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名無しの風土から生まれた
福井日銀総裁


  田中康夫

掲載日2006年6月15日



 実はアルツール・アントゥネス・コインブラが本名なのだとか。ジーコの愛称で知られる日本代表チーム監督のフルネームです。

 以前から繰り返し申し上げているのですが、何故に島国日本のマスメディアちゃんは、フルネームで人名を記さないのでしょう?

別段、欧米のメディアちゃんが優れている訳でもありますまいが、しかし、日本でも宅配可能な「ヘラルド・トリビューン」や「フィナンシャル・タイムス」を始めとして、それがアメリカの大統領であろうとも、記事の中で最初に登場する際には、ジョージ・W・ブッシュと記されるのです。

 パパ・ブッシュのジョージ・ハルバート・ウォーカー・ブッシュと明確に区別する為に、フルネームで記しているのではありません。彼だけの特例ではなく、イギリスの首相はトニー・ブレア、フランスの大統領はジャック・シラクと記すのです。後者の場合、ミドルネームのルネを省略するのが通例ですが、少なくとも苗字と名前は明確に記されます。如何なる著名人であろうとも。

 仮にイギリスとオーストラリアの首相が共にスミス氏で、その両者が会談した場合、2人で1人だった藤子不二男氏の様に、呵々、スミスA、スミスFとか知るのでしょうか。いやはや。

 バイネームで仕事をしよう、と20001026日に信州・長野県知事に就任した際から繰り返し、職員に語り掛けてきました。広島の原爆ドーム脇には「安らかにお眠り下さい。過ちは二度と繰り返しませんから。」と記されています。

 が、それは誰が誰に対して語っているのか、誓っているのか、曖昧模糊としています。主語が無くとも語れてしまう。それは日本語の利点であると同時に、欠点でもあるのです。

美しさや愛しさを表現する形容詞が、斯くも豊富な言語は、日本語を措いて他に存在しないでしょう。それは、主語無しで表現可能な和歌の隆盛と無縁ではないのです。

 が、同時に、責任の所在が明確ではない日本社会を齎した、とも言えるのではないでしょうか。6年間の県政改革の道程を語り、あるべき日本の未来を語る、講談社から上梓した近著「日本を−ミニマ・ヤポニア」でも述懐する様に、その無責任体質は、閣議の在り方に象徴されています。

 閣議の前日、事務次官会議が開催されます。各省庁から新たな施策が提案されます。驚愕すべきは、他省庁の次官は、それに対して反対をしない、という不文律が存在している事実です。

 即ち、会議の議題として取り上げられた段階で既に、「合意」されているのです。翌日の閣議は、その大半の時間が花押を内閣の構成メンバーである各大臣が記す作業に費やされます。押字とも呼ばれる花押とは、署名の代わりに使用する記号・符合です。一種のサイン。就任時に専門家が、固有の花押を作製し、それを各人が記すのです。

 ダベリングしながら、花押を記す。が、重要なのは、花押の「出来」ではなく、議論の「中身」なのです。にも拘らず、その点が問われた例が有りません。「日銀では全て理事全員の合意で物事が決定するので、私1人の責任ではない」と居直る福井俊彦なる人物は、日本の風土の中で、生まれるべくして生まれたのです。いやはや。