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G・H・ハーディで見る
無名の才能の発見


佐藤清文
Seibun Satow

2006年11月9日


初出:ハッチポッチ・クリティシズム
 第66号(2006年11月09日)
発行:佐藤清文(hpcriticism@yahoo.co.jp)

無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。

 埋もれた才能を発見したとき、人がどう振舞うのかということは興味深いところです。たいていの人はすごいと感じつつも、自分のことで手一杯ですから、何もできないものです。しかし、使命感にかられ、何とかしてあげたいと骨を折る奇特な人もいるのです。けれども、エドガー・アラン・ポーやフランツ・カフカのように、周囲の努力の甲斐なく、その不運な才能は死後になってようやく社会から認められるというケースも少なくありません。

 しかし、中には、無名の才能を食い物にする不届きな者もいます。

 ウィリー(1859〜1931)はそうしたアイデアを横取りして生計を立てていた一人です。彼は、カフェや酒場で知り合った無名の文学青年に自らの名声と報酬をちらつかせて、作品 を書かせ、それを別の作家にリライトさせた上で、自分の名前で出版社に持ち込んでいたのです。もしウィリーが編集者だったら時代を超えて賛美されたでしょうが、残念ながら、 彼は作家としての功名心も旺盛でした。

 彼には、その美貌とスタイルに惚れ込んで結婚した妻がいました。ある日、彼は彼女が女学校時代に書き記していたノートを発見し、それに仰天します。そこには今まで見たこともなかった文学的才能があったからです。彼は妻にその驚くべき作品を清書させ、いつも通り、自分の名前で出版社に売り込みます。その小説『学校のクローディーヌ』(1900)はたちまちベストセラーとなったのです。

 その後、『クローディーヌ』物語はシリーズ化し、1903年までに第4部まで刊行されました。2作目以降は夫婦の共作としてクレジットされましたが、夫は妻に印税が入るようにしませんでした。そのため、大ベストセラーを書いたにもかかわらず、1906年に離婚してから数年間、ミュージック・ホールのダンサーとして働かなければなりませんでした。

 もっとも、彼女にとって、この離婚は結果として幸いでした。彼女はダンサーとしての生 活を元に小説を発表し、新進女性作家と認められるようになります。彼女のペンネームは 「コレット」と言いました。そう、最初の女性アカデミー・コンクール会員に選ばれたあ のコレット(1873〜1954)です。

 一方、ウィリーは運に見放されたかのようにして人生が転落し、世を去っていきます。お天道様は見ているものです。

 ウィリーとコレットとは逆に、稀ですが、すでに名声を得た人物が無名の才能を見つけ、世に送り出すということがあります。ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(Godfrey Harold Hardy)とシュリニヴァーサ・ラマヌジャン(Srinivasa Aiyangar Ramanujan)の出会いはそんな幸運なケースでした。

 1913年、ケンブリッジ大学の講師G・H・ハーディ(1877〜1947)の元にインドから一通の手紙が届きます。彼は、当時、欧米で最も注目されていた数学者の一人でした。差出人はマドラス港湾信託事務所で会計係をしている23歳の下級職員シュリニヴァーサ・ラマヌジャンでした。手紙には、120程度の数学公式が記されていました。明らかな間違いもあれば、すでに知られた式もあったのですが、いくつかはまったく見たことのない奇抜かつ斬新な公式だったのです。

 ハーディは、最初、インドの数学愛好家かイギリス人による自分を引っかけるためのいたずらと決め込んでいました。何しろ、彼は皮肉屋っぽいところがある人物です。この無神論者は大のクリケット好きで、試合を見に行くときは、必ず、ヨレヨレのズボンを履き、雨傘と論文を詰め込んだ鞄を持参していました。なぜそういう格好をしているのかと尋ねられると、「雨が降りそうだと数学の研究を始めようとすれば、神が意地悪をして天気を晴れにするからさ」と答えるのが常だったのです。

 しかし、彼は考え直します。同僚で、何度かユニークな共同研究をしたことがあるJ・E・リトルウッド(John Edensor Littlewood)にこの手紙を打ち明けたのです。二人は、2時間半ほどの議論の後で、差出人が天才であると結論付けました。と言うのも、これほど手の込んだ盗作や捏造ができる詐欺師になるよりも、数学者になる方が容易だからです。

 ハーディは、早速、ラマヌジャン宛てに手紙を送ります。そこには、その実力に対する賛辞と英国への招待、公式を導き出す証明を書いて欲しいという要請が記されてありました。しばらくして、ハーディに3通ほど返事が届いたものの、いずれも公式だけで証明が載っていませんでした。痺れをきらした彼はインドに使者を派遣し、その謎のインド人をケンブリッジに呼び寄せるべく働きかけを始めたのです。

 シュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、1887年、南インドのタンジョール地方に生まれました。ですから、手紙では2歳ほどサバを読んでいた計算になります。父親は織物商の店員で、家は貧しく、家計はいつも火の車でした。けれども、最上位のバラモンの家系で、彼の母親はそれを誇りとし、一人息子にもその出自にふさわしい教育を施しました。

 彼は、母の期待通り、学校ではずば抜けた成績を収めました。しかし、15歳のときにG・S・カー(George Shoobridge Carr)の『純粋数学要覧(Synopsis of Pure and Applied Mathematics)』(1886)と出会い、人生の転機となります。この古めかしい本は学部の一年生くらいを対象とした公式集で、詳しい証明が省かれていました。彼はこれに没頭し、そこに載っている定理を独力で片っ端から研究していったのです。

 17歳のときに、クンバコナム大学に入学したものの、数学以外に興味を失っていた彼は1年で中退してしまいます。母親から泣いて懇願され、パシャイアパス大学に再入学しましたが、今度も1年で退学してしまいます。彼は、その後、22歳まで定職にも就かず、ぶらぶらし、新しい公式を発見してはノートに記録するという生活を送っています。今ならニートと呼ばれるところですが、母親としても、バラモンたるもの、卑しき労働に従事するよりも、勉強をしている方がいいと考えていたのです。

 ラマヌジャンは、22歳になり、9歳の少女ジャーナキと結婚します。当時、すでに女性の結婚年齢は、法律で、12歳以上に制限されていました。しかし、伝統を重んじる彼の母親はそんなものは無視し、息子にお膳立て結婚をさせます。女性は5歳から10歳までに結婚し、一旦実家に戻り、花嫁修業をしておき、初潮を迎えた後に、嫁入りするというのがバラモンの習慣だったのです。家族を養う必要に迫られた彼でしたが職探しも、数学研究の売り込みも、うまくいきません。しかし、何とか、数学愛好家のマドラス収税官に紹介を頼み、港湾事務所の食にありつきました。

 すぐに、周囲には、彼がとてつもない数学の才能の持ち主であることはわかりました。しかし、つかみどころがなく、どうやってやったら彼の才能を生かせるのか見当がつかなかったのです。一度コースから外れてしまうと、復帰するのは非常に困難です。そこで、英語が苦手な彼に代わり、友人たちがイギリスの著名な数学者に宛てて手紙を書くことにしました。けれども、婉曲な断りの返事が届くか、手紙がそのまま送り返されてくるだけでした。学歴もないインドの事務員が差出人でしたから、無理からぬ話です。

 ラマヌジャンは、危うく、第二のエヴァリスト・ガロアにさえなれないところでした。そんなときに彼に気をとめたのがハーディだったのです。

 英国からの使者が到着しても、ラマヌジャンは留学を承諾しませんでした。母親が反対したためです。ところが、ある日、彼女の夢枕に女神ナーマギリが現われ、英国行きの神託を伝えます。それを本当かどうか確かめるべく、この母子は女神の聖地ナーマッカルに巡礼し、そこで再び留学の啓示が告げられたのです。ラマヌジャンは、1914年3月、2年間の約束でイギリスに渡航していきます。

 ケンブリッジに到着したラマヌジャンはトリニティ・カレッジの寮に住み、毎日ハーディの研究室を訪れました。実際に会って見て、ハーディはこの浅黒い肌のずんぐりとした若者のすべてに驚かされてしまうのです。

 ラマヌジャンは証明が何たるかさえ理解していませんでした。直観一発で、公式を記すだけだったのです。なぜアイデアが浮かぶのかとハーディに聞かれて、夢の中で女神ナーマギリが囁くのだと答えています。彼が18世紀を生きているなら、それでも問題はないのですが、20世紀では証明の方が評価されます。ハーディには驚異的な才能に恵まれながら、ラマヌジャンが今まで無名でいた理由の一端を納得したのです。角を矯めて牛を殺してはなりません。そこで、証明を書き、論文に仕上げるのはハーディの役割となりました。彼らは共著で10本以上の論文を発表しています。ウィリー=コレットと異なり、これは、明らかに、共同作業でした。

 なお、現在でもラマヌジャンがノートや書類に遺した公式の証明作業が続けられています。しかも、証明後にその意味づけをしなければならないのですが、いつ終わるのかは誰にも予想がつきません。

 しかし、その一方で、独習だったせいで、ラマヌジャンの数学の知識には偏りがありました。学部の学生なら誰でも知っていなければならないコーシーの積分定理のような基本が身についていかったのです。極めてアンバランスな数学者でした。

 生活態度でもそのエキセントリックさは周囲を唖然とさせました。ハーディなど数人を除いて、会話をすることもあまりありませんでした。研究を終えると、ヒンドゥーの神々を祀った自室に戻り、インドの服装に着替え、自分で調理したバラモンにふさわしい菜食主義の料理を食べていたのです。もちろん、祈祷も欠かしません。さらに、30時間ぶっ通しで研究し、20時間眠り続けるという想像を絶するローテーションをすごしていました。

