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生み出された少子化


佐藤清文

Seibun Satow

2010年10月25日


初出:独立系メディア E-wave Tokyo
無断転載禁


「少なく生んで豊かな暮し 一姫二太郎三サンソー」

サンシーコンド−ム


第1章 短すぎるベビー・ブーム

 2010年10月1日を期して「平成22年国勢調査」が始まっている。人口減少社会に突入して初めての国勢調査である。日本が急速なスピードで少子高齢化の人口構成に陥っていることはすでによく知られている。少子高齢化は先進国にほぼ共通して見られる現象であるが、日本ではなぜこれほど速く進んだのかという問いがメディア上で言及されることは必ずしも多くない。

 少子化の一つの要因として考えられるのが短すぎるベビー・ブームである。日本では、「団塊の世代」と呼ぶように、ベビー・ブームが47〜49年で終わっている。けれども、アメリカでは50年代に入ってからも続くし、欧州もこんなに急に低下していない。東アジア諸国に至っては、合計特殊出生率は率5を持続している。当時の日本の出生動向は、国際的に見て、かなり特異な状態だったと言える。

 しかも、49年と言えば、まだ占領下であり、経済成長を迎えるかなり前である。経済成長に連れて出生率が低下してくる現象は理解できる。産業構造が高次化し、子どもはもはや稼ぎ手ではない。しかも、公衆衛生の制度も整備し、乳幼児死亡率が改善する。産業構造の変化は子どもに高学歴化を促し、教育期間の長期化に伴い、晩婚化が進む。非常に単純な図式であるが、こうした流れによって出生率は低下する。早すぎるベビー・ブームの終焉が経済成長の到来と直接的に関係していないとすれば、別の理由を探す必要があろう。

 高度経済成長と人口構成の推移をもう少し詳しく見てみよう。

 まず、普通世帯の平均人員から始める。普通世帯の平均人員は第1回国勢調査が行われた1820年から55年まで5人弱とほぼ安定している。しかし、そこから70年に3.69人へ激減し、2000年には2.71人まで減っている。普通世帯に占める核家族の割合は60年代から上昇し、今日では、世帯人員が2人ないし1人の「小家族の時代」である。普通世帯の平均人員を見れば、高度経済成長の進展と共に減少している。

 次に、出生率に関する諸データを検討しよう。普通出生率・合計特殊出生率・純再生産率は戦前から1940年代まで同じ水準を維持している。なお、戦前の乳児死亡率の全国平均は約20%である。ところが、49年から59年の10年間に激変が起きている。普通出生率が33.0%から17.5%、合計特殊出生率が4.32から2.04へと半減し、それにより、純再生産率は56年には1.00を下回り、人口の単純再生産を維持できない事態に入っている。幼年人口の急激な減少は、それまで保たれていたピラミッド型の人口構成を崩し、筒型の形状へと変容させる。56年はまだ高度経済成長の前兆さえ現われていない時期である。

 高度経済成長前の出生率の低下は、その来るべき時代に適合した人口構成を用意したと考えるべきだろう。従来一定だった15歳から64歳の生産年齢人口が高度経済成長を迎えた60年代から急速に増加し始め、その全体に占める青壮年の比率を上昇、生産中心型の産業構造に適した人口構成を実現する。加えて、幼少年人口の減少は養育・教育費の社会的負担を減らし、それを生産活動に振り向けられる。高度経済成長の環境は、人口構成の面ではこう整備される。

 以上のように、日本では経済成長と人口動向の順序が逆転している。早すぎるベビー・ブームの終焉には、経済成長以外の理由を考える必要がある。そこで浮上してくるのが人工妊娠中絶の規制緩和である。


第2章 50年代の人工妊娠中絶の状況

 1948年、優生保護法が施行される。この法律には、1940年に成立した国民優勢法のファシズム的側面と「母性保護」の戦後民主主義的な側面が並存している。後者は、1880年以来の堕胎罪の適用を条件付きで回避することを初めて可能にする。49年、優生保護法が改正され、14条1項に「経済的理由」が認められる。51年以降に行われた人工妊娠中絶の99%がこの社会的理由に基づいている。96年、著しく偏見に満ち溢れた「優生」条項が削除され、名称も「母体保護法」に改正されている。言うまでもなく、堕胎罪は現在でも生きている。
 
 中絶件数は、届けられたものに限定すると、53年に100万件を突破して以降、61年までその大台超えが続く。その後は減少し、最近では20万件代前半にまで減っている。とりわけ50年代前半に急増し、それは出生率の激減とシンクロしている。対出生比がさらに増加を続け、57年には71.6%に達している。出生数と中絶数を合わせると、終戦直後の出生数にほぼ等しい。

 闇中絶の件数を調べることは難しいが、届出のあったものを上回ると推測されている。53年では、中川清同志社大学教授の『現代の生活問題』によると、報告数が107万弱、闇を合わせた総数は180万〜230万件と推計されている。

