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連載 佐藤清文コラム 第三回


日本国憲法と松本烝治

佐藤清文
 
掲載日2006.1月8日

 憲法改定を前提に、国民投票法案の国会提出の現実味が増しています。与野党を問わず、多数の国会議員が日本国憲法の改定を支持していると各種のアンケート結果が出ています。

 憲法改定の真の狙いは第九条でしょうが、それだけではあまりに露骨で、支持も得られないと判断した永田町はさまざまな不備を挙げています。しかし、それらはほとんどが改定の理由にはならないものです。

 凶悪犯罪の多発など今日の社会問題を憲法の改定によって解決しなくてはならないと主張する政治家がいます、けれども、日本国憲法は細かな規定ではなく、大枠だけを提示していますから、憲法にその原因を見出すのには無理があります。第一、彼らの指摘する問題点は民法や刑法の領域であり、それは戦前から引き継がれたものです。

 また、憲法の改正しにくさを問題視する政治家もいます、しかし、日本国憲法は、イタリアやスペインと比べても、変更が困難ではありません。そもそも一八九〇年に施行された明治憲法は欽定憲法だった以上、改正自体事実上不可能でした。

 環境権やプライバシー権といった新しい権利に関する記述がないから、それを盛り込むべきだと訴える政治家もいます。とは言うものの、環境権やプライバシー権は最高裁でも権利としては確定していません。しかも、これらはおそらく次の第二五条の生存権で対応できる権利です。

 

第二五条

1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない

 

 現行憲法は前文に「日本国民」とあるように、先住民族や少数民族の権利を保障していないという欠点があります。けれども、一九九七年、札幌地裁は生存権を根拠にアイヌの先住民族としての権利を認めています。彼らの権利はさらに公認されねばなりません。

 生存権を先住民族の権利保護に拡大できるとすれば、環境権やプライバシー権も十分に扱うことができるでしょう。

 日本国憲法が時代や現状にあっていないという政治家もいます。けれども、これは従来の行政府や立法府の姿勢を繰り返しているだけです。政治は国内では既成事実を積み上げ、人々に泣き寝入りを迫り、国外においては、国際情勢という環境に適応することだけに終始し、それをよりよく変えるまで至らなかったのです。

 国民の義務規定が希薄であるという意見に至っては、近代憲法をまったく理解していない発言です。近代憲法は「神の死」によって誕生します。王権神授説のように、超越的な規範によって政治権力の正統性を保障していたのに代わって、為政者側が自らを律するべきものとして憲法が採用されたのです。一七七八年に施行された合衆国憲法が現行の成文憲法としては最古です。なお、イギリスやニュージーランドには成文憲法がありません。

 自民党にしろ、民主党にしろ、その憲法に対するアイデアは、アイヌ語を第二公用語として認めるといった提言も見られないように、新しい時代にふさわしいとは言えません。彼らには変えることだけが目的でしかないのです。時代遅れの大日本主義を再建したいのかもしれません。

 憲法を改定すれば、膨大な量の関連法案の修正が必要になります。それだけの労力を今費やす必要があるのかはなはだ疑問です。社会保障制度の再編など緊急の政治課題は山積みなはずです。

 その上、今の時期に憲法を改定しなぇればならない必然性も特にありません。もちろん、未来永劫変更するべきではないというわけではありません。「当分の間」だけです。憲法はしょせん国内法です。国際条約の方が国内法よりも上位にあります。将来的に、アジア共同体が設立され、その取り決めとして国内法の整備が必要になることもあるでしょう。例えば、少数民族並びに先住民族の権利の保護を義務付けられ、現行の法の解釈・規定では不十分と見なされた場合、憲法を改正し、そういった条文を加えることになるかもしれません。これからの時代には、国家の相対的な地位のさらなる低下は不可避です。今回の自民党の草案はとてもそういう意識で書かれているとは思われません。

 かねてから自由民主党は「自主憲法」の制定を党是として掲げていました、日本国憲法は占領軍によって押しつけられた憲法であるというのがその理由です。この理屈は、一九五四年七月に岸信介を会長とする自由党憲法調査会で、悪名高い松本草案で知られる松本烝治(じょうじ)がかなり感情的に「押しつけ」られたと発言したことに由来しています。この調査会は自衛隊を合憲化するために憲法を改定する目的で設置されています。憲法を改定する口実を探していた場での主張でしたから、憲法が押しつけられたか否かという点に議論が矮小化されていったのです。