 南インドの生活スタイルを第一次世界大戦中のイギリスに持ち込むことは、当然、彼の健康にいいわけがありません。1917年、とうとう彼は結核に感染してしまいます。病院や療養所を転々とすることになるのです。

 妻から便りがないことが病床の彼をいっそう打ちのめしました。ケンブリッジの滞在が予定よりも長引きそうになったとき、ラマヌジャンは妻を呼び寄せようとしたのですが、母親から横槍が入り、実現しなかったのです。実は、インドでは嫁姑の争いが激しくなり、英国からの妻宛の手紙を母親が握りつぶし、彼女は郵便を送る小銭さえ嫁からとりあげていたのです。

 悪いことは重なるものです。ハーディはラマヌジャンがトリニティ・カレッジのフェローになれるようにと奔走しましたが、大学当局から却下されてしまいました。例外は許されなかったのです。

 絶望したラマヌジャンは地下鉄に身を投げます。けれども、すんでのところで急停車し、自殺は幸い未遂に終わります。

 どん底に陥ったラマヌジャンに、王立協会からフェローに選ばれたという知らせが届きます。心身共に衰弱していく彼が元気になってもらいたいとハーディが働きかけ、その努力が実ったのです。30歳での選出は、かのアイザック・ニュートンと同じです。

 しかし、病状は芳しくなく、病院や療養所にいる時間の方が長くなりました。

 ラマヌジャンは数学をするために生まれてきたような人間です。ある日、入院先にハーディが見舞いにきたとき、乗ったタクシーのナンバーが1729だったと話すと、目を輝かせ、ラマヌジャンは、1729は、1の3乗と12の3乗の和が9の3乗と10の3乗の和に等しく、二つの3乗数への分解が二種類ある最初の数ですと言ったのです。驚いたハーディが、それなら、4乗数だといくつになると尋ねると、ちょっと考えた後、彼は大きすぎてわかりませんと答えています。ラマヌジャンはすべてを数学として、もしくは数学によって、数学を通して認識してしまうのです。こういう人間は稀にいます。ハーディは、晩年、自分やリトルウッド、ダフィット・ヒルベルトではなく、ラマヌジャンこそ天性の数学者だと言っています。

 1919年3月、ラマヌジャンはインドに戻ります。しかし、もう回復の見込みはありませんでした。加えて、嫁姑の仲は依然として険悪で、彼が伏せている床の脇でさえ、口論する 有様でした。病床にありながらも、彼は公式を紙に記しています。生まれながらの数学者は命ある限り、女神ナーマギリの神託をこの世に伝え続けたのです。けれども、彼が女神 の元に旅立つ日が訪れてしまいます。1920年4月26日、シュリヴァーサ・ラマヌジャンは32歳という短い生涯を閉じたのです。

 ハーディは優秀な数学者であり、特に、解析学の領域では輝かしい業績を残しています。しかし、彼の最大の功績は、何と言っても、ラマヌジャンを発見したこととでしょう。彼自身もそう公言してはばかりませんでした。ハーディは歴史の中に埋もれかけていた無名のラマヌジャンを救い上げたことで、永遠に共に語られ続けていく栄誉を得たのです。ハーディ以外にもそれをつかむチャンスはありました。けれども、実際に、無名の才能を認めたのはハーディだけだったのです。無名だからと言って、見下してはいけません。同時代において無名のラマヌジャンを世に送り出したのは有名なハーディですが、彼を歴史に連れて行ったのはラマヌジャンの方なのです。

 しかし、ハーディが救ったのはラマヌジャンだけではありません。彼はカーの『純粋数学要覧』も同時に時の忘却から助け出したのです。確かに、何でこんな本から天性の数学者が誕生したのかと首を捻るような代物です。この凡庸な数学ガイドブックは、現在、ラマヌジャンを生み出した本としてのみ知られています。しかも、その筆者のカーについてはよくわかっていません。1837年に生まれたらしいのですが、いつ亡くなったのかさえも不詳のままなのです。彼はまさに歴史の中に埋もれていく寸前だったのです。けれども、ラマヌジャンを語る際に、カーの『純粋数学要覧』に触れないわけにはいきません。カーにとっては、まさに棚ボタです。

 「捨てる神あれば、拾う神あり」というのは、どうやら本当のようです。


<参考文献>

・ロバート・カニーゲル、『無限の天才―夭逝の数学者・ラマヌジャン』、田中靖夫訳、工作舎、1994年

・G・H・ハーディ=C・P・スノー、『ある数学者の生涯と弁明』、柳生孝昭訳、シュプリンガー・フェアラーク東京、1994年

・鹿島茂、『パリ・世紀末パノラマ館―エッフェル塔からチョコレートまで』、中公文庫、2000年

・森毅、『異説 数学者列伝』、ちくま学芸文庫、2001年




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