊説を行い、得意の弁舌により、政党解消連盟の会員を二〇〇万人にします。当時、ワイドショーがあったら、彼は毎日のように登場していたでしょう。

 一九四〇年七月二二日に成立した第二次近衛文麿内閣で、松岡は外務大臣に就任します。近衛も、松岡に劣らず、国民の人気が高く、今のイラク戦争同様、泥沼化した対中戦争で疲弊した日本をさらなる戦争遂行のための国家総動員体制へと変えていくのに適任だったのです。

 かつて冷や飯を食わされた外務省のトップになった松岡は官僚主導の外交を排除すると発表し、主要な在外外交官四〇数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命し、軍部と連携する強硬派の外交官である白鳥敏夫を外務省顧問に任命します。さらに、有力な外交官たちには辞表を出すように圧力をかけています。

 ポーカーの名手で知られる松岡外相の外交方針は次のようなものです。「大東亜共栄圏」の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に了解を結んで中立化させます。

 それにはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツに仲介してもらい、さらに、ドイツの友好国イタリアとも提携して、日本=ソ連=ドイツ=イタリアというユーラシア大陸を横断する枢軸勢力を形成します。そうすれば、米英を中心とした先進帝国主義勢力との均衡が生まれ、それを通じて世界平和や秩序の安定に寄与できるというものです。

 松岡は、一九四〇年九月、日独伊三国軍事同盟を結び、翌年の三月には日ソ中立条約を締結します。松岡外交は日本国内から圧倒的な支持を受け、その構想は完璧かと思われました。けれども、ドイツ側からソ連に接近しないほうがいいとアドヴァイスされていました。松岡は無視したのですが、その理由がすぐに明らかになります。一九四一年六月、ドイツはバルバロッサ作戦を開始します。ところが、日本は中立条約を守り続け、シベリアに兵を送らなかったため、ソ連を東西ではさみうちにするというドイツの思惑もはずれることになります。

 松岡は対米強行でありながら、アメリカとは最終的に協調すべきだと考え、その圧力としてユーラシア枢軸を使おうとしていたのです。しかし、それは日中戦争で疲弊した日本をさらなるカタストロフによって精神的な開放感を得ようとする方向に向かわせることにしかなりませんでした。

 山田風太郎は、『人間臨終図鑑』において、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と言っています。外交という「相手の手」をよく見なければならない行為に、「己の手ばかりを見ている」ようでは、政策は独善的になり、孤立してしまうのは当然の帰結でしょう。

 敗戦後、A級戦犯として逮捕されたものの、結核が悪化し、東京裁判公判法廷に一度出席するにとどまります。その際、罪状認否において、英語で”Not guilty”と主張しています。一九四六年六月二七日、米軍病院から転院を許された東大病院で、66歳の生涯を閉じています。「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉」という辞世の句を残しています。

 一九七八年、靖国神社がA級戦犯らの合祀を強行しました。そのとき、昭和天皇の意を汲んだ宮内庁は「松岡洋右」の名を上げて合祀に抗議します。現在に至るまで、天皇は、それ以来、靖国神社に参拝していません。

 一方、小泉首相は、靖国神社に不戦の誓いを新たにするために参拝し続けています。その度に、アジア諸国のみならず、アメリカも愚行と非難し、日本は孤立化を深めています。小泉首相だけでなく、彼の後継者と目される政治家は、ぞっとすることに、「己の手ばかりを見ている麻雀打ち」なのです。けれども、世論も小泉首相の行動を必ずしも強く批判していませんし、後継者たちにも期待しているのです。