 日本国憲法公示時の内閣総理大臣だった吉田茂は制定過程においては憲法草案に全面的に賛成していませんでしたけれども、公的には新憲法を否定したことはありませんし、一九五七年の回想録『回想十年』では、「押しつけ憲法」論を斥けています。

 松本は、一九四五年一〇月、幣原喜重郎内閣が設立した憲法問題調査委員会の委員長を務めた人物です。けれども、「調査委員会」という名称とこの委員長人事を見れば、憲法改正にやる気が政府になかったのは明らかです。松本は民法や商法が専門で、国家体制や政治はおろか、憲法に関する著作さえ表わしていません。

 加えて、委員会のメンバーは、顧問に美濃部達吉の名があるように、豪華でしたが、彼らは一様に憲法の改正には消極的なだけでなく、鋳型で作られたのかと思うほど同じ意見を持っていたのです。専門家でありながら、世界の憲法をめぐる動向を考慮しつつ、独自なものを作成することさえできなかったには驚くべき有様です。

 松本烝治は、一八八七年一〇月一四日、鉄道庁長官の松本荘一郎を父に東京で生まれています。この「烝治」は合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで命名されたと言われています。以後の経歴は、彼が極めて政治的であり、旧体制がしみついていることをよく物語っています。

 東京帝国大学卒業後、農商務省参事官を経て、一九〇三年、母校の助教授に就任します。〇六年から三年間、ヨーロッパに留学し、〇九年、東大教授になっています。一三年からは内閣法制局参事官を兼務し、一九年、東大を辞めて満鉄の理事に就任、後に副社長になっています。二二年、山本権兵衛内閣の法制局長官、三四年には斎藤實内閣の商工大臣に選ばれています。弁護士でもあったのですが、その評判は、阿部真之助の『現代日本人物論』によると、「多数の会社の監査役、相談役を務め、財界の法律的代弁者として随一」というものでした。人物評としては、優秀であるが、自信家で、権威主義的に振る舞い、すべてを自分でコントロールしないと気がすまない質であり、およそ民主的ではなく、他人に自分の意見を押しつけるような人だったのです。

 こういう人物が委員会を主催したのですから、その結果はまったくお粗末なものでした。彼には国体の護持しか頭になく、字句の訂正だけで切り抜けようとしていたのです。民衆などどうでもよかったのです。旧体制の擁護者にとっては、望ましい草案でした。

 ところが、一九四六年二月一日付『毎日新聞』がその草案の内容をスクープし、一般にもそれが知られると、民衆から非難が上がり、GHQも日本の支配者層のみによる憲法起草を断念します。専門家がこの体たらくですから、GHQによる制定の手続きがいささか強引になったのも無理からぬところです(ただし、この過程を配慮し、GHQも占領終了後に憲法改定の許可を日本政府に与えていました)

 「『押しつけ憲法』の立場をとる政治家たちは、吉田と同様に保守思想の持ち主であるとはいえ、吉田が『七転八倒』している時に、戦犯であったり、公職追放中であったり、あるいは吉田学校の若き『お坊ちゃん』であった場合が多い。敗戦から占領、その中での憲法制定という思想と思想のせめぎ合いを、数歩さがって見ていた者の安易な主張としか言いようがない。それにしても『押しつけ憲法』論が、なぜこれほどまでに戦後三〇年以上にもわたって生き延びてしまったのであろうか。憲法改正の機会はあったのである。与えられていたのである。その機会を自ら逃しておきながら、『押しつけ憲法』論が語りつがれ、主張され続けたのである。とにかく最近の憲法『改正』史や現代史の研究書をみても、この点にまったく触れていないのであるから無理からぬ事情はあったにせよ、これは糺しておかなければならない」(古関彰一『新憲法の誕生』)

 日本国憲法の形成過程は、一般に考えられているよりも、はるかにこみ入っています。憲法史における主流の学説は、占領下という特殊な状況であるものの、日本国憲法は日米合作です。