 これだけ多いと、経験者も少数派ではないだろうと推理できる。実数の把握は困難であるが、新聞や雑誌の行った社会調査の結果はその仮説の妥当性を裏付けている。毎日新聞が有配偶者女性を対象に実施した「全国家族計画世論調査によると、52年に15.4%、57年に29.7%、61年に40.8%のピークに達した後、30%前後で推移している。その詳しい年齢層別のデータになると、旧厚生省の人口問題研究所(現国立社会保障・人口問題研究所)等が公表していた統計を読み解くことで把握できる。中川教授は、『現代の生活問題』において、55年を例に提示している。20歳代後半と30歳代前半が中絶件数全体の過半数を占めるが、出生数に対する中絶割合は30歳代前半が84.8%と急上昇し、30歳代後半ともなると、163.0%で、中絶件数が出生数を上回っている。また、中川教授は、50年代を通して、中絶経験率は年齢とすでに産んだ子どもの数との相関関係が見られると指摘する。30歳代前半の4割、30歳代後半では約5割がそれぞれ経験し、子ども数が2人で45%強、3人以上になると、50%を越える。50年代に30歳代だった女性の間では中絶経験が決して珍しいものではない。


第3章 2人っ子イデオロギー

 50年代の中絶増加を女性の意識の変化と捉えるべきではない。これには、戦前から続く政府と世論の間で共有されていた人口過剰という言説がある。

 戦前、日本が経済成長できないのは、人口が多すぎるためだと官民共に信じられている。狭い国土に多すぎる人口が密集し、慢性的に食糧不足に陥っている。この解決策として採用されたのが移民や大陸への殖民である。この流れに対し、石橋湛山は『我に移民の必要なし』(1913)で厳しく批判する。産業政策がお粗末なために、せっかくの人口を生かせていないのが問題である。産業化によって過剰人口を吸収し、アメリカを始めとする世界の市場に生産物を輸出して国を発展させるべきである。けれども、毎度のことながら、この湛山の先見性は無視される。

 『我に移民の必要なし』が発表された1913年までの日本の経済成長率は年平均1〜2%程度である。翌年に欧州で大戦が始まり、日本はその特需景気に沸く。けれども、国際競争力をつけたわけではなかったので、戦争が終わると、信頼性の乏しい日本製品は海外市場から選ばれなくなる。

 かつてのMade in Japanへの信頼性は、今日では信じられないほど低い。湛山自身も、『和製のライター』(1956)において、第二次鳩山一郎内閣で通産大臣を務めた祭、立場上国産品を使わざるを得なかったが、まったく信頼していなかったと回想している。このエッセーを書いた頃に、ようやく湛山も国産品に信用を置くようになっている。

 1930年代の戦時下では、人口は戦争遂行のために多いほどよいとして、「産めよ増やせよ」が奨励される。ところが、敗戦と共に、状況は一変する。日本の戦死者185万人、負傷・行方不明者67万人、空襲などにより離散者875万人に上ると共に、膨大な数の失業者の発生が見こまれている。軍人360万人と軍需産業従事者160万人が職を失い、外地から650万人が着の身着のままで引揚げてくる。にもかかわらず、44年と45年は米が不作で、例年の60%しか収穫できていない。加えて、国富は40%が喪失し、1935年の水準にまで下落、原材料ストックに至っては、4分の1が失われ、1935年の80%にまで落ちこんでいる。さらに、鉱工業生産力は最盛期のわずか10%しかない。敗戦国日本は経済制裁を受けている状態であり、原材料と燃料は国内だけで調達しなければならず、製品も内需頼みという有様である。

 1946年、GHQの公共衛生福祉局長クロフォード・サムス准将は、深刻な食糧不足を解決するために過剰人口問題の打開策を日本側に提言する。それは、工業開発・食料輸入。海外移民、人口増加防止・産児制限の三つである。燃え上がる食料デモにたまりかねたGHQはアメリカ本国に緊急食糧援助を要請し、この支援は朝鮮戦争勃発まで続けられる。

 49年、人口問題審議会は、産児調整と個々の家庭経済の利益を結合した建議を示している。マクロ的課題である人口問題とミクロ的課題である生活問題が結びつけられるという危うい論理が展開される中で、中絶の規制緩和が実施される。国家的課題が家庭という私的な空間に入りこむ。人口抑制は自分たちの暮らしを豊かにする。個人的合理性と社会的合理性がなかなか一致しないというのが経済学の悩みの種だが、少産にはそれがあると政府が言うのだから、歯止めが効かなくなる危険性を軽視していたのだろう。54年の建議になると、中絶の一般化を認めた上で、受胎調節の方法の普及を訴えている。

 戦後の海外移民や北朝鮮への帰還事業もこうした人口政策の一環でもあったことは、今さら言うまでもないだろう。

 マスメディアがこの状況をさらに促進させる。社会調査は、対象集団の特性を調べるために、実施されるのが通例である。しかし、自分の国の人口が多すぎると思うかという設問はこの目的に当てはまらない。調査自体が目的として用いられている。方向付けした設問を設定し、対象集団に特定の問題意識を共有・強化させる。60年代の学生運動の際に、自治会が学生に対してしばしばとった手法である。人口問題をめぐってマスメディアはそれを行ったわけだが、これは世論誘導である。

