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所有権と裁量権
〜倫理性と公共性〜


佐藤清文

Seibun Satow

2009年2月8日


無断転載禁
本連載の著作者人格権及び著作権(財産権)は
すべて執筆者である佐藤清文氏にあります。


「所有して欲望を満たそうとするのは、藁で火をもみ消すようなものだ」。            中国の諺 

 1991年5月1日付『日本経済新聞』は、齊藤了英大昭和製紙(現日本製紙)名誉会長の不埒な発言を報道する。それは、この二代目社長がクリスティーズにおいて8250万ドルで落札したヴィンセント・ヴァン・ゴッホの『医師ガシェの肖像』に関して、「俺が死んだらゴッホとルノアールの絵も一緒に荼毘に伏してくれ」と言ったという記事である。このニュースは海外にも配信され、斎藤名誉会長に対する批難が世界的に高まっている。

 「何様のつもりだ?」と国内外からの厳しい糾弾に泡を食った東海の暴れん坊は、「この絵に対する情熱を表現した言葉の綾」と釈明し、死後は日本政府か美術館に寄付すると説明する。

 このワンマン経営者は、しかしながら、購入後、この名画の一般公開を一切行っていない。しかも、東京地裁から贈収賄罪の有罪判決を受けたこの人物が1996年3月に79歳で亡くなった後も、どこにも寄付されることはない。それどころか、遺族はこの絵画をサザビーズの非公開オークションで売却し、行方知れずとなってしまう。

 2007年、突然、その『医師ガシェの肖像』の所在が明らかとなる。同年1月に破産したアメリカのヘッジファンドの投資家ウォルフガング・フロットルから、この絵画をサザビーズが引き取ったというニュースが世界に流れる。

 昨今の世界的なリセッションの下では、購入希望者が現われる可能性は低く、現時点でも、サザビーズが保管していると見られている。けれども、田子の浦のヘドロ公害を起こした経営者が買って以来、結局、この『医師ガシェの肖像』は今日に至るまで一度も一般公開されていない。なお、同絵画の別ヴァージョンはオルセー美術館が所蔵している。

 この名画の不幸は、元々は、大昭和製紙を自分の持ち物のように扱い続けたこの実業家が所有を硬直的に考えていることから生じている。
 金田一秀穂杏林大学教授は、『「汚い」日本語講座』において、言語分析をする際に、所有には二つに次元があると次のように述べている。

 さて、同じケーキを頼んだとき、二人はそれぞれのケーキを所有する。相手の所有物には手を出してはいけない。一つではないから分け与えなくていい。余剰である同じものは、所属が決定されなければならない。

 しかし、所有には、よく考えると、二つの異なる次元があるように思われる。一つは、それが誰かに属する、ということ。もう一つは、それが誰かの自由な裁量権の下にあるということ、の二つである。

 一つずつ異なるケーキの場合、チーズケーキとチョコレートケーキは、それぞれ頼んだ人に属している。しかし、自由裁量権は、頼んだ人にではなく、その場合の二人が共有していると考えるのである。

 同じケーキの場合は、属している先も、自由裁量権も、それぞれ二人の個人にある、と考えるのである。

 所有しているのだから、それを自由にしてよいというわけにはいかない。『医師ガシェの肖像』は購入者の財産に属しているが、その自由裁量権は持っていない。この日本大学法学部の卒業生は所有権と裁量権を同じと考えているために、先のような発想に陥っている。

 所有権、すなわち財産権は、近代社会の誕生において、最も基本的な人権である。ジョン・ロックは、『市民政府二論』(1690)の中で、財産権の根拠を国家や社会からではなく、個人の労働に求めている。労働は個々人によって自然に所有されている以上、その人が労働を加えたものを所有する権利を有する。個人たらしめるのは財産権であり、それは不可侵とならざるを得ない。財産権に基づく自由で平等な個人が社会契約を結び、近代的な政治体制を誕生させる。所有権は私的領域に属し、それを教会や国家といった権力が侵害することは許されない。