 しかも、それはアメリカ対日本という国家間の抗争の結果ではなく、かかわった個々人の憲法観の対立と妥協の産物なのです。ステロタイプによる短絡化は本質を見失います。例えば、GHQの女性職員が女性の権利を拡大したいと考えていたのに対し、男性職員がそれを認めないといったこともありました。考えてみれば、日本国憲法は国際協調を謳っていますから、この共同作業はその趣旨とも矛盾しません。これは国際条約の作成過程に似ています。

 だいたい条文を見るだけでも、日本国憲法が単純に占領軍によって押しつけられた憲法ではないことは明らかです。例えば、生存権は、二〇世紀における憲法のプロトタイプと呼んでよいドイツのワイマール憲法からの影響です。こうした発想は英米系の憲法観にはありません。

 当時、日本各地で多くの団体や個人による新しい憲法の作成が取り組まれていました。各政党も憲法草案を起草していますが、五五年体制を担う保守政党も日本社会党も、不甲斐ないことに、国民主権すら書けていないのです。彼らは新しい時代が何たるかをまったく理解していませんでした。松本草案ほどではなかったものの、それらは一九世紀の代物といった趣があります。彼らは民衆のことなど見ていなかったのです。

 実は、GHQは、有名無名や専門の如何に問わず、膨大な文献や資料、提案、意見を英訳しており、それを汲み上げて、日本国憲法に書き記したのです。憲法を変えることが目的なのではなく、日本人の間に定着しなければ意味がありません。それには市井の声を反映させる必要があります。例えば、憲法の口語化は作家の山本有三らのグループ「国民の国語運動」の提案です。日本国憲法は、その意味で、集団的匿名の作品だと言えます。旧体制であれば、支配層によって排除されてきた人々のアイデアや知恵の結実が日本国憲法なのです。日本国憲法は現在の市民による参加と行動の民主主義の魁にほかなりません。

 古関彰一獨協大学教授は、『新憲法の誕生』において、依然として日本国憲法は「新憲法」と呼ぶのにふさわしいと次のように述べています。

 

 にもかかわらず、あえてここで「新憲法」を使うのは、そこにはやはり明治憲法とはまったく異なった新しいものを見出すからである。戦争と圧政から解放された民衆が、憲法の施行をよろこび、歌い、踊り、山間の山村青年が憲法の学習会を催し、自らも懸賞論文に応募する姿は、近代日本の歴史において、この時を除いて見あたらない。そればかりではない。制定過程の中でたしかに官僚の役割は無視できないが、つねに重要な役割をはたしたのは、官職にない民間人、専門家でない素人であった。日本国憲法が今日においてなおその現代的意義を失わない淵源は、素人のはたした役割がきわめて大きい(戦争の放棄条項を除いて)。当時の国会議員も憲法学者もその役割において、これら少数の素人の力にはるかに及ばない。GHQ案に影響を及ぼす草案を起草したのも、国民主権を明記したのも、普通教育の義務教育化を盛り込んだのも、そして全文を口語化したのも、すべて素人の力であった。

 かつて米国憲法一五〇周年記念(一九三七年)にあたり、ローズベルト大統領は「米国憲法は素人の文書であり、法律家のそれではない」と述べたが、近代国家の憲法とはそもそもそういう性格を持っている。

 古来、日本において「法」とは「お上」と専門家の専有物であった。その意味からすれば、やはり日本国憲法は小なりといえども「新しい」地平を切り拓いたのである。こう考えてみると、そこに冠せられる名は、老いてもなお「新憲法」がふさわしい。

 

 日本国憲法をGHQによって押しつけられた憲法と考えるのはその意義を矮小化するだけです。日本国憲法は「素人の力」、すなわち民衆の思いの表象なのです。その意味で、この新憲法は世界に誇れるものです。近代日本が始まって以来、これほど人々に愛された法律はありません。今の政治家は、愚かにも、かつての政治家が見せた後退を再現しています。まさか松本の亡霊に囚われているわけでもないでしょう。確かに、彼らの傲慢さは松本の姿に重なります。最近の憲法改定の動きは「素人の力」を押しつぶそうとしようとしているのにほかなりません。集団的匿名性の作品という点でも、日本国憲法は依然として「新しい」のです。それを超える新しさを提示できない限り、日本国憲法を変えるべきではないのです。

〈了〉