 49年に朝日新聞が人口についての世論調査を始めたのを皮切りに、他の報道機関も加わり、合わせると毎年のように実施されている。この間、過剰人口と考える回答はつねに半分を超えている。眼を惹くのは毎日新聞の設問である。必ず理想の子ども数が入っている。毎日新聞は、結果の総括等で、3人以上は多く、2人が理想と誘導している。もっとも、この隠された2人っ子イデオロギーが見られるのは毎日新聞に限らない。他の新聞や雑誌の記事でも、子どもの数は3人以上では多いという主張が時々飛び出してくる。日本は人口過剰で子どもの数は2人までという2人っ子イデオロギーが、反復される世論調査とその結果ならびに総括を通じて、内面化される。

 なお、マスメディアも人口減が将来問題となることは自覚しており、世論調査の総括に目立たなく触れている。これは保険会社の約款程度のアリバイづくりにすぎない。

 だからと言って、当時の女性たちが別に積極的に人工妊娠中絶をしていたわけではない。50年に実施された毎日新聞の世論調査でも、家族計画に賛成する回答が60%を超えているが、その内訳は産児制限、次に避妊、最後に中絶である。中絶はあくまでも最後の手段である。少産が奨励されながらも、避妊に関する医学的な知識の啓蒙が不十分だった時代を考慮する必要がある。中絶の一般化とそれを選択するに至る過程とを同一視すべきではない。実際、確実な避妊方法が普及するにつれ、中絶件数は減っている。


第4章 後の祭り

 60年代から70年代と時が進んでも、映画やテレビ、ラジオ、新聞、雑誌、マンガなどで繰り返し、狭い国土に多すぎる人口といった言説が流される。制作側に意図があったわけではないだろう。これまでに政府はそういう姿勢をとったし、住宅不足や交通渋滞などを見れば、人口がまだ多すぎるとしか思えない。イデオロギーは一度浸透してしまうと、それを覆すのが難しい。

 人口減少の兆候が確実に見え始めた1970年代、政府は人工妊娠中絶の制限を厳しくしようと動き出すが、失敗する。これはまったく愚かだったと言うほかない。世論調査でも、理想と現実の子ども数が逆転し、前者が後者よりも多くなっている。産みたいが産めない状況が生まれている。意欲を実現するための環境整備の政策を講じなければならない。70年代は最も受験競争が激化し、「受験戦争」とさえ言われたほどである。子どもの養育・教育費の家庭負担を軽減する政策を施行すべきだったが、そういったことは実現していない。ミルトン・フリードマンは、こうした状況の日本を彼の提唱する新自由主義を最も実践する国と絶賛する。

 急速な少子化は戦争のつけだと言える。経済成長の中で、それを清算すべきだったが、政治は先延ばしする。将来世代への投資を怠り、目先にとらわれて、負担を増やし続ける。

 07年のOECDの統計によると、教育への公的支出の対GDP比は加盟国中最下位である。過去に遡っても、日本はこの部門でドベかブービーが指定席である。逆に、私的支出は平均を大きく上回り、上位にランクされている。特に、就学前と大学期の負担が著しい。前者の場合、保育は家庭の責任という社会的通念、後者では、あまりにも貧弱な奨学金制度が原因と推測される。

 養育・教育費の公的支出を増やさなかった理由の一つには、自民党の支持団体に教育関係が少なかったこともあるだろう。それどころか、学校は自民党に対する批判勢力の主要な拠点でもある。2009年、教育関係も支持団体に名を連ねる民主党を中心とした政権が誕生し、私的負担の軽減政策を打ち出そうとしたが、そうすんなりとは実現できない。しかも、野党どころか、かつて少子化を煽ったメディアも財源をどうするのかとわめきたてる。

 このままでは将来世代はさらに先細ってしまうと、養育・教育の私的負担軽減に向けて民間や自治体も策を講じている。政治も米百俵の逸話が教育の教訓だということをいい加減に思い出してよい。

 現在、世界の各地で、少子高齢化に伴う人口減が起きている。中でも、シンガポールや台湾、香港、韓国などの進展が速い。しかし、少子高齢化のスピードでは、日本が先頭を走っている。日本の少子高齢化への対応は世界に示すモデルとなり得る。

 それを最も注視しているのは、言うまでもなく、1人っ子政策の中国である。中国は日本に将来の自分の姿を重ね合わせている。

〈了〉

参照文献
石橋湛山、『湛山評論集』、岩波文庫、1984年
谷沢永一編、『石橋湛山著作集4』、東洋経済新報社、1995年
多々良浩三他、『新訂版公衆衛生』、放送大学教育振興会、2005年
中川清、『現代の生活問題』、放送大学教育振興会、2007年
M・フリードマン他、『フリードマンの日本診断』、講談社、1981年
厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/