 近代以前の所有権は一元的だけでなく、重層的・複合的な場合も少なくない。明治以前の日本の村落では、その周辺の山林から薪炭用の間伐材や堆肥用の落葉などを村民が伐採・利用し、管理している。これが「入会地」と呼ばれる共有地である。特定の所有者はいないため、所有権は一元的ではない。入会地は分割できない以上、譲渡も、売買もできない。世界的には、こうした入会権を持つ領域を「コモンズ」と総称している。

 近代的な財産権は政治だけでなく、新たな経済システムをも正当化し、後押しする。一元的な財産権が認められた土地・建物・商品・ザービスは、市場を通じて、自由に売買できるようになる。こういった経済活動は私的領域にある以上、教会や国家が干渉すべきではない。

 こうした市場経済では、誰のものかわからないものを売買することなどできない。16世紀から18世紀にかけて、英国の地主がコモンズを一方的に囲いこんで私有地化し、資本主義が勃興したように、入会権は市場経済と相容れない。市場経済を発達させるには、財産権の定義を明確にし、その対象範囲を拡大していかなければならない。

 現代経済学における理論上の問題はただ一つしかない。それは市場メカニズムの働きに関する原理と実際の齟齬についての考察である。一元的な所有権が明確に制度化・法律化されていなければ、市場経済原理の失敗を論じる前提が怪しくなる。

 金田一教授は、『「汚い」日本語講座』において、所有権を認めつつも、自由裁量権がそれに自明に伴うことはないと次のように述べている。

 自分の身体は、自分に自由裁量権がない。自分の命も自分に裁量権がない。だから自殺は罪なのである。他殺は怒ることが出来る。病死は仕方がない。自然のしたことであるから、悲しむことしか出来ない。

 電車の車内で化粧をする人がいて、顰蹙を買う。電車の車内の空間は、切符を買った人に属している。しかし、そこの裁量権は公共にある。化粧をする人は切符を買っている以上車内にいる権利を持っているし、その座席はその人に属している。しかし、そこで何をしてもいいというものではない。その空間を勝手に化粧室に変える権利、すなわち裁量権はその人にない。

 「それが誰かに属する」所有権と「誰かの自由な裁量権の下にある」裁量権は異なる。その自由な裁量権を持っているのは、対象に応じて、神だったり、自然、国際社会、世間、コミュニティ、先祖、将来世代などさまざまであるが、個人を超えた存在だと言える。
 裁量権は二つの要素から成り立っている。それは倫理性と公共性である。身体は自分の所有物であるとしても、その自由裁量権はない。倫理的に許されないからである。また、公共性の高い空間では、そこに身を置く所有権を持っていても、裁量権はない。

 日本では、官僚が頻繁に裁量行政を行う。市民がこの慣行に憤りを覚えるのは、霞ヶ関虎ノ門が、神の如く、倫理性と公共性に基づく裁量権を持っていると思っているからである。「天下り」なる政治用語は彼らの意識をよく表わしている。

 市場経済が所有権を明確に一元化するとしても、それと裁量権は別の次元にある。ところが、市場経済が浸透してくると、人々は所有権と裁量権をしばしば同一視してしまう。新自由主義経済が支配的になると共に、日本で「会社は誰のものか」という問いが議論されている。法的には決着がつき、現行の会社法では、会社は「株主」のものと規定されている。

 企業は利益を上げ、それを株主に還元しなければならない。経営陣がその義務を十分に果たしていない、もしくは怠っていると判断したならば、所有者として経営に干渉し、場合によっては役員の首を挿げ替える必要がある。

 所有しているんだから、利益を上げろと要求するのが当然だと考えたとき、実際には、それは投資ではなく、たんなる利殖にすぎない。グリーンメーラーはその典型である。利益という結果こそすべてであり、短期の業績評価によって経営陣の手腕が推し量られる。

