小沢一郎の直球にして 剛球に目を醒ませ 田中康夫 掲載日2006年4月13日 |
1860年代のシチリア島を舞台とする「山猫」は、小説の主人公同様に地元の公爵家に生まれた文学者ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサが原作を物し、ルキノ・ヴィスコンティの監督した映画が1963年にカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した、世界的に著名な作品です。 実は民主党の小沢一郎氏が引用した「変わらずに生き残る為には、変わらなければならない」は、18世紀のイギリスで秩序、均衡、協調、節度有る競争と支配を唱えた政治家エドマンド・バークの哲学にも通じます。 物の本に依れば、社会的な紛争や経済的な競争が放置されて、急激に破壊的な対立へと転化する事を憂慮したのが保守主義のバークでした。 が、それは浅薄な保守主義、即ち、一般的に我々が連想する、利権を保守する政事屋ではありません。寧ろ、その対極に位置するノーブレス・オブリージュなのです。 人々が蜂起せざるを得ない程に格差や不満が生じる前に、人々の願望を先取りし、革命など必要としなくなる、正に「的確な認識・迅速な行動・明確な責任」を取り得るプロフェッショナルな政治家の必要性を提唱し、実践したのです。 詰まりは、民主主義に於ける真の保守とは、常に変革し続ける気概と営為である。そうであってこそ、民主主義を衆愚政治にも独裁政治にも陥らせず、「保守」し続けられるのだ、と。バート・ランカスター演じる「山猫」の紋章を戴く公爵の科白と、この点で軌を一にするのです。 小沢一郎氏こそは、ノーブレス・オブリージュの何たるかを会得する、数少なき日本の政治家です。而も、目先の戦術に留まらぬ明確な戦略を抱く点に於いても。それは早速、首相の靖国神社参拝を問題視する発言に現れました。 アジアの一員である日本の歴史と未来に関し、的確な認識と哲学を有する氏は、A級戦犯は戦没者に非ず、故に合祀を改めるべき、と直球にして剛球の問題提起を行ったのです。 対する小泉純一郎氏は、「中国がいけないと言うからいけないのか、戦没者に哀悼の念を表するのがいけないのか、良く判りませんねぇ」と、相も変わらずの“はぐらかし”で逃げ切ろうとしています。が、だったら、「中国がいけないと言うから、行き続けるのか」と貴男は茶々を入れられちゃうよ、って話です。 のみならず、A級戦犯合祀は、「政府が言うべき事ではない」との反論も、だったら、真の保守主義者たり得る吉田茂全権大使が調印したサンフランシスコ講和条約を貴男は否定するのか、って話です。詰まりは、宰相・小泉にとってのレーゾンデートル(防波堤)とも呼ぶべき日米安全保障条約の締結へと至ったのは、日本の戦争責任を認めた件の講和条約が契機だからです。 A級戦犯合祀を議論するのは「政教分離の原則に反する」と高言しながら、分祀する前から靖国参拝を続けるのは、それこそが「政教分離の原則に反する」のではないか、と小沢氏は疑義を呈しているのです。実に手強い相手が登場しました。 猶、「山猫」と小沢氏を語った秀逸な論評を、新党日本のHPのトップに掲載しています。 新党日本HP |