 中長期的に必要な投資や人材育成、研究開発も経営者は軽視するようになる。とにかくコストカットが最優先である。必要なモノは自前でなくとも、アウトソーシングすればいい。

 さらに、人材も固定費ではなく、物件費、すなわち変動費とすれば、切り詰められる。それは「モノ」と同様の「ヒト」にすぎない。会社が所有しているのだから、自由に処理したってかまわないだろう。こうした論理は所有権さえあれば、裁量権もついてくるという前提に基づいている。

 企業や株主の社会的責任が問われるとき、そこには裁量権の眼に余る濫用が見られる。裁量権は倫理性と公共性に則っている。2009年2月4日、バラク・オバマ米国大統領は、公的資金を受けた金融機関が合計184億ドルもの高額報酬を幹部に支払ったことを痛烈に批判している。

 「基本常識として受け入れてもらいたい。成功は報いられるべきだが、経営幹部たちは失敗に対して報酬を得ている」。経営に失敗して、納税者に尻拭いしてもらっているのだから、「常識」で考えると、彼らにはそんな裁量権はないというわけだ。「強欲資本主義」の強欲さには、所有権と裁量権の同一視が見られる。裁量権を十分に理解していないということは、倫理性と公共性を考慮していない証拠である。

 そんな社会性のない経営者や株主が大手を振っていられるとしたら、世も末である。経済活動においても、所有権だけではなく、裁量権の問題を再検討すべきであろう。

 所有権と裁量権はセット販売されていないし、前者を買えば、後者がおまけについてくるわけでもない。裁量権は、言うまでもなく、所有権ほど単純ではない。複数の考え方に基づく裁量権があり得るし、それらが対立することさえ少なくない。

 金田一教授は、『「汚い」日本語講座』において、裁量権には「段階性」があると次のように述べている。

 属することと裁量権は異なる。属してもいて、裁量権もあるという所有形態もあるが、属するけれど裁量権はない、という所有の形もある。
 私たちは、私たちのものを持っている。しかし、その裁量権まで持っている物は、あまり多くないのではないか。裁量権には段階性がある。また、その文化によって、どこまで裁量権なのか、異なる。“心臓”の裁量権は欧米の場合、その人、あるいは社会が持っている。だから移植も自由に行いやすい。

 しかし日本では、心臓の裁量権が社会や人でなく、自然にあるという考えが根強いから、移植手術もあまり行われない。一方、胎児の裁量権は日本ではみごもった母親にあるので、中絶手術が簡単に行われる。キリスト教社会では、神聖受胎の伝説が信じられている手前、胎児になった瞬間、その命は神のものになり、神が自由裁量を持つから、人による中絶に反対する人が多い。

 裁量権には「階層性」があり、また、文化によってその根拠が異なる。社会的な論争の中には、この裁量権をめぐって争われているものも少なくない。所有権と裁量権が同一であるなら、こうした事態は起きないに違いない。しかし、裁量権は倫理性と公共性に基づいている以上、それは避けられない。コミュニケーションを行い、討議し、倫理性と公共性をその都度再検討していくほかない。それは、所有権と裁量権を同一視する風潮に脅かされた社会にとって、好ましい契機でさえある。

 現代社会では、公私をどのように分けるのかがしばしば問われている。政治学にしろ、経済学にしろ、その区別は大きな課題の一つである。しかし、所有権と裁量権の関係性の再構築は、公共性のみならず、倫理性も議題に載るため、それを内包している。裁量権を考えることは、今後の社会をどのように形作っていくのかという展望につながる。〈了〉

参考文献

金田一秀穂、『「汚い」日本語講座』、新潮新書、2008年
シンシア・ソールツマン 、『ゴッホ「医師ガシェの肖像」の流転』、島田三蔵訳、文春文庫、1999年